ep.8 抗魔の翡翠 (2)
「最近子供たちが、歌の練習を休みたがってるみたいなの」
岩に腰掛けたセレイアが、パシャパシャと水を蹴りながら呟いた。
ばさり、と空中から羽音が返る。
「魔力を操るリュアにとって、それは剣や翼と同じものだと思ったが」
「そうなの。衛兵になんてなれなくていい。でも、自分の身を守る術は身に付けておいて欲しいの。いつ争いに巻き込まれるか分からないもの」
尾ひれが大きく水を蹴り上げ、水滴が弧を描いた。
意外だな、とカイルラスは静かに答えた。
「お前は平和主義の夢想家でありながら、時たまそのようなものの考え方をする。戦など起こらない、とは言わないのか?」
「そうあって欲しいけれど……お父様は、きっとそう思っていないから」
セレイアがカイルラスを見上げるように振り返った。
月明かりを反射して、薄紫色の瞳が光る。
じっとしばらく見つめ合った後で、セレイアがふっと微笑んだ。
「あなたの瞳って、とても綺麗な色。翡翠貝の色によく似ているわ」
「……『翡翠貝』というのは」
「えっと……ほら、あれ」
きょろきょろと周囲を見渡したセレイアは、海中の浅いところにある緑色を指差した。
薄く平らな貝殻は、見た目以上に鋭く、宮中に上がる怪我の報告は年々増加の一途を辿っている。
「人魚の身体は魔力に守られてるから。普通の刃物なんかじゃ簡単に傷付かないんだけど、でもあれだけは別なの。何か抗魔力の力を帯びてるんじゃないかって、爺やは――」
滔々と説明していたセレイアは、目の前に突き出された手のひらに一度言葉を飲み込む。
どうしたのか、と首を傾げると、カイルラスはため息を漏らした。
「……あの時、俺に血を与えるために、それを使ったか」
「え? ええ、そう。近くにあって良かったわ。メルヴィナちゃんなら、そんなことしなくても上手く治癒できたんだろうけれど、わたし、魔力を扱うのが下手だから」
セレイアが苦笑いを浮かべて、カイルラスに手のひらを見せる。
そこに残る薄い傷跡に、カイルラスは一層強く眉を寄せた。
「お前は……その軽々しく口にした情報が、お前のみならず、種族を危険に晒すものと理解しているか」
「えっ?」
「翡翠貝の力を用いれば、頑強な人魚の身を容易に傷付けられる。この事実を、俺が一族で共有すればどうなる。帝国へと伝えれば、次の戦争では皆がそれを武器として用いるだろう」
カイルラスが淡々と告げる。その声は先ほどまでとは打って変わり、冷たく厳しい。
セレイアはハッと何かに気がついたような表情を浮かべて、やがて肩を落としてカイルラスの顔をおずおずと見上げた。
「……ごめんなさい。確かにわたし、余りにも軽率だったわ。その……皆には黙っててくれない? わたしのせいでルヴィちゃんたちが怪我をするのは、悲しいわ」
「その頼みを俺が素直に聞くと思うか」
「ええ。だってあなたは、優しいもの」
そう言ってセレイアが目を細める。
カイルラスは数秒黙ってから、二度目のため息を吐いた。
「……時たまに、お前を助けたことを後悔することがある」
「たまにってことは、普段は助けて良かったって思ってくれてるってこと? ふふ、わたし喜んでもいいかしら?」
すっかり調子を取り戻したセレイアに、カイルラスは渋い顔をすると黙って空を見上げた。
更に数言問答を交わし、翡翠貝の件はヴァレアや人間には口外しないこととなった。だが、とカイルラスが再度釘を刺す。
「既に事情を把握している者がいないとも限らん。好奇心旺盛であることが悪だとは言わぬが、お前はもう幾許か警戒心というものを身に付けた方がいい」
「ええ、考えておくわ。それから、あのね……わたし、嬉しかったの。メルヴィナちゃんの他に、ちゃんとわたしに怒ってくれたの、あなたが初めてだったから」
「王の娘だと言っていたな」
怪訝そうな表情でカイルラスが問う。
セレイアは苦笑いを浮かべて頷くと、岩の上で少し身を捩り、宙に浮かぶ身体へと背を向けた。じっと暗い海を見つめ、ぽつりぽつりと呟く。
「わたしね、記憶が抜け落ちてるの。気が付いたら今の状況で、ルヴィちゃんのことは少しだけ覚えてるんだけど、お父様のことも、他の皆のことも、それからお母様のことも、ほとんど全部、忘れちゃってるの」
「……王妃は」
「ずっと前に、死んでいるらしいわ。わたし、お顔も、お声も何も思い出せない。そのせいで魔力も上手く使えないし、それから、何となく皆よそよそしいような気がするの。だからね、あなたとお話しができて、わたし本当に嬉しいの」
いつもはつい子供たちとばかり話してしまうのだ、とセレイアは困ったように笑った。
カイルラスは少しの間何かを考えていたかと思うと、無言のままセレイアに向かって手を突き出した。
