ep.9 停戦協定 (1)
会わせたい者がいる、とカイルラスに渋々切り出されたのは、セレイアがこの夜、いつもの岩場に腰を落ち着けてさほど経たない頃だった。
「もちろん、あなたが紹介してくれるなら……だけど、その顔はどうしたの? 何か問題があるの?」
セレイアが首を傾げる。薄紫の瞳に映る男の顔は、何やら物言いたげに顰められていた。
カイルラスは珍しくどこか落ち着かない様子で、深く眉根を寄せたまま深いため息を吐く。
「いや……お前が本当に種族間の軋轢を削除したいというのであれば、面識を持って損はない」
「? あなたにしては珍しく、歯切れが悪いわ」
具合でも悪いのか、とセレイアが聞いたがカイルラスはそれを否定する。
それより返答はと問われ、セレイアは悩まずに頷いた。
「ええ、紹介して欲しいわ」
「お前は……俺から提案しておいてだが、少しばかりは種の長としての危機感を持てと」
「だって、あなたが悪いヒトをつれて来るはずがないもの」
ヴァレアは友を尊重する種族なのだろう、とセレイアが挑戦的に笑う。
カイルラスは押し黙り、静かに息を吐き出した。
ちゃぷん、とセレイアの身体が海へと沈む。間も無く海面へと浮き上がると、頭上に浮かぶカイルラスの足先へとそっと触れた。
「それに、『ほんとは会って欲しい』って、顔に書いてあるわ。当てていい? あなたの大事なお友達、違う?」
「……奴を友などとは、考えたこともない」
「酷いな、カイルラス。オレはお前のこと、親友だと思ってるってのに」
苦々しさを含ませたカイルラスの返答に、聞きなれない男の声で返答があった。
セレイアは小さな悲鳴を上げて、海中に頭の先まで隠れる。
ばさり、と羽音がした。海面の向こう側で、カイルラスが浜の方へと向き直っている。
「ノアリス、俺がいいと言うまで姿を現すなと告げておいたはずだ」
水面を隔ててカイルラスの声が聞こえる。いつもより低く、冷たい声だった。
「確かにそう言われたが、でもそこのお嬢さんはオレに会いたいって言ったぜ? 勿体つけるのも悪いだろ。な、お嬢さん」
夜風に乗って、ノアリス、と呼ばれた男の声が浜の方から届いた。カイルラスより少し高い声。飄々と戯けた風ではあるが、どこか油断してはならないような、そんな印象を覚えた。
セレイアは早くなった鼓動を水中で抑えると、目より上を水面から突き出した。こちらに背を向けているカイルラスの奥、入り江の浜辺に一人の男が立っている。翼も尾ひれも鱗もない。
「人間のヒトだわ。ねえカイルラス、紹介したいのって、彼で間違いはない?」
「……ああ。だが、少し手違いが……おい!」
少し声を荒げてから、カイルラスは舌打ちした。
彼が風を切って浜へと辿り着くよりも早く、セレイアは波打ち際に立つノアリスのもとへと到達していた。
「はは、さすがリュアの民。泳ぐのが速いな」
小さく口笛を吹いたノアリスに、セレイアは誇らしげに胸を張る。
「ええ、泳ぎには自信があるの。わたしは、セレイア。えっと、ノアリス、でいいのかしら」
「もっと気軽にノア、でもいいぜ。それか、ノアリス・ヴァレンティス・イラシオン・ヴェルキュリオ・エルゼリアヌス」
「とても長い名前があるのね。人間って、皆そう?」
「いや、こんな長ったらしいものを名乗らなきゃならないのは、権威振り翳した皇帝ぐらいなもんだろ」
ぱちくり、と目を瞬かせるセレイアの真正面で、ノアリスは琥珀色の瞳を細めて楽しそうに笑った。深く腰を折り、夜の帷のような黒髪が横顔を覆う。
再び顔を上げたノアリスは、満面の笑顔でセレイアに向かって右手を差し出した。
「オレはノアリス。あんたの後ろで怖い顔してるカイルラスの親友で、この辺りの大陸を統治するエルゼリア帝国の皇帝だ」
よろしく、とノアリスが告げると同時に、セレイアの背後の空でカイルラスが深いため息を吐いた。