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呪い呪われ回る矢印  作者: 南雲 皋
第一章《花畑ゆりあ》
8/28

第四話

エピソードを追加して改稿した関係で、他の話に比べて文字数が倍くらいあります…

 90分のほとんどが教授の好きなジャズの鑑賞という、どの先輩からもオススメされた授業を受けながら考える。


 あの女のぬいを使った呪いは不完全だった。

 だからきっとあの女には何も起きず、ただ気味の悪い人形が手元にある状態になったのだろう。


 笑歌を巻き込んできた時点でそれなりに覚悟はしていたのだけれど、人形の中に笑歌の髪の毛が入っていたことで完全に心が決まった。


 あの女のDNAを手に入れて、今度こそ完璧にあの女を呪ってやる。と。


 生年月日とフルネームは、顔写真を入手する過程で丈司さんのスマホからゲットしていた。

 だからあとは髪の毛なり爪なりを手に入れるだけなのだが、やはり現実的なのは髪の毛だろうか。


 ただ、丈司さんの服に付いた髪の毛がイコールあの女のものとはならないのが問題だった。

 元々笑歌の彼氏として紹介されたのに、私に粉をかけてくるようなクソ男だ。

 きっと他にもキープしている女がいるに違いない。

 まずは丈司さんの交遊関係を把握しなければ。


 私は机の影にスマホを取り出し、メッセージアプリで丈司さんを誘った。


『そろそろ会いたいな』


 流石に仕事中なのか返事はなかったが、遅くとも夜には予定調整の連絡が来るだろう。

 一番早く会える日を設定して、スマホの中身を確認させてもらいたい。


 あの女のDNAについては一旦置いておくとして、呪いについてだ。


 今、ぬいの呪いは笑歌に向かっているということでいいのだろうか。

 いや、ぬいの呪いというよりは別のものになっているように思う。


 だってこのぬいは、あまりにも笑歌とかけ離れているから。

 普通に考えれば、まともに機能するはずがない。

 けれど実際に笑歌の部屋ではおかしなことが起こっているし、私の身にも起きた。


 それはあの女の生霊なのか、ぬいについてきた別の何かなのか。

 確かなことは、何も分からない。


 全ての授業を終えた私は、オカルト研究会に行ってみることにした。


 私自身は、オカ研に所属しているわけではない。

 入学式の後のサークル勧誘期間に、ほんの少しだけ興味があるような話をして、別に貴重品があるわけでもないから鍵もかかってないし、メンバーじゃなくても好きに出入りしていいよと言われただけ。


 オカ研はサークル棟の中でも一番古い棟の、更に奥の方に部屋があるせいもあって足を運ぶだけでもかなり目立つ。

 素知らぬ顔をして一般女子大生を装っている私にとって、かなり足を運びにくい場所だった。

 とはいえ、どんな感じなのか興味はあったので、何回か人目を忍んで(たず)ねてみたことがあった。


 今日も、その時に会話をしたオカ研の会長がいて、私を見るとにこりと笑った。


「やぁ、花畑くん。久しぶり」

「お久しぶりです家永(いえなが)先輩」

「今日はどうしたの? 入りたくなった?」

「や、ちょっと……知りたいことがあって」

「ふむ、なんだろう」

「呪いについてなんですけど」


 私がそう言った瞬間、家永先輩の顔が分かりやすく輝く。

 立ち話もなんだからと示されたのは、ラーメン屋さんにあるような丸イスだった。

 年季の入った丸イスに腰掛けると、ギィィと軋む音がする。ただ、突っ立っているよりはマシだろう。私は先輩の方を見た。


「そもそも、呪いってなんだと思う」

「え?」


 そう言われても、パッと答えは出なかった。

 オカルト関連の本は好きで読んでいたけれど、単純に怖い話が好きだから読んでいただけで、そういう色々な概念の成り立ちや、原理みたいなものに対しての興味はそれほどなかったのだ。


