ep.12 四者の夜会
「――ということで、メルヴィナちゃん、彼がカイルラス。ヴァレアの長なの。それからこっちが……」
「オレはノアリス。姉君からお噂はかねがね。よろしく、美しいリュアの姫君」
空に浮かぶカイルラス、深く腰を折るノアリス、と順番に見てから、メルヴィナは顔を顰めて額を抑えた。ぐいとセレイアの腕を引いて、二人の体が海中に潜る。
「姉さん……友達って言ったって、なんていうか、もう少し……」
水面を見上げながらメルヴィナは歯切れ悪くそう言った。
顰めっ面のままのメルヴィナに、セレイアが少し困ったように眉根を下げる。
「メルヴィナちゃん……? ごめんね、やっぱり他の種族のヒトと話すのは怖かった? 大丈夫よ、カイルラスは翼も大きいけれど、すごく優しくて、物知りで……」
「いや、そっちじゃなくて……翼人族の長は大体想像した通りだったわ。人間族の方は……あれが本当に皇帝?」
「ええ。そうだって、ノアリスもカイルラスも言っているわ。何か気になることがあるの?」
「ううん、なんでもないわ。でも、忘れないで。ヴァレアはともかく、人間は何を考えているか分からないから」
くれぐれも気を抜かないで。最後にそう付け加えてから、メルヴィナはセレイアを庇うようにしながら海上へと泳ぎ戻った。
◇
それで今日は何の話をするつもりなのかと問うメルヴィナに、ノアリスがばさりと紙束を取り出した。
「まだまだ課題は山積みなんだが……まずはこないだ姫君に聞かれた、うちの工業地区からの排水経路を持って来た」
ノアリスが手にした小さな灯りで手元を照らす。
薄闇の中で、文字や地図が描かれた紙をじっと見てから、セレイアがメルヴィナを振り返った。
「どう思う? メルヴィナちゃん。ほら、お父様が目の敵にしてるあの貝だけれど、わたしが海中を見て回った限りだと群生地が必ずしも一致してるとは……」
「どうもこうも……だって、この記録って工業用水だけでしょう。他にない? 例えば、人間の居住地域が急速に大きくなった場所とか、上流に炭鉱でもあるとか。宮殿でも成分を調べたりしているけれど、群生地周りの水は明らかに他とは――」
軽く腕を組んでメルヴィナが考察する。ぱらぱらと一通りの資料を確認してから地図上の一箇所を指差した。
「この流路は設営されてまだ日が浅いわ。しばらく王宮研究員をこの辺りの海域に派遣させるから、流出量との相関を……何?」
ぶつぶつと説明していたメルヴィナは、視線を感じて資料から顔を上げた。
大きな瞳を瞬かせながらセレイアがこちらをじっと見ている。やがて、ぱん、と両手が合わされた。
「すごいわ、メルヴィナちゃん! いつの間に人間の文字まで読めるようになったの?」
「それは……簡単な数字とか記号とかだけよ。ちょっと、子供じゃないんだから、頭撫でるのやめてってば!」
セレイアが両手でメルヴィナの身体を抱き締める。
背中から回った手が後頭部を撫でる感触に、メルヴィナは慌てて抱擁から抜け出た。
「いやぁ、リュアの姫君たちは仲睦まじいようで、心の底から羨ましい」
「? だって姉妹だもの。ノアリスの住むお城は、皆あまり仲が良くないの?」
首を傾げるセレイアに、ノアリスは大袈裟に肩を竦めた。
「それはもう。毎日互いの足の引っ張り合いやら騙し合いやらで、正直うんざりだ。カイルラスが毎日遊びに来るんでもなけりゃ、あんなところに住んでいたくはないな」
「俺は報告のために登城しているのであり、お前と会話するために出向いている訳ではない」
「酷いなカイルラス。オレは親愛なる騎士殿との世間話を楽しみに一日励んでるってのに」
カイルラスが嘆息混じりに答え、セレイアはくすくすと笑った。
メルヴィナはそんな彼らの顔を交互に見てからため息を吐く。
「大事な騎士に心労を掛けたくないのなら、少しは寝たらどう? 香の匂いが染み付いてるし、隈が顔の一部と化してるわよ」
