ep.2 海底の楽園
夜光草の灯りが薄くなり、海面が煌めき始める。
早朝の海流が海草を揺らし、そこに住まう小魚や巻貝たちを起床へと誘った。
朝食を探しに出た小さな生き物たちが、急に頭上に発生した水流によろめき、文句を言いたげに上を見上げる。彼らと海面との間には、楽しげな声を上げながら、人魚の子供たちが戯れていた。
リュアの一日が今日も始まった。
人魚族の暮らす深海からずっと上の方、さざめく海面よりも遥かに果てにある太陽が、水中に光を差し込ませる。姿を屈折させながら、やがて海底宮殿の天窓を抜けて、陽射しはセレイアの顔まで到達した。
「ん……んー……」
眩しさにより眠りを阻害されたセレイアが、寝台の上で身じろぎした。
あまりの眠気に、どうにかもう一度眠りにつけないかと往生際悪くしばらく粘ってみる。そんな思惑とは裏腹に、次第に覚醒し始めた耳が室外の音を拾った。部屋まで漏れ聞こえてくる侍女たちのいつもの世間話は、すっかり日が昇りきっていることを示していた。
セレイアははっと目を開いて飛び起きる。自室に設けられた天窓から太陽の位置を確認して大きく肩を落とした。尾ひれで軽く寝台を蹴ってそこから滑り出ると、軽く身支度を整えてから、与えられた広い部屋を後にする。
「セレイア姫様、ご起床されましたか」
すぐに、部屋の前に控えていた侍女のうちの一人が、セレイアに気がついて声をかけた。
「ええ、おはよう。えっと、ルヴィ……メルヴィナちゃんは? 姿が見えないのだけれど、お父様のところに?」
「はい。早朝に国王様の間に入って行かれました。何でも西の珊瑚の辺りで、魚を獲る船を見かけられたとか……本当に、何度痛い目を見ても懲りない種族です。嵐でも何でもやってきて、早く滅んでしまえばいいものを」
侍女の苦言に他の人魚たちも大きく頷く。セレイアは少し困ったような笑みを浮かべながら、彼女たちに礼を告げた。
「分かった、ありがとう。多分もうメルヴィナちゃんに言われたと思うけれど、事実がはっきりするまでは誰もその辺りには近づかないようにね」
「ええ、ええ。皆にもそのように伝えておりますよ。セレイア姫様もどうぞご注意なさってください。それから……恐れながら、失礼致します」
そう言って侍女の一人が、セレイアの曲がった髪飾りを直し、ついでにまだ少し乱れたままの髪を整える。代わる代わる差し伸ばされる彼女たちの手によって、あっという間にセレイアの長い金髪はいつもの輝きを取り戻した。
成人して随分経つというのに、相変わらず身支度が不得意な姫君の全身を舐めるように見てから、侍女たちが何やら満足げに頷く。セレイアは恥ずかしそうに頬を染めると、彼女らに再度礼を述べた。
「あっ、ルヴィ――」
「しっ! こっち来て」
王の部屋へと続く回廊で遭遇した、漆黒の髪を携えた少女は、セレイアの姿を認めるなりそう鋭く一喝した。
険しい表情の少女、メルヴィナに腕を掴まれ、少し離れた場所へと連れて来られてから、セレイアがまた困ったような笑みを浮かべる。
「おはよう、ルヴィちゃん。えっとそれで、西の珊瑚のところで、また人間の船を見たって」
「そうよ、しかも網を撒いて魚を獲って、希少な紅の珊瑚まで壊して行ったものだから、お父様は大層ご立腹よ。悪いこと言わないから、姉さんはしばらく国王の間に近づかない方がいいわ」
「……この間、人間の宝石を拾って帰ったこと、まだ怒っていらっしゃる?」
「昨日、姉さんが港町の近くまで行ったこともね。同じことのないように、哨戒の兵を増やすって。……あっ、あたしが言ったんじゃないわよ。多分誰かが見かけて、爺やにでも報告したんでしょ、まったく」
そう言ってメルヴィナは一層不機嫌そうに口を尖らせ、ぶつぶつと文句のようなものを漏らした。
セレイアはくすくすと笑い、身体の前で組まれたメルヴィナの腕を解かせると、柔らかな両手を自らの両手で掬うように握る。
「もちろんルヴィちゃんがばらしたなんて思ってないよ。ごめんね、次はもっと上手くやるから。また庇ってくれて、ありがとう」
