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ep.13 泡沫の平穏

 日の登り始めた海面は煌々と輝いている。さざ波に反射した光が不規則に揺らめいていたが、やがてそれらがひとところに集まっていったかと思うと、水面が大きく盛り上がり始めた。


 海中に、低く猛々しい歌が響いている。この振動を歌だと判断できるのは、きっと彼の血に連なる存在だけであり、例えば危険を察知して逃げて行った魚たちには得体の知れぬ脅威にしか映らなかったろう。海面へと急いで向かいながら、セレイアはそんなことを思った。


「――!」


「……、――――!」


 セレイアが大荒れする海面から顔を出す。遠く陸の方から、騒動と混乱が風に乗って聞こえた。

 人間であれば一瞬で海底に引き摺り込まれてしまうような、すっかり怒り狂った海で、セレイアは器用に尾ひれで体勢を整える。海面から上体を出し、じっと見つめる視線の先で、山の方へと灯りが逃げて行くのが確認できた。


「良かった……避難は何とか、間に合ったみたい」


 セレイアが安堵の息を吐く。漁村の人間たちを先導しているであろう兵の中に、ノアリスやカイルラスの姿もあるだろうか。彼らに危険を伝えることだけで精一杯で、この事態を阻止することはやはり出来なかった。


 父の起こした嵐による大波が、あっという間に沿岸の村を飲み込んだ。大海を統べる者の前に、人間の作った小さな防波堤など、何の障害にもなりはしない。たったの一波で、幾つかあった小屋は海の藻屑と化した。


 その光景を無言で見つめ、やがて海が静かになった頃に、セレイアは海中へと姿を消した


 ◇

  

 メルヴィナが入り江の交流に参加するようになってから、一年の半分が過ぎた。


 その間に、七艘の船が沈められ、二つの珊瑚庭が翡翠貝に覆われ立ち入れなくなった。

 しかし、いずれも小競り合いであり、国を挙げての戦争には何とか至っていない。そんな状況だった。

 


 浜の岩場を挟んで、メルヴィナとノアリスが言い合っている。ちょうど先週に大波に飲まれた漁村に関する話だった。


「何とか避難勧告が間に合ったからいいものの、村はほぼ壊滅状態だ。お父上の相変わらずの短気は、もう少しどうにかならないか」


「だからあたしは言ったでしょ。この時期に船を出させるなって。リュアは自分の領分を侵食されるのが大嫌いなの。あと二週間は漁は禁じられてるはずよ」


「キミも知ってるだろ。今年は海が荒れた上に陸にも寒害があった。人間は食料が無いと死ぬんだよ」


「それをどうにかするのが、あなたの仕事でしょう。国庫の蓄えはどうなってるの」


「それは、詳しいことは話せないが……正直芳しく無い」


 少し苛立たしげにノアリスが自分の黒髪を掻く。


 セレイアは二人からそっと距離を取ると、カイルラスへと囁いた。


「この間、また怪我をしていたわよね。戦があって、それで蓄えが少なくなってるの?」


「……」


 カイルラスは何も答えなかったが、それを返答として受け取ると、セレイアは困ったように眉根を下げた。


「どうして、っていうのは、少しは分かってきたつもりだけれど。でもそうすると、避難した村のヒトたちも困るわ」


「……だからと言って、また漁場を教えるようなことはするな。帝国の問題はノアリスの解決すべき課題だ」


「友達が困っているのよ。手を差し伸べることもダメ?」


「差し伸べ時を考えろと言っている。あいつは、あれでいて自国のことをよく考える男だ。不意に魔が差し、お前たちを利用せんとも限らん」


「ふふ、カイルラス。嬉しいけれど、やっぱりあなたも少し疲れているわ。翼騎士団を率いるあなたが、はっきりと帝国の不利益になることを言うはずはないもの」


 聞かなかったことにする、とセレイアが笑うと、カイルラスは渋々とため息を吐いた。


 セレイアはするりと鉤爪を撫でてから、すっかり疲労した様子のノアリスを呼ぶ。あなたを信頼している、と前置いた上で、この時期リュアの衛兵が見回らない小さな漁場をこっそりと伝えた。