「”呪術”と”呪い”の違い、とか」

「同じ、じゃ、ないんですか?」


 笑歌がここにいたら、もしかしたら知ったかぶりをしていたかもしれない。

 けれど今ここには私と家永先輩しかおらず、私の無知を晒すことにそれほど躊躇(ためら)いはなかった。

 先輩は、そんな私の返事にむしろ嬉しそうに頷いた。


「人間はさ、昔から人知を超えた”力”の存在を信じてきたんだよね。超自然的な力を自分たちのいいように使おうとする時、人は念じたり、呪文を唱えたり、儀式を行ったりする。そういうのは全部、”呪術”っていう大きな枠組みの中に分類される。日本には仏教との距離が近い人が多いから、怖い思いをした時になんとなく『南無阿弥陀仏』って唱えたりしちゃうことってあると思うんだけど、そういうのも呪術の括りだね」

「なるほど……」

「で、その”呪術”の中でも、特に”敵対して恨みに思う相手を害する”ために行われるのが、”呪い”なんだよね。江戸時代の国学者、(ばん)信友(のぶとも)は『方術源論』の中で呪いのことを『(うらみ)ある人に(わざわい)(おわ)せむと、ふかく一向(ひたすら)(おも)ひつめてものする所為(わざ)』と言っている」

「相手に何か災いが起これって念じるのが、呪いってことですか」

「そうそう。念じるだけじゃなくて、ほら、丑の刻参りみたいに相手に見立てた藁人形を作って、それに釘を打つとか、恨みを込めて作った呪物を相手の家に埋めるとか、そういう行為のことも指すね」

「人形……」


 思わず膝の上に置いていたトートバックを握りしめる。反射的に緊張してしまった私の変化に気付きもせず、家永先輩は嬉々として言葉を続けた。


「呪術と人形は切っても切れない関係だね! 呪いといえば人形、って言っても過言ではないくらいなんじゃないかと僕は思ってるけど。藁人形は言わずもがな、『日本書紀』にも、中臣(なかとみの)勝海連(かつみのむらじ)が、太子(ひつぎのみこ)彦人(ひこひとの)皇子(みこ)の像を作って(まじな)う、なんて記述があるし、平城京跡からは人名が刻まれ、目や胸に釘を打たれた木製の人形(ひとがた)が発見されてるしね。忍者の漫画にも出てたけど、泥人形で相手を呪うなんてのもあるし、紙人形、布人形、色んな種類の人形が呪物になってる」


 布人形。まさにぬいのことだと思った。

 聞くなら今しかないと思い、一度深呼吸をする。


「私、誰かから呪われてるかもしれなくて」

「呪い?」

「はい」


 一瞬、ぬいを見せようかと思った。けれど、そのぬいが誰を模しているかだったり、ぬいを作ったのが私であることまで説明したくはなかったし、余計なことを知られるわけにもいかなかった。

 だから直接ぬいを見せることはせず、口頭で触りだけを説明するに留めた。


「んー、でも、そんなに深刻に受け止めなくても大丈夫じゃない? ほら、病は気からっていうみたいにさ、呪いについて考えすぎると、自分の身に降りかかるマイナスなこと全部が呪いのせいに思えてきちゃうんだよ。そういう意味での呪いみたいなものはあるのかもしれないけど、だからこそ、真剣に受け止めすぎない方がいいこともある」

「そんな……」


 まさかそういう流され方をするとは思わなかった。私の表情が曇ったのを見てか、家永先輩が少し焦ったように言う。


「それに、心身ともに健康ならよっぽどの恨みを集中的に受けない限りは問題ないらしいよ。意識してなくても、無宗教でも、神仏に守られてるって読んだことがある」

「よほどの恨みを集中的に……」

「え、そんなにヤバいの? そんなことないでしょ? 花畑くん、別にクレーマーとかモラハラ気質ってわけでもないだろうし、大丈夫だって。ほんと、普通に生活してたら呪われることなんてないみたいだよ? 自分にマイナスな感情があるとつけ込まれやすいとか、誰かを呪っている状態が一番呪われやすいとかはあるらしいけど……あ、なんか悩み事とかある? 僕でいいなら聞くけど……」


 誰かを呪っている状態が一番呪われやすい。その言葉が私に重くのしかかった。

 私があの女を呪ったせいで、あの女からの呪いを受けることになった?