「言っても無駄なことはとっくに理解してるけど、毎回謝るぐらいなら、危ないところにふらふら出歩かないで欲しいわ。それよりも体調は?」
「うん、今日はすごく調子がいいの。ふふ、本当にありがとう、ルヴィちゃん」
ぎゅっと握る手の力を強めて、セレイアが嬉しそうに目を細める。メルヴィナは何も答えず、ぷいとそっぽを向いた。
海を統べるリュアの民と、陸に繁栄する人間との間には、古くから諍いが絶えない。
この度の件も、人間が協定を破ってリュアの領域を侵犯したことに端を発しており、二人の父である王の怒りは暫くは冷めやらないだろうとメルヴィナはため息混じりに告げた。
メルヴィナと共に王宮を出ながら、セレイアがくるりと背後を振り返る。宮殿を包む海水は、確かにいつもよりも荒く逆巻いており、父の憤怒が感じ取れた。
「紅珊瑚の庭なら、人間の港町の方角と近いから。お父様は大層わたしの身を案じられたはずだわ。ごめんね、ルヴィちゃん。あの荒波は、きっと半分はわたしのせいね」
「それは本当にそう。でも、だからって姉さんが直接お父様を説得に行くのはやめて。事態が悪化したことしかないでしょ」
そう厳しい声で妹に釘を刺され、セレイアはちょうど提案しかけた文言をぐっと飲み込む。
ほとんど仰向けの体勢で、すっかり泡飛沫に覆われた宮殿を見ながら、セレイアのひれが水を蹴った。それにより生まれ出た小さな渦は、細かな泡だけを残して掻き消え、それらもやがて吸い込まれるように宮殿の方へと消えていった。
◇
セレイアとメルヴィナの身体が横並びになって海中を進む。
周囲の巡回をしながら、近々行われる歌の儀式について話していた二人の耳に、賑やかな喧騒が聞こえ始めた。
王宮から少し離れた海域、リュアの民が多く住まうこの辺りには、いつも大勢の人魚たちが集っている。
「そろそろ黒真珠の季節ね。ルヴィちゃん、好きだったでしょう?」
貝や真珠がやり取りされている市場を指差して、セレイアが問いかけた。
メルヴィナは姉の指先を一瞥すると、顔を顰めてため息を吐く。
「去年に比べて、流通量がずっと少ないわ。きっと人間の密猟のせいよ」
「詳しい原因はまだ調査中だったはずだよ、ルヴィちゃん。植生地に人間の船が入った痕跡は見当たらなかったけれど……」
「はあ……またふらふら出歩いたのね。姉さん、あの辺りは人間の蔓延る陸地に近いの。視察ならせめて衛兵をつけてよ」
横目で睨む妹に、ごめんと軽く謝ってから、セレイアは再び里の方へと視線を向けた。
老若男女の人魚が海底を行き交い、浮かぶ泡沫には笑い声や歌声が混じっている。
ふと、その中に見知った人影を見つけて、セレイアが軽く手を振った。子供たちはすぐにこちらに気がつき、複数の小さな手が振り返される。
「ふふ、みんなで歌の練習ね。前に聞かせてもらった時よりも、ずっと上手になってるわ」
「……聞いたわよ、姉さん。また王位のことで、あの子たちに適当言ったでしょう」
楽しそうに笑う姉に向き直ると、メルヴィナが先程までより低い声で問う。
そんなことないよ、とセレイアは振り返った。
「ただ、『次期女王はメルヴィナちゃんって噂が本当か』って聞かれたから、『それはお父様が決められることよ』って答えただけ」
「それが適当だって言うのよ。次の女王はセレイア姉さんに決まってるでしょ。根も葉もない噂を増長させるのはやめて。お父様の耳に入ったら、あの子たちが叱られるだけじゃ済まないわよ」
「うん、そうだね。ごめんね、ルヴィちゃん。次は気をつけるね」
「もう百回は聞いたわ、そのセリフ」
少しだけ不機嫌そうにそう答え、メルヴィナが水を蹴って進む。
その後を追いかけるセレイアの背中に、ばらついた歌声の合間から、子供の呼びかける声が届いた。
「セレイア姉ー! また今度、歌を教えてねー!」
ばしゃばしゃと激しく水を蹴る複数の小さなひれに、セレイアは笑顔で手を挙げ、彼らが苦心している様子のフレーズを歌って返した。
海底を一通り見回ってから、セレイアとメルヴィナは最後に入り江の方へと向かう。
