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ep.11 鱗紋の記憶

「おや、セレイア姫様。ここのところ、よくお見かけいたしますね」


 宮殿の奥底に設けられた記録室。その入り口を守る衛兵が、セレイアの姿を見るとそう言って軽く手を挙げた。


「ええ、また少し調べたいことがあって」


「そうですか。姫様はお力があられるだけでなく、勉強熱心でいらっしゃる」


 リュアの未来は安泰だ、とそう言って衛兵は笑った。

 セレイアが生まれるより前から宮殿に仕えている彼の手には、薄い皺が刻まれている。その手が記録室の扉を押すと、隙間から小さな気泡が溢れた。


「姫様がついにお世継にとあらば、アルヴェニル王も、さぞお喜びのことでしょう」


「ふふ、そうね。リュアの民のために、わたしはわたしにできることをやるわ」


 そう微笑んで、セレイアはするりと記録室へと身を滑り込ませた。


 ◇


 夜の入り江は、今宵は月が雲に隠れているためか、いつもより一層暗い。


 セレイアが海面から顔を出す。手にした夜光草は萎れかけている。深海では灯りとなる海草だが、海上に持ち出すには向いていないようだった。


「待たせたか……それは?」


 音もなく空から降りてきたカイルラスが、セレイアの手の中でくたびれている薄緑を指差した。


「夜光草っていって、灯りになるかしらと思って持って来てみたんだけれど、海から出すとダメみたい」


「海中では光を放つのか」


「ええ。ぼんやりと白く灯って、すごく綺麗なの。今夜は空が暗いから、あなたがわたしを見つけられないかと思って」


「この程度の暗さであれば何の問題もないが」


 少し怪訝な顔で、カイルラスが頭上を見上げる。


 厚い雲に覆われてはいるが、彼の目には空が見えているのだろうか。セレイアはそんなことを思いながら、じっとカイルラスの顔を下から見つめた。


「海底の記録にはね、ヴァレアのヒトたちは夜目があまり効かないって、そう書いてあったの」


 やっぱり文字を読むよりも本人と話をした方が、ずっとよく理解できる。そう言ってセレイアは苦笑した。



 入り江から少し離れた海上で、セレイアは波に浮かびながらカイルラスと話をする。

 今夜はノアリスは来られないらしい。良い機会だと、先に妹のことを提案しておくことにした。


「――という訳でね、今度からメルヴィナちゃんも参加してくれるって言うの。どうかしら?」


 カイルラスは構わないと頷く。ノアリスには伝達しておくと続けてから、しかし、と眉を顰めた。


「お前の話を聞く限り、さほど他種族との交流を好むようには思わなかったが」


「それは、そう。でも大丈夫。メルヴィナちゃんは優しいし、すごく頭がいいから。わたしには思い付かないようなことも、きっと気が付いてくれると思うの」


 自慢の妹なのだ、とセレイアは嬉しそうに胸を張った。


 カイルラスによれば、ノアリスはノアリスで種の和平や戦争の回避のために動いているらしい。

 どうやら根回しに苦戦しているようだ、とため息を吐くカイルラスに、セレイアが首を傾げる。


「つまり、戦争を起こしたがっている人間もいるってことね? ノアリスは皇帝なのに、個の自我が強いっていうのはそういうことね」


「ああ。お前たちのように、王の号令で皆が同じ方角を見る、という訳にはいかないようだ」


「カイルラスは? ヴァレアの長なんでしょう? その……一族のヒトたちはリュアをどう思ってるのかしら」


 少し顔色を伺うようにセレイアが尋ねる。

 カイルラスは腰の剣に手をやりながら答えた。


「取り立てて何も、という表現が正しいだろうな。我らは戦とあれば互いに翼を預けるが、基本的に共に行動することは少ない。常日頃は己の領空を警戒するか、自らの腕を磨くか。リュアや、人間に対してすらも、特段これといった思考を巡らせることは無いだろう」


「そうなのね。……もしかして、カイルラスって、ヴァレアのヒトたちの中では、少しだけ変わってる? こうしてわたしとお話ししてくれるし、ノアリスのことも助けてお友達になったって」


 他のヴァレアであれば、そうはいかなかったのではないか。そう問いながら、少しの好奇心を滲ませた目でセレイアがじっとカイルラスを見る。


 カイルラスは何も言わず、羽を揺らしてほんの僅かにこちらに背を向けた。


 セレイアはくすくすと笑い、一度海に潜ると、カイルラスの正面で顔を出す。


「あのね。わたし、宮殿でヴァレアや人間について学んでるの。海底には、他種族についての記録はすごく少ないし、正しいことばかりとも限らないんだけど……」


 さっきの視力の話もそうだ、とセレイアが苦笑する。

 何かを考えるような様子で少し間を置いてから、セレイアは話を続けた。


「ねえ、カイルラス。答えたくないことだったら、答えなくていいんだけれど……ヴァレアの民って、昔はもっとたくさんだったんでしょう? その、どうしてそんなに数を減らしたのか、聞いてもいい? もしかして、戦のせい?」