 プラスのパワー全開であろう笑歌を呪うほどの力があるのなら、無防備な私などすぐに影響を受けることになるだろう。だってそのぬいを作ったのは、私なのだから。


 ギリ……と奥歯をキツく噛み締めた。己の行動を後悔している場合ではないのだ。何か、突破口を見つけないと。


 パチン……パチッ……


 何かが弾けるような音がして、顔を上げる。家永先輩にも聞こえていたようで、キョロキョロと辺りを見回していた。


 ジジッ……ジジジッ


 埃っぽい室内を照らしていた蛍光灯がチラついた。数回の明滅を繰り返した後、一際明るく瞬いて、消える。


「昨日交換したばっかりなのに。やっぱりガタが来てると思うんだよねぇ、この建物もさ」


 全ての蛍光灯がそうなったわけではない。私の真上にあった蛍光灯だけが消えていた。

 残りの蛍光灯と、外から差し込む太陽の明かりがぼんやりと照らし出す部屋で、家永先輩が替えの蛍光灯を持ってくる。


 慣れたように壁に立て掛けられていた脚立に上る先輩を見ながら、背中に冷や汗が流れるのを感じていた。


「電気のスイッチ、切ってもらっていい?」

「あ、はい」


 入り口のすぐ横にあるスイッチに駆け寄り、パチンと押した。途端に薄暗くなる室内に少し怯む。


 大丈夫。先輩もいるし。


 私は意識的に深い呼吸を繰り返し、先輩の作業を手伝った。


「ポルターガイストとか、家鳴りなら楽しいのにね」


 ギシッ


 まるで先輩の言葉に返事をするように、天井が、鳴った。


「えー! もしかして本当にこれ心霊現象?! 僕、こういうの経験するの初めて!」


 感じていた恐怖心が、テンション高くはしゃぐ先輩のおかげで薄らいでいく。

 そうだ。必要以上に怖がることはない。蛍光灯が切れたから何だというのだ。


 元通り明るくなった室内で、気を取り直して人形を使った呪いのことを(たず)ねる。

 人形の中に相手のDNAを入れるタイプの呪いだと、どういうものがあるのか聞きたかった。


「そうだねぇ、やっぱり一番有名なのは呪いの藁人形だよね。でも、釘を打ち付けられているということはないんだろう?」

「はい。あー、マチ針は刺されたかもしれません」

「ああ、呪いの人形に針を刺すことは多いよね。日本だけじゃなく海外でもその手の呪術はよく聞くし」


 家永先輩が背後の棚から出してきた本には、アメリカの先住民が敵を模した人形の頭部や心臓に針を打ち込む話が載っていた。


「でも、呪いたい相手に呪いの人形を送るという話はあまり聞かないね。たとえば呪いを施した人形(ひとがた)なんかを相手の家の縁の下だったり庭だったりに埋めるとか、そういう使い方をしているのは知ってるけど」


 対象者の生活圏内に呪物を埋めるという話は私もいくつか見たことがあった。

 その考えが浮かばなかったわけではない。ただ、敷地内にこっそり侵入するという行為にデメリットが多すぎた。泥棒だと思われては困るし、近頃は防犯対策をしっかり取っている家が多い。

 あの女の家がそうでなくとも、近隣の家の監視カメラに映り込むなんてことがあれば警察沙汰になってしまう。それだけは避けたかった。


 そもそも、あの女の家を私は知らなかった。丈司さんにそれとなく聞いても、住所は教えてくれなかったからだ。積極的に探りにいって怪しまれるのも嫌だった。


「呪いの人形ってのはそれ自体を相手の分身として手元に置き、遠隔で相手を好き放題するタイプがほとんどだと思うけど……人形を送り込むっていうのは、むしろ人形そのものが呪いたい相手を攻撃する手段として機能しているように思える」

「……そうですね」


 確かに、私はぬいをあの女への攻撃手段として用いた。自分が呪われているのだと思ってほしかったから。


「人形の中に髪の毛を入れる方法を取れる人が、わざわざ呪物を相手に送り付ける理由はなんだろう。基本的に呪物は隠すものだ。本体があれば呪詛返しをされる可能性だって跳ね上がる。作った呪物を人に見られただけで呪詛返しが成立するパターンもあるのに、その危険を犯してまで……」