その辺りは陸地を統べる人間族との領地の境であり、ちょうど今の時期は、繁殖期に入った獰猛な海獣が出没することが多い。そのため、人間族の間では近寄ることを禁じられているという。
海の生物たちの様子を確認しながら、セレイアとメルヴィナが海面の方へと上昇する。次第に強くなる太陽の光に、メルヴィナが不快そうに顔を顰めた。
セレイアは隣を泳ぐ妹の表情に気が付くと、彼女と海面との間に入ってくるりと振り向く。
「やっぱり眩しい? この先はわたしが一人で見てこようか?」
「いつもいつも姉さんばかりに任せてられないわ。それに、また遅くまで出歩かれると困るもの。どうせついでに散策しようとしてるでしょ」
ぐいとセレイアを押し除けて、メルヴィナが入り江の方角へと泳ぐ。
すぐにその隣へと追いつくと、セレイアはくすくすと笑った。
「ふふ、当たり。前回来た時に、素敵な岩場を見つけたの。ルヴィちゃんにも見せたいな。空が大きく広がって、遠くの方にお城が見えるの」
「嫌よ。あたしは姉さんと違って、真っ当な人魚族なの。他種族になんて興味ないし、特に人間は大っ嫌い」
珊瑚の庭の件だけでない、普段からどれだけ迷惑を被っているかと、メルヴィナは眉を寄せたままぶつぶつと続ける。
「可愛いお顔が台無しだよ、ルヴィちゃん」
「それはどうも。そんなことより、そろそろ王位の話も真面目に考えてよね。姉さんの性格は理解してるけど、でも姉妹はあたしたちだけでしょ。姉さんがふらふらしてると、リュアの民は皆困り果てるわ」
「お父様にはわたしだけじゃなくて、ルヴィちゃんもいるじゃない」
「冗談。能力無しのあたしを後継にだなんて、そんなのお父様が許すはずないでしょ」
メルヴィナが少し苛立たしそうにそう呟いた。
セレイアは海中を進んでいた身体を停止させ、腕組みをしてその場に直立する。
「ルヴィちゃん。ルヴィちゃんの魔力は誰よりも綺麗だわ。王位なんて正直さっぱり興味ないけれど、でもわたしの大好きな人を悪く言うのは、いくらルヴィちゃんでも許さないわ」
「……」
「もう……分かったよ、じゃあルヴィちゃんの好きなところを挙げるね。目が綺麗なところでしょ、歌の練習に一生懸命なところ、泳ぐのも速いし、優しいし、頑張り屋さんだし、いつもわたしを庇ってくれるし、それから――」
「分かった、分かったから! 子供じゃないんだからやめてって言ってるでしょ!」
そっぽを向いていたメルヴィナが、ついに耐えられないと両手でセレイアの口を抑えた。
口を覆う白い手をそっと外すと、セレイアはそれらを包むように握って目を細める。
「ね、ルヴィちゃん。もしルヴィちゃんが王様をやりたいって言うのなら、わたし、何だって力になるよ。お父様のことも、わたしが説得してあげる」
「それは本当に話がややこしくなるからやめてって言ってるでしょ。姉さんはとにかく、交渉ごとが下手なんだから」
それよりも儀式の日取りを忘れるなと言うメルヴィナに、セレイアは苦笑いを浮かべながら頷いた。
日の差す水面に向かって、セレイアがのんびりと進む。尾ひれが上下するのに合わせて、唇の隙間から音が漏れ出た。
やがて旋律を奏でながら、セレイアが振り返る。歌を止めぬまま、白い両腕がメルヴィナへと伸ばされた。すぐに姉の意図を察したメルヴィナは、ほんの少し呆れたように肩を竦めてから、差し出された両手を取る。
二つの柔らかな身体が、重なる音色を響かせながらゆっくりと浮上する。音を聞きつけ寄ってきた小さな魚たちが、金と黒の髪の間をすり抜けた。
薄布のような尾ひれ同士がするりと重なった時、セレイアが何か悪戯を思い付いた子供のように笑った。不意に歌声が止んだかと思うと、セレイアはメルヴィナの手を握ったまま、ぐんと上昇する。
「わっ……ちょっと……!」
慌てたメルヴィナが手を振り解く間もなく、二人の身体は勢いよく水面を割り、青空に弧を描いて、再び海中へと消えた。
乱れた髪を抑えて抗議する妹に、セレイアは楽しそうにくすくすと笑った。