第二十四話
笑歌に促されるまま、ゆりあにメールを送った。
以前、友人なのだと紹介された女の子。笑歌の友人だというからどんな子が来るのだろうと思っていたら、想像よりはるかに普通の子がやってきて驚いたのを覚えている。
笑歌は、ゆりあのことが大好きなのだそうだ。
だから、俺もゆりあのことが大好きだ。
この頃から、俺は自分がよく分からなくなった。
仕事はいつも通りこなしているようなのだけれど、全く実感がない。実感はないのに、確かに自分がやっているのだという感覚はある。
まるで薄皮一枚隔てたところにいる、ほんの少しだけズレたもう一人の自分が、俺の代わりになにもかもを行っているような、そんな心持ちだった。
鏡の中の俺が、俺を見ている。
その瞳の中に映る俺は、俺は、それは本当に俺なのだろうか。
ぼんやりとした感覚のまま、時間だけが過ぎ去っていく。
頭の中には絶えず、女の声が響いていた。
『あの子が待ってるわ』
『私のこと、好きでしょう?』
『じっくん』
『丈司さん』
『早く子どもを作らないと』
『早く』
『早く』
『早く』
たくさんの声に埋め尽くされて、自分がどんどん小さくなっていく。
包まれていたように感じていた柔らかく暖かなものは、いつのまにか俺を閉じ込める檻になっているみたいだった。
出られない。どこにも、行けない。
ただただ、俺は声に従った。
抵抗する気力もなかった。だって、そもそも俺には、俺自身はこういう人間なのだと、俺はこう生きたいのだと、声高に主張できるものが何もないのだから。
流されるがままに、求められるがままに、期待に応えるようにして、俺は今までを生きてきたのだから。
声に従って生きていても、なかなか子どもはできなかった。
彼女たちに生理が来る度に、茉莉奈は露骨にがっかりした。溜息を吐き、俺を詰った。
自分にはどうしようもできない部分だからこそ、思うようにならなくて腹が立つのだと思う。なぜ、茉莉奈ばかりがこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。
もっと他に、子どもが持てなくても大丈夫な女性は大勢いるだろうに。
そんなことを思ったところで、どうにもならない。
相変わらず家には俺たちの子と、茉莉奈のお姉さんの子がいるらしいが全く感じられなかった。
夢で見ることはあったけれど、所詮夢の中のこと。実際にそんなものが見えるはずはないのだ。魂だなんて。
やはり茉莉奈は消耗しているのだ、かわいそうに。
ぼんやりした日々の中でも、少し変化があったように感じた瞬間が何度かあった。その瞬間に何があったか、思い出そうとしても何も思い出せないのだけれど。
「彼女がそうさせたのよ」
彼女とは、誰のことだろう。
茉莉奈は、何を持っているのだろう。
俺はぼんやりとしたまま笑歌の家に行き、張り紙をしてぬいを床に置いた。
茉莉奈によく似た、ぬいぐるみだった。
それから少しして、母から電話があった。
何を言っているかよく分からなかったけれど、要するにいつも視線を感じるという話だった。
幽霊でもいるのではないかと言うと烈火のごとく怒り出し、キイキイ金切り声を上げて叫ぶので電話を切った。
食欲がなくなって具合がよくないなどと言っていたが、あんなにも甲高い大声で騒げるのだから全く問題はないと思う。
茉莉奈に報告すると、母が病気なのではないかと言われた。
確かに、母ももう若くない。認知症の始まりは個人差があるというし、早いうちから医者に罹っていた方がいいのかもしれない。
俺は茉莉奈に言われるがままに実家に電話を掛け、父にその話をした。
母よりも、茉莉奈の方が心配だった。
この頃の茉莉奈はいつだって顔色が悪く、起き上がるのも億劫といった具合だった。
心配しているのに、それを口には出来なかった。俺の口は、まるで俺のものではないみたいに固く閉じられていて、茉莉奈が促さなければ発言することさえ出来なかった。
出社すれば、何もかも今まで通りだった。
自分の思うままに発言できたし、気分もよかった。霞がかったような感覚も、なかった。
「そういえば、原沼こないだ若い女の子と歩いてなかった?」
「え?」
同期の男からそう話しかけられ、一瞬思考が停止する。
若い、女の子。
「あれ? 人違いだったかな……なんか、めっちゃギャル! って感じの子と腕組んで歩いてたと思ったんだけど」
「あ、ああ、もしかしたら……姪っ子と一緒にいたのを見られたのかもしれないな。少し前、妻に頼まれて流行りの店に連れて行ったんだよ」
「あ、奥さん知ってるやつだったのか、よかった、ちょっとドキドキしてたんだよな」
言い訳は、茉莉奈が考えてくれていた。自分が知っていると言えば、大丈夫だろうと。もし茉莉奈に直接確認が言ったとしても、口裏を合わせれば問題ない。
茉莉奈が知っているというのは本当のことだから、嘘をついているという罪悪感もなかった。
うっすらと、思考に靄が掛かる。ああ、仕事中にも、俺が、霞む。
栄養ドリンクを飲み、必死で仕事に打ち込んだ。プライベートの話をしなければ、俺は俺でいられる。
家に帰ると、布や糸が散らかっていた。どうやら茉莉奈が人形を作っているらしい。前に笑歌の家に持っていったような人形のパーツが、いくつも床に転がっている。
それらは全て、茉莉奈の姉を彷彿とさせた。
人形を作る茉莉奈は鬼気迫っていた。もう、俺は見守ることしかできなかった。
命を削っているように、どんどんと痩せていく茉莉奈を見ても、止めることもできない。
本当に、俺の、俺たちの子どもはいるのだろうか。俺に見えないナニかは、いるのだろうか。
分からない。何も、分からなかった。
家の中の空気が、どんどん悪くなっていく。
二人で買ったお揃いのマグカップも、ひび割れたままキッチンに放置されていた。
観葉植物もほとんどが枯れて茶色くなっていて、どこの部屋にもモノが散らかったままになっていた。
茉莉奈の精神状態は、どう考えても悪かった。
「ねぇ、最近どうなの? ちゃんとやってるの?」
ちゃんとやってるよ、大丈夫。
「丈司さん、まだこの子が見えないの?」
見えない。
「愛が足りないのよ。悲しんでるわ、この子。あなたの周りをくるくる回ってる」
ごめん。
ごめん。
でも、俺には、ぼくには何も見えない。
身動きも取れない。夢を、見ているみたいにふわふわと、ぐるぐると、落ちていく。
「もう一人くらい母胎候補を……」
そう言われた瞬間、頭を殴られたような衝撃が俺を襲った。
ゆりあがいるのだと、言えなかった。
言ってはいけないと言われたから。誰に? 誰にそう言われたんだっけ?
