第五話
思わず、あらわになったトートバックの方を見てしまう。
今にもぬいが顔を覗かせるのではないか。そんな妄想が頭を支配した。
そんなはずはない。
ファンの風がちょうどストールに当たって落ちただけだ、きっと。
コンロの火を止めてから、ゆっくり玄関に向かって足を進める。
大丈夫。何もいない。何も。
トートバックを見ないようにしながらストールを拾い上げ、今度は持ち手に結び付けるようにして中身を隠した。
ホラー映画なら、ここでトートバックからぬいが飛び出してきて死ぬかもしれない。残念ながら、現実ではそうならなかった。
ほら、大丈夫。
トートバックに背を向けた瞬間、何かが床に落ちる音がした。
何か、軽いものが落ちた、音。
脂汗が噴き出してくる。そんなはずはない。そんなはずは。
振り返った私の目に飛び込んできたのは、床に転がるあの女のぬいだった。
「──っは、はぁ……!」
私は駆け出した。クローゼットに向かって全力で。
クローゼットの中にある、呪具も扱う雑貨屋で買った小物入れを掴むと中身をぶちまけ、玄関に走ってぬいをその中に入れた。蓋を閉めて、鍵を閉めて、小物入れ自体を梱包用のガムテープでぐるぐる巻きにして、封印した。
小物入れをクローゼットの奥に突っ込み、キッチンに戻る。
カレーを弱火で煮込みながら、思い浮かんだのはスーパーの老婆だった。
あのぬいには、何かが憑いている。それは生霊とかではなくて、ある種の呪いなのかもしれない。
これから、どうすればいい。
あのぬいをお祓いしたとして、私には何も問題はないのだろうか。
だって、あれを作ったのは私だ。
最初に呪いの人形として生み出したのは私だ。
家永先輩の話したようなことが本当に起こったとして、呪詛返しはどこに向かうのだろうか。
死にたくない。死にたくない。
苦しむのだって嫌だ。
私はただ、笑歌と笑って過ごしたいだけなのに。
ふと、思い付く。
今、何か霊的なものを纏っているらしいぬい。その中途半端な呪いごと私のものにしてしまって、手元に置いてあの女を呪う。
そして、もう一つ。新しく作った形だけのぬいを、呪いのぬいだと思わせたらいいのではないかと。
偽物を丸ごと誰かに作ってもらえば更に安全かもしれないが、他人を巻き込みたくはない。
一瞬、ぬい作成代行サイトが脳裏を掠めたが、どれだけ金額が嵩むかも分からないし、なにより時間がなかった。
幸い、前に作ったぬいの材料はかなり残っているし、一度作ったものだからもう一度作るのにそこまで時間もかからないはず。
出来上がったカレーを食べながら、みゅんちのサイトを確認した。
中身が違うだけでガワは同じだったから、私が最初に作ったぬいでも問題なく呪いのぬいになってくれそうだ。
そうと決まれば、今のぬいにビビらされている場合ではない。
主人は私になるのだと思い知らせてやる。
満腹になった万能感のまま、さっきしまい込んだ小物入れを取り出して封印を解いていく。
あの女に少しばかり小細工されたけれど、お前は元々私のモノだろうが。
「お前の主人は、私。花畑ゆりあ。原沼茉莉奈じゃない、花畑ゆりあだよ。いい? これからお前を本物にしてあげるからね。今よりもっと凄いことが出来るようにしてあげる。だから大人しくしてて。私の邪魔をしないで」
ぬいは何の反応も示さなかったけれど、別にいい。もう、負けない。
今あるぬいの顔をよく見ながら、同じように刺繍をしていく。あらかた上達し終えたところで作ったぬいだったことが功を奏して、ほとんど見分けが付かないくらいの仕上がりになっていると思う。
一晩中ぬいの顔を刺繍していたけれど、特に何も起こらなかった。
病は気から……すべてが気のせいだったからなのか、呪いが私の言うことを聞いたのかは知らないが、邪魔されないのはいいことだった。
翌朝、笑歌からメッセージが来た。
『どう? 何かわかった?』
『うん、いろいろと。そっちはどう?』
『え!やっぱすご!こっちはねー、視線感じるくらいかな?たぶん』
『そっか…何か変なことがあったら言ってね。何ができるわけでもないけど、お祓いとか、そういうことしてくれる人は探せるかもだからさ』
『頼もし~、りょうかーい!またねー!』
可愛いスタンプとともに、会話は終了した。
相変わらず返事が早い。
取り憑いているものはぬいと一緒に私のところに来たのかと思ったけれど、笑歌のところにも未だに何かがいるらしい。
呪いも分裂するのだろうか。分からない。
私と笑歌のところを行ったり来たりしているのだとしたら、ずいぶんと大変だなと少し笑った。
大学の授業とバイトをこなしつつ、ぬいを作る。
初代とまるきり同じように体中を文字で埋め尽くすのは大変だったが、それもどんどんペースアップした。
あの女がやったように盗聴器を仕込むことも考えたが、きっとすぐ壊されるだろうと思ってやめた。代わりに小型のGPSを仕込むことにする。
住所が分かれば、DNAをゲットするのに役立つかもしれないし、あの女の情報は多い方がいいと思った。
偽物の呪いのぬいが完成したのは、丈司さんと会う日の朝だった。