 ◇


「それにしても……メルヴィナの学習能力は凄まじいな。今ならもう城の書庫すら片っ端から読み漁れそうだ」


 そう言ってノアリスが片目を閉じると、メルヴィナは心底嫌そうな顔をしてそっぽを向いた。

 セレイアが大きく頷き、ずいとノアリスの方へ身を乗り出す。


「そうなの! メルヴィナちゃんはずっと勉強熱心で、治癒の魔力も海で一番で、わたしもいつも助けられてるの」


「やめてってば。治癒なんて人魚なら誰だって簡単に……ごめん、姉さんのことが言いたかったんじゃないわ」


 居心地悪そうに賛辞を否定していたメルヴィナは、言葉の途中で顔を顰めた。


 困ったように笑うセレイアの頭に、ぽんと手が置かれる。


「そういや、セレイアは色々忘れちまってるって話だったな。こんなことを言えばまた怒られるんだろうが……でもオレとしては良かった。キミがこうして奔放に飛び回ってくれなければ、今頃とっくに戦争だ」


「何度も言っているが、仮にも王ともあろう者がみだりに淑女の頭に触れるな。しかも相手は王族だ」


「姉さんもそう簡単に気を許さないで。もし傷でも付けられたら、この会合は永遠にお開きよ」


 ほら怒られた、とノアリスは、カイルラスに払い除けられた手を軽く振りながら、セレイアにだけ見えるように小さく舌を出した。


 セレイアはくすくすと笑い、三人を見て嬉しそうに目を細める。


「ねえ、カイルラス、ノアリス、メルヴィナちゃんも。わたし、今がすごく楽しいわ。喜んでちゃいけない状況だっていうのは分かってる。でも……どうか戦争なんて起こらずに、このままこの時が続けば良いのに」