セレイアは振り返り、どうしたのか、と首を傾げる。
手を出して欲しい、とカイルラスが端的に答え、差し出された白い手は、大きな手のひらに包み込まれた。
「なに?」
「お前には翼がない。ヴァレアの契りは出来ぬ故、人間式ですまないが……これも友愛を示す動作だと聞く。俺も、種族の異なるお前との交流は、翼人族の未来の為、さほど悪いものではないと思っている」
「……えっと、つまり?」
セレイアが不思議そうに目を瞬かせる。
カイルラスは、今宵三度目になるため息を吐いてから、握った手を少し乱雑に軽く上下させた。
「お前と友人になれたことは幸運だった、と言っている」
その返答に、セレイアはパッと顔を輝かせた。
濡れた手がカイルラスの手の甲を握り返し、セレイアの両手がぶんぶんと大きく振られる。
「ええ、わたしも嬉しいわ! あのね、空の話もいっぱい聞かせてね。あなたのことがもっと知りたいし、わたしのこともたくさん知って欲しいの。そうだ、今度一緒に人魚の聖地に――」
「それは、種族の長として適切な行動か?」
再びカイルラスの返答に厳しさが混じる。
セレイアは眉根を下げ、反省したように肩を落とした。
「……じゃない、と思う。聖地じゃなくて、違うところ、連れて行ってあげるね」
そう言ってセレイアは岩から水中へとするりと飛び込み、夜の海の上で楽しそうに笑った。
◇
カイルラスと別れ、セレイアが鼻歌混じりに海中を泳ぐ。
いつも暗いこの辺りも、僅かな月明かりできらきらと煌めいているように見えた。
次はどんな話をしようかと、彼が喜びそうな話題を考えていたセレイアの視界に、黒いものが揺れる。
「あっ……メルヴィナちゃん、こんな時間に、どうしたの?」
「ちょっと、眠れなくて……姉さんこそ、どうしたのよこんなところで。最近またこそこそと抜け出してると思ったら、どこで何をしていたの?」
「えっと、散策を……」
そう答えかけて、セレイアは首を横に振る。メルヴィナが怪訝な表情を浮かべた。
「何? もしかしてまた、何か厄介ごと?」
「ううん。メルヴィナちゃんには、隠し事したくないから。あのね、わたし、新しいお友達ができたの」
「さっき歌が聞こえたような気がしたの。やっぱり姉さんだったのね」
それで? と続きを促すメルヴィナに、セレイアは少し気まずそうに身を揺らす。
いつにも増して様子のおかしな姉に、メルヴィナは眉を顰めた。すぐに、まさか、と呟きセレイアの両腕を掴んだ。
「この間の翼人族とか言わないでしょうね?」
「カイルラス、っていうの。ヴァレアの長で翼騎士団長をしてるんだって」
「ばっ……!」
――かじゃないの、という悲鳴を、メルヴィナは何とか両手で押さえ込んだ。
身体の周りの海水が泡立つような感覚に、妹の確かな怒りを感じ取り、セレイアはごめんね、と小声で謝る。
「お父様に知られたら、殺されるわよ。その翼人族」
メルヴィナは長い沈黙の後で、それだけを絞り出すような声で告げた。
分かっている、とセレイアが口元に人差し指を立てる。
「だから、内緒にしておいてくれると嬉しいな」
「あたしがリュアにとっての危険を秘匿するように見えるの? それにあたしが告げ口しなくったって、いつか必ず誰かが気が付くわ。目敏い爺やとか」
「ええ、だから危なくなったら、彼には空に逃げてもらうわ。それから、もう二度と会わない」
「姉さんは? さすがに折檻じゃ済まないわよ」
セレイアは苦笑すると、分かってる、ともう一度繰り返した。
またしばらく黙っていたメルヴィナが、額に手をやり、長いため息を吐く。姉の奇行は今に始まったことではないが、言っても聞かないことなどとうの昔に理解していた。
「……姉さん、あたしが姉さんの味方だからって、そうやって好意を盾にするのは良くないと思うわ。その友達にも同じことやってるんじゃないでしょうね」
すぐに呆れられるわよ、とメルヴィナは続ける。セレイアは少し目を丸くしてからくすくすと笑った。
「あのね、彼って、何となくメルヴィナちゃんに似てるの」
「はあ?」
「厳しいけど、すごく優しくって、色んなことを教えてくれて、一緒にいると落ち着くわ。ほら、ルヴィちゃんと同じ」
セレイアがするりとメルヴィナの手を取る。
両手を握られた状態で、メルヴィナはやれやれと首を横に振った。
「たまに会うのは構わないけど、絶対にあたしには教えておいて。セレイア姉さんまでいなくなったら、あたし耐えられないから」
「ええ、分かったわ。……ねえ、今度ルヴィちゃんも一緒に――」
「嫌よ。あたしは真っ当な人魚族なの。人間じゃないだけマシだけど、翼人族……ヴァレアのことだって、興味ないわ」
そう言ってそっぽを向く妹に、セレイアは、残念だと苦笑した。