国の長がその調子で、よく誰も止めないものだ。メルヴィナがふいと視線を逸らしながら、そう苛立たしげに続けた。
しん、と一瞬入り江が静かになり、メルヴィナは怪訝そうな表情で振り返る。
「……何よ」
「いや、メルヴィナ、この暗い入り江でよくそんなところまで見てたな。オレの顔に興味があるとか?」
「……は? 何? 喧嘩売ってるの?」
ノアリスの問いにメルヴィナは顔いっぱいに嫌悪感を滲ませる。
カイルラスが深いため息を吐き、非礼を詫びろ、と端的な苦言を呈した。
「ああ、いや、すまない。まさかキミにそんなことを言われるとは思わなかったもので」
少し歯切れ悪く謝罪してから、ノアリスはにこりと笑ってメルヴィナに手のひらを差し出す。
「改めて、気遣いに礼を言うよメルヴィナ。どうだ、お礼に今度お茶でも。陸に上がったリュアが出している美味い店があるんだ」
「ふざけないで。行く訳ないでしょ」
そう言ってメルヴィナは心底鬱陶しそうに、差し伸ばされた手をはたき落とした。
◇
「ところで、リュアが陸に上がるというのは」
ノアリスとメルヴィナとの一悶着が収まってから、カイルラスがセレイアに問いかけた。
その尾ひれで一体どのようにして海から離れるのかというカイルラスに、ノアリスがけらけらと笑う。
「ははっ、そうかカイルラス。そういえばお前は見たことないんだな。リュアは魔力を司る民だ。ちょっとした不可思議ぐらいやってのけるから、こうして伽話になってるんだよ」
「あのねカイルラス、わたしたちは……うーん、見せた方が早いわ」
そう言ってセレイアは岩の上へと上がる。何やら唱えながら指先で尾ひれを撫でた。
瞬きの合間に、鱗を纏ったひれが二本の素足へと変わる。カイルラスは無言のまま、僅かに目を見開いた。
よっという軽い掛け声と共にセレイアは砂地へと降り立ち、ぐらりと身を傾かせた。
「わっ、とと……ごめんなさい、ありがとうノアリス。最近ずっとやってなかったから、バランスを取るのに慣れてなくって」
「まあ海じゃ足なんか、何の役にも立たないだろうからな」
「姉さん……そう無防備に何でもかんでも教えないで」
メルヴィナが額を抑える。人間に擬態して陸へと上がったリュアは過去に何人もいるが、人間の目の前でやり方を実演するなど前代未聞だ。そう言って、ノアリスに掴まる姉を軽く睨んだ。
セレイアは肩を落としてメルヴィナへと謝ってから、ノアリスの腕を離し、今度こそ二本の足で砂地に立つ。彼の言うように海中では使い道のないこれらは、久々にやってみたものの尾ひれよりずっと動かしにくくて不便だと思った。
ふと視線を感じて顔を上げる。ノアリスが何やら目で指し示していた。
それを追って振り返ると、カイルラスはこちらから視線を逸らし、何やら不機嫌そうに眉を寄せている。
「えっと、カイルラス? ごめんなさい、びっくりした?」
「……種族による常識の違いは理解する。だが、我らはそのように肌身を曝け出すようなことは決してしない」
カイルラスの実に苦々しそうな声に、ついにノアリスが吹き出した。
腹を抱えて笑いながら自らの上着を脱ぐと、ばさりとセレイアの肩へと掛ける。
「ふっ……ははっ! 悪いなセレイア。高潔な空の騎士殿には、その格好は刺激が強すぎるらしい。その美しい脚はしまっておいてやってくれ」
セレイアはぱちぱちと目を瞬かせ、メルヴィナが苛立たしげにため息を吐いた。
◇
セレイアと共に海底へと戻りながら、メルヴィナが首だけで振り返った。
「それで、具体的にはどうするつもりなの。小さな問題を一つ一つ潰したところで、歩み寄れる未来なんてそう簡単には訪れないって、いくら姉さんだって分かってるでしょ」
妹の問いに、セレイアが頷く。ここまで彼らと交流してきたことで、あらゆることにおいて価値観が違うことも、そして一朝一夕に分かり合えることは難しいことも理解していた。