「あの、私の手元にはその人形があるんですけど、これを使って私が相手に呪詛返しをするっていうのは」


 家永先輩は少し驚いた顔をした後、腕を組んで「うーん……」と唸った。


「呪詛返しって諸刃の剣みたいなところあるからなぁ。ほら、呪詛をしてくるってことはそれなりに知識とか力がある人ってことでしょ? そんな人に変に呪詛返しして、もしそれを跳ね返されちゃったらとんでもないことになるんだよ。そもそも呪詛って、わざわざ返さなくていいんだよ。ただ祓えばいいの。自分の発した怨念は自分に返るものだからさ、呪詛を祓うことが、ほとんどイコール呪詛返しみたいなものなんだよね」

「それじゃあ、私が呪いを祓えば……」


 そこまで言って、考える。この呪いの出発点は、私なのだ。ならば、呪いを祓った結果、巡り巡って私自身に返ってきてしまうのでは?

 跳ね返された呪詛が強大な力を持つというのなら、幾つもの呪いを経て私に返ってくるものはどれほどの強さを持つのだろう。


 震える身体を落ち着けるうち、ふと思い付いたことがあった。


「……呪詛返ししてもらいたい、ということはありますか?」

「と言うと?」

「いえ、すみません全然知識があるとかではないんですけど、呪詛返しが失敗するような仕掛けがあって、人形を受け取った相手が呪詛返しをしたせいで痛い目に遭う、とか」


 家永先輩は顎に手をあててしばらく考え込んだあと、口を開いた。


「人形を受け取った相手じゃなくて、人形を送った相手とは別の人が痛い目に遭う可能性はあるかもね?」

「えーと……?」

「ほら、たとえば今ここに、僕が誰かに準備させた材料が並んでいるとするじゃない? で、それを使って花畑くんに人形を作ってもらうわけ。で、完成した呪いの人形を別の誰かに送り付けて、その人が呪詛返しをしたら、跳ね返ったものはどこに行くだろう」

