第二十三話
あの電話からしばらくして、茉莉奈が実家に一度帰った。
どうやら手術は無事に終わったらしく、少しの期間をおいてまた子どもが授かれればいいなというような話をしたらしい。
今までの茉莉奈であれば、そんな話などしたがらなかっただろうに。
変なものが見えると言い出して精神的に不安定なのかと心配したけれど、それ以外の部分ではむしろ元気になっているように思えた。
母からは、相変わらず連絡が来る。
子どもはまだかとせっつく声が漏れ聞こえ、本当のことを伝えた方がいいのではないかと提案したが断られてしまった。
もう子どもが望めないと分かったら、離婚を迫ると思っているのだろうか。
そんなことはないと自信を持って言えないことが、申し訳なかった。
そんな俺の揺らぎを感じ取ってなのか、ここのところ茉莉奈は俺によく触れてくる。
今まではリビングのテーブルで向かい合って会話をすることが多かったが、最近はもっぱらソファで、隣に座って喋るようになっていた。
茉莉奈と話していると、いつの間にか心地よくなっていて、思考がふやけていく。
気付けば眠ってしまっている時もあって、ハッと覚醒して慌てて謝るなんてことも多々あった。
夢に茉莉奈が出てくることも多かった。
夢を夢だと自覚したことなど今までなかったというのに、ふとした瞬間にこれは夢なのだと気付くことが増えた。
その日も、俺はベッドに横たわっていて、いつも目覚める時のように目を開け、そして今が夢の中だと本能的に察知した。
むくり。
身体を起こす。
いつも、目覚めると隣で寝息を立てている茉莉奈の姿が、今はない。
少し前まで彼女がいたに違いない温もりと、少しのシーツの乱れだけが残っている。
「茉莉奈?」
家の中は静まり返っている。
俺の寝巻きとシーツが擦れる音がやけに耳につく。
ギシ。
いつもは気にならない床板の軋みが。
キィ。
いつもは気にならない扉の開閉音が。
何もかもが耳に残る、静かすぎる家の中。
茉莉奈を探して歩く。
茉莉奈は、リビングのソファに座っていた。背筋をピンと伸ばして、座っていた。
真っ直ぐ前を向いたまま、ピクリとも動かない。
「茉莉奈……?」
ぽん、と肩に手を置いた瞬間、茉莉奈の首がぐるんっと回転した。
人の可動域をはるかに超えた方向を向いたまま、無表情だった茉莉奈の口がにちゃりと笑う。
「丈司さん、私たちの子だよ」
背中を見せたまま、顔だけで真っ直ぐ俺を見て、茉莉奈は言う。
ゆっくりと、立ち上がり、顔の位置は全く動かないままで、身体だけがじわじわと、回転して。
大きく膨らんだ胎を、内側から無数の手が、足が押している。
少しタイトなシャツを、たくさんの手が、足が、その形を見せつけるように押していた。
「本当は、もう一回産みたいの。でも、無理なの。だから、別のお腹を探さないと」
茉莉奈が、ブラウスを捲り上げた。
大きく膨らんだ胎は、血に塗れていた。ぱつんと張った胎ではなく、皮膚を失った肉塊のように、蠢いて、手が、足が、胎が裂けていく。
「私のお腹じゃ、上手く育たないの。もっと、丈夫な女性を見つけないと。若くて、健康な女の子。分かるでしょう?」
茉莉奈の手が、俺に伸びる。
胎から伸びた手が、俺を掴む。
ぬらぬらと、べっとりと濡れた小さな指が、俺の腕に血の跡を残して消えていく。
ああ、消えないで。
消えないでくれ。
俺の、子ども。
「俺の、子ども」
「そうよ。あなたの子ども。元気な子宮を見つけて、あなたの子どもを作ってきて。そうしたら、この子が入れるの。そうしたら、この子が産まれるのよ。私たちの子が」
「俺たちの、子ども」
おぎゃあ おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
俺たちの子どもを、作ろう。
ハッと目を開けると、見慣れた天井だった。
昇ってきたばかりの朝日がほのかに差し込む薄暗闇の中、隣には茉莉奈が眠っている。
変な……夢を見たような……。
ぼんやりとしたまま起き上がり、水を飲もうとキッチンへ向かった。
リビングを通り過ぎようとした時、ソファが目に入って、そして俺は、俺は。
その日から、どうにも調子がおかしいような気がした。
何か、違和感があるような。
けれど、その違和感がなんなのかは分からない。
ただ、今までは真っ直ぐ帰宅していた仕事終わり、繁華街によく行くようになって。
そこで、笑歌を見付けたのだった。
あまりに、眩しい子だった。
若くて、力強くて、自分を持っていて。
俺にはないものばかりを持っている、女の子。
俺は思わず声を掛けていた。
「へ? なに? ナンパ? あたしに?!」
「えーと……うん、ナンパ、なのかな。君に、興味が湧いて」
どうしてだか分からないけれど、彼女を手に入れなくてはならない気がした。
「あは、ウケる。え、あっちに高そーな喫茶店あんだけど、行ってい? アンタの奢りで」
「も、もちろん。行こう」
「えー! やったー!」
アイスコーヒーを飲みながら、彼女と当たり障りのない会話をした。
お互いにフルネームを教え合うと、彼女は笑って「じゃあじっくんで」と言った。
じっくん。
母に呼ばれていたその名が、笑歌の声で上塗りされていく。
変な顔をしていたようで散々爆笑されたが、その流れで連絡先を交換することができた。
よかった。
早く子どもを作らないと。
その日はそのまま別れ、家に帰った。
夢の中で、俺に早く子どもを作れと言う茉莉奈に、笑歌の話をする。
若くて、健康な、女の子。
まだ連絡先を交換しただけだけれど、これからたくさん、会うようにするから。
「そうね。頑張って。生理の日もそれとなく聞き出せたら覚えておいてね。こっちで記録をつけるようにするから」
分かったよ。
頑張る。
「えぇ、頑張って。あなたにしか出来ないことよ。この子に肉体を与えてあげられるのはあなただけ」
俺だけ、ぼくだけ……。
何度かデートに誘い、ご飯を食べたり映画を見たりした。
最近の若い子達が何を楽しむのかはあまり分からなかったけれど、笑歌はいつだって楽しそうにしていた。
子どもを、作らないと。
ホテルに誘ってみても、笑歌は乗ってこなかった。
交際をしているわけではないからダメなのだろうか。
やはり、きちんと恋人にならなくてはならないのか。
「でもさ、もうなんかウチら、付き合ってるくね? もう何回遊んでんだよって感じ!」
「じゃあ、付き合おう」
子どもを、作らないと。
そうして、笑歌と恋人になった。
恋人になってからも何度かホテルに誘ったけれど、ゆっくり少しずつ進みたいタイプなのだと言われて踏み込めなかった。
どうして、恋人が?