「ノアリスやカイルラスと話して、いろいろ考えてみたんだけれど、今候補にあるのはね、この入り江のような領地の境目に交流地を作るのはどうかなって」
「却下。そこでトラブルがあったら誰が裁くの? 最悪誰か殺されでもしたらその場で戦争よ」
そういうのはもっと関係性が改善してから取る手だ、とメルヴィナは泳ぐひれを止めることもなく一刀両断した。
セレイアが肩を落として頷く。
「ええ……実は同じことを、ノアリスにも言われたわ。残念だけれど、どこにでも悪いヒトはいるって」
自らを夢想家と語った彼は、人間としての性であるのか、見た目以上に慎重でよく考える男だとセレイアは思った。それにしたって、もし実現すれば素敵なことなのに、と海中で口先を尖らせる。
「それから他にはね、陸と海で共同の衛兵団を作るのはどうかなって。悪いことをするヒトがいたら一緒に捕まえるの。でも、あまりにも戦術が違う種族が背を預けて戦うのは無謀だって、カイルラスが」
「真っ当な指摘ね。あたしたちの力は海から離れれば弱まるし、人間が船を使ったところで大波が来れば一発よ。抑止力っていうのは、脅威にならなければ意味がないの」
またもやメルヴィナがばさりと切り捨てる。
本当に難しい。そう呟いてセレイアが困ったようなため息を吐くと、メルヴィナは泳ぎを止めてくるりと振り返った。
「そう、難しいの。姉さんの目指してるのは、正直夢物語よ。でもほんの少しだけ安心したわ。想像以上に、あの二人はそれなりに現実が見えてるみたい。姉さんの無謀を焚き付けるようならどうしてやろうかと思ったけれど」
「うん。ごめんね、メルヴィナちゃん。わたしがもっと素敵な案を思い付けたらいいんだけれど……」
そう言ってから、セレイアがそっとメルヴィナの手を取る。
そのまま口篭っている様子であることが珍しい、とメルヴィナが首を傾げた。
「姉さん……?」
「あの、ね。わたし、やっぱり仲良くするには、お互いをよく知ることしかないと思うの。それでね、わたしたちって、陸に上がることはできるじゃない?」
「ダメよ」
セレイアが言い終わる前に、鋭い声で提案は却下された。
でも、と続けようとするセレイアの手を、メルヴィナがぐいと強く引く。随分と深くなった暗い海の中で、金の髪が黒髪に絡むように漂う。
「姉さんが陸に行くのは絶対にダメ。もし人間に捕われでもしたら、お父様は本当に大陸を海の底に沈めるわよ」
「それは……」
「どうしても必要があるのなら、あたしが行くわ」
あたしなら、何かあったって王の怒りに触れることはないもの。そうどこか投げやりにメルヴィナが続けると、セレイアは弾かれたように強く首を横に振った。
「それは駄目! 絶対に駄目、メルヴィナちゃんまで傷付けられることがあったら、わたし……」
額を抑えて呟くセレイアの周囲で、ざわざわと小さな泡が立つ。辺りを巻き始めた海流に、メルヴィナはハッとした顔で、握った手をさらに強く引いた。
大きくよろめいたセレイアの身体をメルヴィナは両腕で抱き締める。
「ごめん姉さん。馬鹿なことを言ったわ。あたしは姉さんのそばを離れないから安心して」
幼子に諭すように、メルヴィナがゆっくりと告げる。
やがて夜の海はすっかり静けさを取り戻した。もう帰ろう、とメルヴィナがセレイアの手を引いて更に深く潜っていく。
視線の先に、微かな光が見えてきた。宮殿に飾られた夜光草の灯りだ。
ここまで黙っていたメルヴィナが、振り返らずに囁いた。
「姉さん、最後に一つだけ言わせて。彼らは確かに、思ったほど悪いヒトではないわ。でも分かってるわよね。お父様には絶対に気付かれないで」
「ええ……分かってるわ。ありがとう、メルヴィナちゃん」
握られた手を軽く握り返して、セレイアはそう言って困ったように微笑んだ。