ぼんやりとしている間に、茉莉奈が半狂乱になった。歪む視界の向こう側で、見えない何かに怯えるみたいにして茉莉奈が叫ぶ。
どうしたんだと駆け寄ることもできない。そもそもこれは現実なのか。
俺は、どうしてここに。ぼくは何をしているんだっけ。
それからも茉莉奈は度々、半狂乱になって悲鳴を上げた。何か良くないものが見えているらしく、誰かに助けを求めている。
そんな中、茉莉奈に手紙が届いた。中には、俺とゆりあが一緒に歩いている写真が入っていたらしい。
「どうして君がこんな写真を?」
だって、秘密のはずなのに。
よく分からないまま、ゆりあの存在は明らかになった。
茉莉奈は目の色を変えて、ゆりあを呪った。
そうか。今までのあれは全部、呪いだったんだ。笑歌の家に置いてきたあれも、茉莉奈の姉を模したあれも、ゆりあを模したそれも、全部。
呪いのせいで、茉莉奈はこんな風になってしまったのだろうか。俺たちの子は、どうなってしまうのだろうか。
「馬鹿のひとつ覚えみたいに繰り返さないで!」
茉莉奈は、もう正気ではないように見えた。
誰か、茉莉奈を救ってあげてほしい。助けてあげてほしい。
そう思っていると、スマホを握る茉莉奈の顔に光が差した。
どうやら、力になってくれる霊能者が見つかったらしい。
これで、呪いが解けるのだろうか。
茉莉奈はもとに戻るのだろうか。
俺は。え? 俺?
ぐちゃぐちゃの家の中、けれど最低限、俺の服だけは洗濯されアイロンがけがなされていた。
だから俺は変わらず会社に行き、怪しまれもしなかった。
笑歌に呼び出されて池袋に行くと、一軒家に連れていかれた。
知らない老人のいる家の中、一歩足を踏み入れると眩暈がした。
気持ちが悪い。視界が揺れる。笑歌が、俺の手を引く。
「うまくいくかな」
何の話をしているのだろう。
靄が。ぼんやりと。笑歌。茉莉奈。
「じっくん、ぬーいで!」
ああ、そうだ。俺は子どもを。子作りを。子どもを作らないといけないんだ。
スーツを脱いでいく。
生まれたままの姿になった俺を、笑歌が刺激する。
子どもを。
俺たちの子を。
ほら、茉莉奈、きっとうまくいく。
ああ、笑歌、いいよ。子どもを作ろう。
俺の全てが、笑歌で埋め尽くされていく。
笑歌。笑歌。笑歌。笑歌。
笑歌の中に精を吐き出し、布団に倒れ込む。
ああ、笑歌。おめでとう、笑歌。
それから俺は、笑歌と暮らし始めた。
笑歌の、狭い家に二人で。
スマホは、笑歌に渡した。通帳や財布も、全部渡した。
俺たちの子が産まれたら、誰も知らないところへ行って、三人で暮らそうねと笑った。
俺たちの子。待望の、子だ。
きっと、可愛いよ。
そうだろう、■さん、■■■。
あれ、何を言っているんだろう。
俺には笑歌しかいないのに。笑歌とこの子しかいないのに。
「もう、ゆりあだよ。ちゃんと今から名前呼んであげて。あ、見て、今蹴った!」
「ゆりあ」
「ふふ、もぞもぞ動いてる。ゆーちゃぁん、パパとママだよ~。早く産まれてきてね。元気に、産まれてきてね」
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
「旦那さんもほら、一緒にお写真写りましょ!」
「はい」
「お名前はもう決まってるんですか?」
「決まってるよね、じっくん!」
「はい、ゆりあです。河合、ゆりあ」
俺の子。可愛い子。
ずっと一緒だ。ずっと。ずっと。
それで合ってるよな、笑歌。
俺は、間違ってないよな。
誰か、教えてくれ。
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
かわいそう-END
【参考文献】
『呪術と宗教』フレーザー[他]/新撰書院
『呪術の本 禁断の呪詛法と闇の力の血脈』/学研プラス
『呪術探究 巻の2 呪詛返し』呪術研究編集部/原書房
『呪法秘法の書 弍』黒塚信一郎/原書房
『図説 日本呪術全書』豊嶋泰国/原書房