だって俺には。
あれ?
時々、自分が何をしているのか分からなくなる。
自分が自分でなくなるような、気持ちの悪さ。
俺は。
僕は。
「じっくん?」
「え? あ、ごめん。ぼうっとしてた」
「大丈夫? そろそろ帰ろっか」
「あー……うん、そうしよう」
別れ際、そっと抱きしめて、口付けを交わす。
俺の唇に付いたグロスを笑歌が拭き取り、笑った。
「またね」
「また、連絡する」
ひらひらと手を振って改札をくぐり、電車に乗って、俺は何をしているんだっけ。
ああ、会社が終わって帰るところだった。そう、こんな時間に?
同期と飲んでいたんだっけ。それにしてはアルコールを感じない。けれどお腹は膨れていて、レストランのレシートがポケットに入っている。
俺は。
家に帰り、さっとシャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。
眠い。瞼が重たい。頭が痛い。気持ちが、悪い。
また、夢を見る。
茉莉奈の胎は相変わらず血に塗れた肉塊で、蠢いて、俺を掴んで離さない。
「笑歌って子は? 最近どうなの? セックスはできた?」
まだ、できてない。
だって、いつも断られて、俺は。
「大丈夫? できそうなの?」
何回か誘ったけど、難しくて……。でも、恋人同士ってことになったから、もうすぐできると思う。きっと、できる。子どもを、俺の子どもを、早く、作らないと。
「早くしてね。早く妊娠してもらわないと」
早く、早く妊娠してもらわないと。俺は。
ぐるぐる、ぐるぐる。思考がとっ散らかって、上手く立っていられない。
仕事をしている時だけは、真っ直ぐに立っていられた。
ただ目の前の案件に打ち込んで、案を出して資料を作ってプレゼンして、いつものようにチームのみんなとブラッシュアップして企画を練り上げて。
「最近、なんか顔色悪くね? ちゃんと寝てるか?」
「うーん、睡眠時間はしっかり取れてるはずなんだけど」
「睡眠ってさ、量より質って言うじゃん。枕とかテキトーなの使ってんだろ、いいやつ買うとマジで違うぞ。俺この間オーダーメイドの枕買ってさ」
「え、オーダーメイド枕、私も気になってるんですよ。お店紹介してください」
企画会議が終わって、同期に心配された。
そこから睡眠の質の話になり、サプリやアロマの話なんかにもなって。
今度、枕の店にみんなで行ってみようなんて話にもなったのだけれど、俺は。
「俺は、嫁さんと行こうかな。誘ってくれてありがとう」
「おー、そうだよ、せっかくだし嫁さんにもプレゼントしてやんな」
「原沼さん、マジ愛妻家ですよね。羨ましいな〜。私も原沼さんみたいな旦那さんゲットしたい!」
「合コンにこいつレベルはなかなか来ねえぞ」
「合コンの話はやめてください。直近でクソみたいなの引いたんで……」
「お、おう……ドンマイ」
プライベートの時間は、全部笑歌に使わなくては。
だって、早く仲を深めて、子どもを作らなくちゃいけないんだから。
ようやく笑歌とホテルへ行けた日は、三度も射精することができた。
普段はこんなにしないのだけれど、俺の子どものためには多少の無理も仕方がない。
空になった栄養ドリンクのビンが、カバンの中で鈍く光った。
「ねぇ、じっくん。ちょっと疲れちゃったしさ、ごろんしよ〜」
シャワーを浴びた笑歌が、俺に抱きついたままベッドへと横たわる。
隣り合って寝そべると、笑歌の手のひらが俺の視界を奪った。
「目を閉じて、あたしの声だけ聞いて。眠っていいよ、ゆっくり……ゆっくり……」
ぐるぐる、ぐるぐる。笑歌の声が俺の中に溶けていって、ぐるぐると、思考を掻き混ぜる。笑歌。茉莉奈。母さん。笑歌。ああ、俺は。
ここは、どこだろう。




