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- 幕間1- メルヴィナの日常

 海面からの光が差し込むより早く、メルヴィナは寝台を滑り降りた。

 烏貝のような髪を撫で付け、身なりに問題のないことを鏡で確認してから、ぼんやりと光る夜光草を手にして部屋を後にする。


 早朝、というにも早すぎる時刻。海底宮殿は昼間とは打って変わって静まり返っている。


 一通り見回りを済ませかけて、メルヴィナは目についた痕跡にため息を吐いた。廊下に並ぶ窓枠の、一つの珊瑚がほんの少しだけ汚れている。

 また姉がこっそりと出入りしたに違いない。散策好きの姉は、自室の窓を開けておくのを忘れると、いつもこの辺りから侵入してくる。


「姉さんも姉さんだけれど、気が付かない衛兵も懲罰ものだわ」


 そう小声で呟いて、メルヴィナは素早く証拠を拭い去った。


 ◇


「こちらに里の者たちから集めた、各資源の流通記録を。やはり黒真珠について、ここ十年において一割近くの減少が見られます。それから、紅珊瑚の庭で見たという漁船の件については……?」


「衛兵を当たらせ、出没の周期を確認しております。後ほど、王自らが出向かれると」


 メルヴィナからの報告を受け取った老人の人魚が、そう淡々と答えた。

 そう、と頷いてから、メルヴィナは玉座の方へと向き直る。


「お父様……アルヴェニル王であれば心配は不要と存じますが、どうぞ、お気をつけて」


「そのようなことより、セレイアの様子は。また先日のように、妙なものを拾ってきたりはしておらぬだろうな」


 アルヴェニル王は、別の報告を眺めながら苛立たしげに問うた。

 メルヴィナが、いいえ、と首を横に振る。続けて、最近は大人しくしているようだと答えると、王はその返答で満足したらしい。言葉ではなくため息だけを返した。


 セレイアの放浪癖は今に始まったことではない。別にそのこと自体は、危険さえ冒さなければ構いはしないのだが、成果物を王に見られたことは失敗だった、とメルヴィナが内心で苦い顔をする。赤や青の宝石を抱えて泳ぐセレイアの姿を認めた途端に、アルヴェニル王は激怒し、宮殿には渦の嵐が巻き起こった。


「メルヴィナ様、王はこれより衛兵と共に件の珊瑚庭へと向かいます」


 王のそばに侍る老人にそう退出を促され、メルヴィナは頷いた。

 その場で深く一礼すると、ひらりと尾ひれを揺らして王の間を後にした。


 結局、あの父がついぞこちらを見ることも、名を呼ばれることもなかったが、まあいつものことだと、メルヴィナはため息を海水と共に飲み込んだ。


 ◇


 自室へと戻り、メルヴィナは部屋の壁いっぱいに並べられた資料と睨めっこする。

 生まれ持った力に恵まれなかった以上は、今ある魔力を磨き上げるしかない。


 棚の隙間に入念に隠してある緑の貝を手に取ると、メルヴィナは躊躇いなく自らの指先を傷付けた。ぱくり、と開いた傷から、赤い霧が海水へと混じっていく。


 体内に流れる僅かな魔力へと集中し、癒しの力を指先へと集める。じわじわと傷は塞がって、やがて痛みもほとんどなくなった。


「でもこれだと、時間がかかり過ぎるわ。いざという時にどんな傷でも治せるように、もっと工夫しないと。姉さんが次にどんな怪我をして帰るか、分からないもの」


 はあ、とメルヴィナがため息を吐く。本当はセレイアが自分の身を自分で守ってくれればそれが一番確実なのだが、そのようなことを言っても仕方がない。


 もう一度練習だと翡翠貝を手に取った時、部屋の外を誰かが通るような気配がした。話の内容からして侍女たちだろう。何やらセレイアの寝癖の話で盛り上がっている。


「――それで今朝は姫様の御髪を直させて頂いて……ああ、相変わらずの透き通るような金糸! 真珠貝より白い御肌に紅珊瑚のような唇! お願いします侍女頭、どうか明日も私に朝の当番を」


「あんた、いくら姫様がお優しいからといって不敬はその辺りにしなよ。近付き過ぎたと王のお耳にでも入ってみな、牢に入れられるか、泡にされるか……」


「き、気を付けます。その……侍女頭、私は辺境の出なのですが、聞いた噂によればセレイア姫様は、お記憶を――」


「やめな。よりによって宮殿内で滅多なことを口走るもんじゃない。いつまでも噂好きが抜けきらないようじゃ、今日にでも里に戻ってもらうよ。同僚が泡になるのには、いい加減うんざりなんだ」


