ep.10 人魚の姉妹 (1)
沖まで見送ると言われ、セレイアはカイルラスと共に入り江を後にした。
「ノアリスに仕えているんでしょう? 護衛につかなくて大丈夫なの?」
「ああ見えてあいつの剣の腕は帝国随一だ。並の戦士では脅威にもならん」
セレイアに並走するように夜空を飛びながらカイルラスが答えた。
「それよりも、先程はあいつが血縁を脅すような真似をしてすまなかった」
「ううん、それだけ本気でわたしを見極めたかったってことでしょう? でも、ちょっと驚いたわ。彼って、リュアのことをよく知ってるのね」
海を泳ぎながら、セレイアは先程の入り江でのノアリスの言動を思い出していた。
リュアの民にとって、自他の境界線は限りなく薄い。海を母なるものとして、そこに生まれたものは皆、同じ命運を辿るものだと信じている。
彼らを束ねる王の掲げる方針こそが、種族としての意志であり、一族を我が身の一部とするが故に、それを害そうとする外のものには容赦がない。
「――特に血族への執着は本能的なものなの。王族であっても、過去にそれで何人も身を狂わせて泡になったって聞いたわ」
理解できない? と、セレイアが振り返らずに尋ねる。
カイルラスは首を横に振った。
「それが、お前たちにとっての矜持なのだろう。だが、そうなると種族間の調和は一層困難だ。特に人間という種は、個の自我が並外れて強い」
「だからノアリスを紹介してくれたんでしょう? ふふ、彼はいい人ね。あなたにとっての大事なお友達を、傷つけずにすんで良かった」
もう少し泳いでから、セレイアが波の合間で止まった。同じく頭上で静止したカイルラスを振り返ることなく、じっと暗い海面を見つめる。
「ねえ、カイルラス。不思議に思わなかった? どうしてわたしが、自分で王様になろうとしないのか」
ぽつりと呟かれた問いに、カイルラスはすぐに否定の意を返した。
「それがお前の判断であれば、俺は疑問など持たん」
「ふふ、王位の問題はどこでも複雑だものね」
厄介ごとに首を突っ込まない慎重はあなたらしい。そう言ってセレイアが笑ったが、カイルラスはさらにそれを否定した。
「ヴァレアは友を尊ぶ。一度信頼を置いた者の判断を疑ってかかることはしない。空での戦いにおいて、一瞬の疑念が命取りだからだ。故に、お前を信じると決めた以上は、逐一判断理由を問い詰めることはしない」
特に王位などというものを、その場凌ぎで回答したわけではないだろう。カイルラスが静かにそう続けた。
セレイアの肩が揺れる。数秒経ってからゆっくりと振り向くと、海水で濡れた薄紫の瞳がカイルラスを捉えた。
「カイルラス。ヒトに信頼されるのって、とても嬉しくて……ちょっと怖いことね。わたし、頑張ってそれに応えたいと思うわ」
そう噛み締めるように答えて、セレイアは微笑んだ。
◇
入り江での逢瀬に、ノアリスが姿を現すことが増えた。
彼はどうやら多忙らしく、訪問は毎回では無かったが、この日は少し時間があるということだった。
「改めて、状況を確認するぞ。オレたちは何とかこの長く続いた軋轢を終わらせられないかと画策中。期限はカイルラスの寿命が尽きるまでだ」
浜で拾った棒を適当に弄びながら、ノアリスが告げた。
浅瀬の濡れた岩場に腰掛けたセレイアは、自分とノアリスとの間に浮かぶカイルラスと視線を合わせてから頷く。
「ええ。ヴァレアのヒトたちは、ノアリスの治める帝国に仕えているような形なのよね?」
「ああ。我らは基本的に多種族を警戒こそすれ、敵意を持つことはない。大地も海も、空を侵すことはないからだ」
「つまり、問題は人間と人魚がしょっちゅうドンパチやってるってことだな。幸いにしてここ数年は小競り合いだが、ひとたび大きな戦争にでもなってみろ。オレの親友が、大事な友に剣を向けないといけない羽目になる」
ノアリスの持つ棒がピッと空を切る。先端を向けられたセレイアは、そんなことにはさせないと首を横に振った。
「いい機会だから、一つ聞いてもいい? どうして人間は海に侵食してこようとするの? 貝だって魚だって、条約で決められた量は流通しているはずよ。何か足りなくなるような理由があるの?」
「悲しいことに、理由はないんだなこれが」
そう答えて、ノアリスが苦笑する。砂浜の上でぐるりと振り返ると、棒の先で陸の方角を指し示した。
「オレたち人間は、言ってしまえば何でも欲しくなっちまう性なんだ。より良い生活、より広い領土、より沢山の食い物。気高いヴァレアや美しいリュアから見れば、滑稽で醜悪かもしれないが……だが、だからこそ人間は厳しい大地で生き抜いてこられた」
「大昔は、この大陸は不毛の地だったって、記録で見たことがあるわ。それがあなたたちにとっての生きる術なのね」
「リュアの姫君に理解されるとは、光栄だな」
再度こちらを振り向くと、そう言ってノアリスはからからと笑った。
笑い事ではない、とカイルラスがため息を吐く。
「それが矜持であろうと、奪うばかりでは争いは避けられん」
「その通り。だから必死に法整備を進めてるんだが、戦争があればまた台無しだ。飢えた民が溢れ、兵の隙をついて無法者が好き勝手する。正直、帝都辺境のスラム街は、到底姫君に見せられるような状況じゃないな」
道を歩けばその綺麗な目をくり抜かれるかもしれない。ノアリスがそう脅し、セレイアは思わず両目を手で隠した。