「……私?」

「指示した僕、材料を揃えた人、人形を作った花畑くん。呪詛返しが三つに別れて行われたとしても、人形そのものを作った人間が一番影響を受けそうだよね」


 そういう可能性もあるのかと納得する。


 だとすると、先ほど見た呪いのぬい作成代行を商売にしている人は、いったいどれほどの呪いを抱え込んでいるのだろうか。

 完全にインチキだから、大手を振って商売にできるのだろうか。


 あの女が誰かを巻き込んでそんなことをするかは分からないけれど、私だって他人を巻き込みたくはない。

 その辺りも含めて丈司さんに探りを入れることにしよう。


 何がどう仕掛けられていたとしても、その大元は私と見做される可能性があるのだということは忘れないようにする。


 死にたくは、ないから。


 かといって、放置して笑歌に何かあっても困るわけで。笑歌も、私自身も守るために、私に何ができるのかを考えなくてはならなかった。


 その後、少しだけ雑談をして家に帰ることにした。

 家永先輩は「興味深い話をありがとう」と私を送り出してくれる。オカ研への無理な勧誘がないのはありがたい限りである。


 今日はバイトもないから、作り置きでもしようかな。そんなことを考えながら電車に揺られ、家の近くのスーパーに立ち寄った。

 野菜の特売が多いスーパーで、お財布に優しいので好きだった。


 トマトとズッキーニが安かったので、オクラとコーンの缶詰めも買って夏野菜のカレーにしよう。

 そう決めて食材をカゴに放り込んでいると、棚の影から視線を感じた。


「……?」


 そちらを見ても、何もいない。

 棚に並ぶ調味料に視線を戻すと、また見られているように感じる。

 何回か、視線を向ける度に何もいないことを繰り返し、子どもがイタズラでもしているのかと、足音を立てないように素早く棚の裏を覗いてみたが誰もいなかった。


 スーパーの中は冷房がガンガンに効いていて、肌寒い。冷たい風に汗が冷やされ、鳥肌が立って身震いした。

 笑歌の家の涼しさを思い出して少し嫌な気持ちになる。


 大丈夫。冷房のせいだ、この肌寒さは。


 鳥肌の立った二の腕を、手のひらでさすった。

 カレールーをカゴに入れようと手に持った瞬間、私の腕を骨ばった細い腕が掴んだ。


「ひっ!」

「ダメだよ」

「え?」


 シミだらけの腕。痩せ細った老婆が、薄汚れたシャツとスカートを身にまとって、私の隣に立っていた。

 無表情のまま、真っ直ぐに私を見つめている。


「ダメだよ、それは」

「えーと……あの、このカレー……あなたの、でしたか?」


 刺激を与えない方がいいと思い、手に持っていたカレールーを棚に戻した。

 しかし、老婆は私をまっすぐに見つめたまま。掴んだ腕を離そうともしない。


 どうしよう、店員を呼ぶべきか。


「あなたのやろうとしていることは、よくないことだよ。あなたのそばには、よくないものがいるよ。あなたがそれをすると、よくないものがふえるよ。あなたが全部持ってくれるならいいのだけれど、ねぇ?」

「いっ……った」


 細腕に見合わぬ力でぎゅううと腕を握られ、思わず声が漏れる。私が何かを言う前に、老婆は素早く身を(ひるがえ)すと、何も持たないままどこかへ行ってしまった。


 今のは、なんだ。

 あの老婆には何が見えていたのだ。


 掴まれていたところが、老婆の手の形に赤くなっている。


 この数珠、何の役にも立たないじゃん。


 まだ少し痛む腕をさすると、腕の数珠が頼りなさげにジャラリと音を立てる。

 気を取り直してカレールーをカゴに入れた。

 今度は誰にも邪魔をされず、視線も感じなかった。


 荷物を手に、家に帰る。

 ぬいの入ったトートバックは玄関のドアノブに引っ掛けて、冷房対策に持ち歩いているストールをその上から掛けた。


 冷蔵庫に食材をしまい、使うものだけを流しに置いていく。

 部屋のエアコンを少し高めの温度で入れて、廊下のキッチンにも冷たい風が回るように小型のファンを回した。

 キッチンに立つ自分に涼しい風が当たることを確認し、お米をセット。

 コンロに置いた大きめの鍋に野菜を切っては放り込んでいく。


ヴヴヴ……


 スマホが震え、メッセージの受信を知らせた。

 手を拭いてスマホを立ち上げれば、丈司さんから返事が来ていた。


『いいよ。水曜か金曜なら空いてる。あんまり遅くまでは一緒にいられないけど』

『嬉しい!水曜日で!』

『オッケー。18時にいつもの駅でいい?』


 両手で丸を作ったウサギのスタンプを送って、やり取りを終える。

 丈司さんとの会話はそう多くない。実際に会えばそれなりに喋るけれど、メッセージ上ではまるで業務連絡みたいなやりとりしかしないのだ。


 私は、丈司さんに奥さんと笑歌がいることを知っているからどうでもいいのだけれど、他の女にもこうなのだろうか?


 丈司さんに会うのは決まって新宿だった。

 ご飯を食べて、ホテルに行く。それだけ。

 もう少し、釣った魚に餌をやった方がいいと思う。そんなこと絶対に口にはしないが、きちんと餌をあげれば色々なことがバレずに誤魔化せたのではないかと思うくらいだった。


 本当に、救いようのないクソ男だ。


 野菜を切る手に力が入る。

 乱切りになったズッキーニは、丈司さんには届かない。


 夏野菜がたっぷり入ったカレーを煮込みながら、また視線を感じた。玄関の方。目だけを動かしてそちらを窺っても何も見えないけれど、それでも何かが、いるような気がする。


 気のせいだ。気のせい。

 怖いと思うから感覚が研ぎ澄まされてしまうのだ。鈍感になれ。何もない。私は何も、分からない。


 視線を感じる。

 低い位置から見上げてくるような視線。

 そう、例えば、ドアノブからぶら下がったトートバックの高さから私を見ているような。


 視界の隅で、ストールが床に落ちていった。

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