 ひそひそと泡混じりの声が漏れ聞こえてくる。恐らくは宮殿に入ったばかりの若い人魚、それから侍女頭と呼ばれる者の声には聞き覚えがある。百年以上は宮殿に仕えている女だ。


「ちょうどいい。近く儀式だろう。それを見れば嫌でも分かるよ。あの方がおられる限り、リュアの未来は安泰さ」


 最後に侍女頭がそう言って、そうして彼女たちの気配は遠ざかっていった。


「……いたっ」


 不意に感じた痛みに、メルヴィナが視線を落とす。いつの間にか握り込んでいた手のひらを開くと、赤い液体が帯のように流れ出し、そこから貝殻が転がり落ちた。


 メルヴィナがそっと貝を拾い上げ、元の場所へと隠す。誤って寝台にでも紛れ込めば、これ以上ないほど不快な目覚めを味わうことになる。


「ま、これはこれで、いい練習になるわ」


 そう結論づけて、メルヴィナは傷付いた手のひらを癒すために、再び魔力へと集中した。


 ◇


 皮肉なことに、先日の治癒の練習は、さほど間も無く役に立った。

 入り江で血を与えて翼人族を助けたという姉は、傷を負ったまま宮殿へと帰り、その傷跡はすぐに父である王に見つかることとなった。


 その時の王の怒りを思い出し、メルヴィナがため息を吐く。咄嗟に上手く言い訳できて良かったものの、一歩間違えれば今度こそ姉が牢へと繋がれてしまうところだった。


「ルヴィちゃん? えっと、ごめんね、まだ怒ってる……?」


 先行して海中を泳いでいたセレイアがため息の音を拾い、少し困ったような表情で振り返った。


「別にあたしは怒ってはいないわよ。言ってるでしょ。危ないことをして欲しくないだけよ。さすがの姉さんだって、黒石貝の牢に閉じ込められるのは嫌でしょ」


「ええ。あの牢は声も飲み込んじゃうもの。本当に、ありがとうメルヴィナちゃん」


「あたしはちょっと誤魔化しただけよ。そもそもあたしの治癒が完璧なら、傷跡をお父様に見られることも無かったわ」


 いつまで経っても未熟だとメルヴィナが苛立たしげに呟く。少し伏せた視線の先で両手が掬い取られた。


「ねえメルヴィナちゃん。そういう言い方は、わたしも悲しいわ。だってルヴィちゃんがいつも頑張ってるって、わたし知ってるもの」


「……」


「よし分かったわ。じゃあ海面に着くまで、メルヴィナちゃんの好きなところを挙げていくことにするね。まずは、また助けてもらっちゃったでしょ。それから毎朝早起きだって侍女たちから聞いてるわ。お部屋もいつも綺麗だし――」


「だからやめてってば! あたしは子供じゃないの!」


 握られた手を急いで振り解くと、メルヴィナは海面に向かって勢いよく泳ぐ。

 背後からくすくすという笑い声が追ってくることに、メルヴィナはやれやれとため息を吐いた。


 ◇


 真夜中。ふと目を覚ました自室は暗い。


 いつもよりも水温が低いような気がして、メルヴィナは微かに身を震わせた。

 静かに寝台を抜け出して、廊下へと身を滑り出させる。見張りの衛兵は近くにおらず、宮殿は早朝よりずっと静まり返っていた。


 音を立てずにメルヴィナが泳ぐ。よくセレイアが出入りする窓辺へと辿り着くと、微かに残った痕跡に首を横に振った。

 またあの姉は、夜の散歩を楽しんでいるらしい。今度はどんな余計な問題を持ち帰るのか。メルヴィナは、まったく、と暗い海へと泳ぎ出した。


 当てもなく夜の海中を進む。寒流が入り込んでいるのだろうか。やはりいつもよりも寒いような心地がする。


 ふと、メルヴィナの耳に、微かな音が届いた。


「これ……姉さんの、歌……?」


 よく耳を凝らさなければ聞こえない程の音量で、確かに聞き慣れた声が音色を奏でていた。


 透き通った声は、普段よりも穏やかな音階をなぞる。美しく、どこか寂しげで、そして底無しの海溝に似た、強い執着のようなものを感じた。


 恐ろしい。メルヴィナがぽつりと漏らす。誰よりも濃くアルヴェニルの血を引く彼女は、まさにリュアの王だ。海のように情け深く、種族や血筋を愛し、きっといつかその執着心で身を狂わせていく。


「まるでお父様みたいに……ふん、そうはさせないわ」


 ふるり、とメルヴィナが身を震わせる。やはり今宵は冷えると思った。


「とりあえず、迎えに行ってあげないと。声は……入り江の方角ね」


 そう結論付けて、メルヴィナは暗い海の中を、歌声を目指して泳ぎを再開した。

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