間に合ったことに安堵し、さっそく新しいぬいを持って家を出た。
授業を終え、新宿駅に向かう。
東口を出たところで待っていると、少ししてスーツ姿の丈司さんが改札から出てくるのが見えた。
向こうもすぐに私に気付いたようで、にこりと笑って手を振ってくる。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、そんなに」
「店、予約してあるよ」
「ありがと」
するりと、丈司さんの手が私の手を握る。
清潔感のある黒髪、右目の下の泣きボクロ、三十代前半とは思えない肌ツヤに、少し甘めの童顔。傍から見たら、イケメンと称される部類の男だと思う。
実際、笑歌から紹介されて初めて会った時は、カッコいい彼氏だなと思ったものだった。
彼女の友達と知りながら私を口説いてきたせいで、そんなプラスの印象は吹き飛んだけれど。
丈司さんのいいところなど、見た目だけだ。
既婚者のくせに何人もの女に言い寄るクソ男だし、ことあるごとにナマでヤりたがるクソ男でもあった。
何度ゴムをしろと言っても渋り、最後の最後までナマで挿入しようとする。
危機感というものが欠如しているのか、とにかく気持ちの悪い男だった。
笑歌にも、何度かそれとなく言ったのだ。
じっくんに他の女の影はないのかとか、嫌なことはされていないかとか、いい人そうに見えて実は最低な男は大勢いるよとか。
けれど、丈司さんは笑歌の前では完璧な彼氏を演じているらしかった。
笑歌が本命で、それ以外は遊びなのだろうと思わされた。
嫁がいるのに本命もクソもないと思うが、まあ、そういうことらしい。
ある時から私は笑歌にその手のことを言うのをやめた。
本当なら、私と丈司さんがそういう関係なのだと言ってもよかった。
奥さんの写真を見せてもよかった。
それをしなかったのは、結局のところ私が笑歌に嫌われたくない、ただそれだけのことだった。
バカみたいだと自分でも思う。
嫌われて当然のことをしておいて、傷つけるようなことをしておいて、今でもそれを知られたくないと思っている。
バレないうちにすべてを終わらせて、笑歌に幸せになってほしいと思っている。
そのためにも、今日を乗り切らなくては。
私は気合いを入れ直した。
「ゆりあの方から誘ってくれるなんて珍しいね」
「まあ、たまにはね」
「ふうん」
怪しまれているのではないかと少しドキドキした。
しかし、丈司さんは嬉しそうに私の腰を抱き寄せるだけ。
私は甘えるように丈司さんにもたれかかり、案内されるがままに夕食をごちそうになった。
食事中、丈司さんがお手洗いに行った隙に睡眠薬を仕込んだ。
少し顔の赤らんだ丈司さんは、特に違和感に気付くことなく薬の入った酒を飲み干す。
長居せずにさらりと食事を終わらせたあと、眠気に目をこする丈司さんをホテルに誘った。
「11時には帰らないとだから……」
「でもそんなにフラフラじゃ帰れないよ。少し寝た方がいいって」
「うん……ごめん、時間になっても起きなかったら蹴とばしていいから……」
ホテルの部屋に入ると、二人でもつれるようにしてすぐにベッドへ倒れ込む。
一緒に横たわって様子を窺っていると、目を閉じた丈司さんはすぐに規則的な寝息を立て始めた。
私は丈司さんのズボンのポケットからスマホを取り出し、顔認証でパスを解除する。
メッセージアプリを確認したけれど、別の女らしきやりとりは見つけられなかった。
ただ、私とのやりとりも今日のものしか表示されなかったことを考えると、他の女とのやりとりもすぐに消去している可能性がある。
ただ、全然違う男性名とはいえ私とのトークルームそのものはしっかりあったから、私以外には女はいないのかもしれないとも思った。
大胆なことに、笑歌とのやりとりは全て残っている。
笑歌の名前も、そのままだ。
きっとあの女はこれを見て、笑歌にぬいを送ったのだ。
他にも何かないかと、スマホにインストールされているアプリを確認したが、やはり別の女の影はなかった。
それから丈司さんのスーツやカバンを検め、数本の髪の毛を手に入れた。
丈司さんよりも私よりも長い黒髪。
これがあの女のものか、まだ確証はないけれど採取しておくに越したことはない。
念のため、丈司さんの髪の毛も数本取っておいた。
持ってきたジップロックに髪の毛を入れ、カバンにしまう。
丈司さんを揺すると、むにゃむにゃと少しだけ覚醒する。
「ねえ、丈司さん。私以外に誰かと付き合ってるの?」
「ん~? なに? えみか?」
「他は? 奥さん以外」
「いないよ……君だけ……」
また眠りに落ちる丈司さんを、冷めた目で見降ろす。
何が君だけだ、気持ち悪い。
まあいい。今はこれで。
私は偽物のぬいを丈司さんのカバンの底へと忍ばせた。
住所が分かったら、またやりようはある。
時間になって丈司さんを起こすと、まだ眠そうにしながらも自分で歩いて駅まで向かった。乗り過ごさないよう念を押すと、「座るとヤバいからずっと立ってる」と言ってホームに降りて行った。
スマホでGPSを確認すると、しっかり動作している。
そうして私は、原沼家の住所を手に入れたのだった。