「いや、争いが発端にあったとは聞くが、結局は天災のようなものだったとされている」


「天災……嵐とか、そういうの?」


「どうだろうな。我らは人間やリュアのような記録の類を持たない。過去を振り返るには、我らの生は短い」


 それとも愚かしいことだと思うか、とカイルラスが問う。

 ううん、とセレイアは首を横に振った。


「今この瞬間を、自分の誇りとか信念に従って生きる。そうでしょう? ふふ、あなたたちが自由に空を泳げるのは、いつも命を燃やし続けているからなんだわ」


 セレイアが眩しそうに目を細めて空を見上げる。いつの間にか厚い雲は一部分が裂け、月の光が漏れ出し始めていた。


 宙に浮かんでいたカイルラスが、海上に突き出た岩場へと降りる。尖った鉤爪を波の飛沫が濡らした。


 セレイアは同じ岩へと身を乗り上げると、尾ひれの先端を持ち上げてみせた。


「わたしたちは、あなたたちとは反対よ。過去に受けた恩義も、謗りも、絶対に忘れられないの。ほら、分かる?」


 海水でしっとりと濡れた尾ひれ。その鱗の一枚一枚は透き通り、差し込む月光を反射して淡く揺らめいた。


 すっとセレイアが鱗の一つを指差す。カイルラスの視線の先で、不規則に煌めく凹凸は、何かの紋様のようにも見えた。


「これは、何かが刻まれているのか」


「そう、記憶よ。人魚にとって、魔力と同じぐらい大事なの。こうやって、思い出も、感情も、死ぬまで全部身体に蓄えていくの。それが力になるから。宮殿の記録室にはね、黒石貝や海草の他に、亡くなったヒトの鱗も並べられているわ」


 持ち上げていた尾ひれを海面へと降ろすと、ぱしゃんと水飛沫が立った。

 足を濡らしたことに詫びてから、セレイアが軽く振り返るようにしてカイルラスの顔を見上げた。


「わたしたちは、過去を手放せないの。優しい思い出も、それから血族が受けた屈辱も、長い生の中で渦潮のように逆巻き続ける」


「先程の鱗には、大きな歪みのようなものが見えた。お前はリュアでありながら、記憶を失っていると言ったな。お前が王位を拒むのは、それが理由か」


 ええ、とセレイアは頷き、そっと指先で尾ひれを撫でる。暗い海中からも、鱗が鈍い光を揺らめかせた。


「多分、だけれど……お父様が封じたんじゃないかしらって、そう思ってるの。生きた人魚の記憶に干渉出来るなんて、そんな強い魔力があるヒトは海底でも限られてるから」


「問い正したことはないのか」


「ないわ。……怖いの。お父様はわたしにお優しいけれど、でも大事な記憶を封じるなんてよっぽどよ。きっと、それだけ悪いことをしたのよ、わたし。その事実を聞くのが、怖いの」


 ぽつり、と呟いた返答は、すぐに波の音にかき消された。

 セレイアは軽く頭を振ると、困ったように笑ってまたカイルラスを振り返った。


「ごめんなさい、こんな弱気で無責任なことを言ってたら、今にあなたに愛想を尽かされちゃうわ。わたし、今度こそちゃんとお父様に聞いてみるから、だから――」


 ふと髪に触れた指先に、セレイアは言葉を途切れさせる。


 見上げた先で、翡翠の瞳は微かに細められていた。


「ヴァレアの信頼は、そう簡単に損なわれはしない。我らは限られた生を空に在るために、身を縛る過去を振り払って生きてきた。だが……お前と交流を持ったことで、追想というものも存外悪くはないと、そう思った」


「……本当? 本当にそう思う?」


「ああ。失われた記憶も、血族との絆も、お前にとってはどちらも重要なものだろう。俺の顔色を伺うなどという理由のために、その矜持を曲げるようなことはするな。そのようなことをせずとも……友人、なのだろう」


 髪に触れていた手が離れ、目の前に手のひらが差し出される。


 セレイアはそれを両手で強く握ると、薄紫の瞳をきらきらと輝かせた。


「ええ……ええ! あのね、わたしね、いつかあなたが空に還ってしまっても、いつでもあなたを想えるように、宮殿にあなたの石像を建てるわ。それで、子供たちの代にも伝えるの。誰よりも高潔で誇り高い、美しい翼を持ったヒトだって」


「……お前の価値観は尊重するが、俺の意見を言わせてもらえるのであれば、却下だ」


「えっ⁈ どうして!」


「我らは、自らの生きた証を残すことはしない。風と共に消え去ることが、俺たちの美徳だ」


 カイルラスに淡々と言い切られ、セレイアはがっくりと肩を落とす。


「それは……分かった、けれど……でも、やっぱり少し寂しいわ。わたし、次にお父様に干渉を受けることがあっても、絶対にあなたのことは忘れない。鱗の一番大事なところに、深く刻んでおくから」


「きっと光栄なことなのだろうが、俺の死後の話ばかりというのもな」


 それより今日は何も面白い発見とやらはないのか。そうカイルラスが問う。


 その質問と、よく見なければ分からない程度の笑みに、セレイアは嬉しそうに頷く。そして身振り混じりに、海底の気に入っている場所について語り始めた。

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