 姉の表情を見て、メルヴィナは少し気まずそうにカイルラスを振り返った。


「……気持ちは分かるけれど姉さん、翼人族も人間もあたしたち程長くは生きないわよ」


「そうそう。だからカイルラスが寿命を迎える前に何とかしないとな。そこで一つ提案なんだが、セレイア。キミが王位を継げば、問題の半分ほどは解決するんじゃないか?」


 言い終わるより早く、メルヴィナがノアリスを睨む。

 セレイアは僅かに表情を曇らせた。


「それは……」


「……ノアリス。それはお前が口を出すべき問題ではないと考えるが」


「そうか? だってセレイア、キミは前に言っていたろう? 父君の王座も長くはない、いざとなれば退いてもらってでもって」


「は? 姉さん、何考えてるの? まさかそんなことを彼らに言ったってわけ?」


 メルヴィナがついに耐えられないと口を挟む。

 ありありとした怒りを感じ取り、セレイアは困ったような表情を浮かべる。視線がすいと海の方を向いた。


「だって……メルヴィナちゃんも気付いてるでしょう? お父様の起こす渦には、前よりずっと淀みがあるわ。御心が乱れた王は、完全に狂い切るまえに次代の――」


「姉さん! それ以上一族を危険に晒すつもりなら、あたしは姉さんを引き摺ってでも海底に帰らなきゃいけなくなるわ」


 メルヴィナはセレイアの腕を強く掴んでそう言い放った。


「さすがは自慢の妹君だ。セレイアが王に推すのも理解できる」


「ノアリス、いい加減にしろ」


 それ以上続けるつもりなら城に連れ帰る、と低い声で続けられ、ノアリスは肩を竦めた。


「はいはい、承知したよ騎士殿。逆さ吊りで空を飛ぶのは二度とごめんだからな。……セレイア、メルヴィナも、すまないな。調子に乗って大変な無礼をした」


「ううん、それより……ノアリス、カイルラスと空を飛んだことがあるの?」


 項垂れていたセレイアが、そう言って次第に顔を輝かせる。


 メルヴィナはカイルラスと視線を交わらせると、音も無くため息を吐いた。


 じっとこちらを見つめるセレイアに笑いかけ、ノアリスはああと誇らしげに頷いた。


「普通に飛ぶ分には筆舌に尽くしがたい経験だ。たまには運んでくれって頼んでるんだが、戦場で余程危ない時、とかでもない限り、絶対にやってくれないんだよ」


「ヴァレアの翼は輸送のための道具ではない」


「あんた、その種族に対するデリカシーの無さ、本当どうにかした方がいいと思うけれど」


 貴重な体験に目を煌めかせるセレイアとは対照的に、カイルラスとメルヴィナは同時に顔を顰めた。


 ◇

 

「……一体、何のつもりなの」


 灯りの消えた暗い入り江で、メルヴィナは低い声で言った。


 セレイアはカイルラスに海を見せたいのだと、先にこの場を後にしている。このところは時たまそのようなことがあり、メルヴィナは城に帰ろうとしていたノアリスを呼び止めていた。


「何のつもりってのは?」


「とぼけないで。姉さんのことよ」


 間髪入れずに返答し、メルヴィナの鋭い視線がノアリスへと向けられる。

 ノアリスはやれやれ、と肩を竦めた。


「言っただろ、現リュアの王よりずっとお優しいセレイアが即位してくれれば、オレたちの関係は格段に良くなる」


 お父君を悪く言いたくはないが、とそう前置いてから、ノアリスは暗い海の方を向く。


「……アルヴェニル王は、歴代の王と比べても人間への敵意があまりに激しい。彼の王がリュアを率いている限り、小手先の改善を重ねたところで、燃えてる油にジョウロで水やってるようなもんだ」


「だからって、部外者のあんたが口を出していい問題だとでも思ってるの。リュアの後継問題は複雑なの。妙な横槍を入れないで」


「キミにとっても悪い話じゃないだろ? いつも言ってるじゃないか、セレイアこそが王に相応しいって。セレイアの方はキミを擁立したがっているが……確かに、キミたちの関係は随分と複雑だ」


 仲のいい姉妹らしく、この問題についても腹を割って話してみてはどうなのだ、とノアリスが振り返って笑った。


 メルヴィナはふいと視線を逸らすと、苛立たしげに舌打ちする。


 不意にノアリスが海の方へと踏み出した。足を波に濡らしながら、浅瀬の岩場へとすぐに辿り着くと、メルヴィナの顔へと手を伸ばす。目の下に刻まれた疲労の跡をなぞりながらノアリスは苦笑した。


「王になる気がないのなら、寝る間を惜しんで勉強したり、父君に邪険にされながら仕事に励んだりしなければいいだろ」


「あんたには関係のない話よ。気安く触らないで」


 そう言って、メルヴィナの尾ひれが勢いよく持ち上げられる。


 頭から海水を被った男を一瞥し、メルヴィナは一層声を低く潜めた。


「とにかく、姉さんに余計なことを言わないで。それから……妙に記憶に刺激を与えるようなことをしないで」


 カイルラスにも言っておけと忠告するメルヴィナに、ノアリスは頭の水を振り落としながら、それは約束できないと肩を竦めた。


「主従である前にあいつとは親友だからな。友の交友関係にまで口を出すような無粋な男じゃないんだ、オレは」


「……あっそう。とにかく、あたしは忠告したわよ」


 それだけを言い残して、メルヴィナが岩を蹴って海中へと飛び込んだ。


 暗い海から覗いた黒髪に、ノアリスが目を細める。


「メルヴィナ、最後に一つ余計な質問だ。その義務感は誰に植え付けられた?」


「……」


 メルヴィナは何も答えず、ちゃぷんと頭の先まで海水に浸かった。


 すぐに見えなくなった尾ひれの揺らめきを脳裏に浮かべながら、ノアリスは目を閉じる。


「いつか、本当のキミに会いたいと思うよ。……なんてわざとらしい台詞を言えば、またキミは怒るんだろうな」


 そう言って笑い、濡れた身体を身震いさせると、ノアリスは浜の方へと上がっていった。

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