第二十二話
いろいろとあったものの、俺たちの結婚生活はそれなりに順調だった。
茉莉奈は家事を文句なく完璧にこなしてくれ、俺は仕事に打ち込める。
上司の覚えもよく、同期からも一目置かれるようになり、第二の輝かしい人生を歩みだしたような心持ちだった。
唯一、上手くいかなかったことといえば、俺たちの間になかなか子どもが授からないことだった。
結婚してから数年は特に気にすることもなく過ごしていたが、二十五を越えた辺りで周囲から妊娠報告を頻繁に聞くようになり、まずはタイミング法というものを試してみたいという話をされた。
基礎体温を記録し、毎月の排卵日を明確にして、妊娠の可能性が高い期間に重点的に営むようにした。
それでもやはり子どもはできず、もしかするとどちらかに何か原因となるものがあるのではないかという話になった。まず茉莉奈が婦人科に相談しに行き、その後ふたりで検査を受けてみるということになった。
結果として、ふたりともに健康であり、妊娠には何の問題もないということだった。
ならばもう少し、とタイミング法を続けてみたものの、一向に妊娠できない。
不妊治療も視野に入れてと医者は言ったが、茉莉奈は自然妊娠への希望が捨てきれないようだった。
そのうち、母が茉莉奈に何くれとなく文句を言うようになった。
母としては、結婚して数年すれば子どもができて、その流れで俺たちが母の元へ戻ると思っていたのだ。それがもう、大学時代も含めれば十年以上も実家に戻っていないのである。
長期休暇の際には帰省もしていたが、茉莉奈によって母の異常性に気付かされてみると、足が遠のくのは当然と言えた。仕事を理由にそれとなく帰省を先延ばしにしてきたことに対する不満も、茉莉奈に向かっていたのだと思う。
「最近、お義母さんからの電話とメールがすごくて……」
見せられたスマホには、大量の着信履歴と開封されないままのメールがあった。
俺は茉莉奈を慰め、そして母にそれとなくお願いをした。
茉莉奈のおかげで以前より母との距離を取れるようにはなっていたものの、直接母のやることに反対意見をぶつけるのは難しかった。
メールで、かなり回りくどい言い方にはなってしまったけれど、それでも言いたいことは伝えられたように思う。
ただ、それによって母がヒートアップしたことは想像に難くない。茉莉奈は日に日に元気をなくし、けれど妊娠への可能性を模索して不妊治療に踏み切ることになった。
そうして、しばらく経った頃、俺たちの間に待望の子どもがやってきたのだった。
ただ、妊娠したことは誰にも言わなかった。
茉莉奈の携帯には相変わらず母からの連絡が来ていて、妊娠を知れば今度はべったりと干渉してくることは十分に予想がついた。
それに、妊娠というものはいつ何があるかも分からないと、俺たちは知っていた。
せめて安定期に入るまでは、茉莉奈の家族にさえも知らせないでおこうということにしたのだった。
会社の関係者にも、言わなかった。母は時々会社にも連絡してきていたし、どこからどう話が漏れるかも分からない。
茉莉奈自身にも、お腹の子にもストレスを与えぬよう、茉莉奈に来る母からの連絡は全て俺に回してもらうようにした。
茉莉奈の体調を第一に、あの時の友人の父親の様に、俺にできることがあれば何でもした。
なのに。
あの日。何だか胸騒ぎがして飲みの誘いを断り、足早に家に帰った俺は、廊下に倒れる茉莉奈を見つけた。
スカートが血に塗れ、一目で異常事態だと分かった。
慌てて救急車を呼び、定期健診の際に持っていくトートバックを掴んで一緒に病院へ行った。
妊婦なのだと訴えると、救急隊員の顔がさっと曇るのが分かった。
その表情を目の当たりにして、苦しむ茉莉奈を前にして、汗が止まらなかった。お腹の子は。茉莉奈は。
病院に着くと、茉莉奈はストレッチャーに乗せられて手術室へと運び込まれていった。俺は看護師と医師から説明を受け、同意書にサインをした。
お腹の子は絶望的だと聞かされた。母体も危険だと。
どちらも助けようと頑張って母子ともに失うか、どちらかを……赤子を諦め母体最優先で処置をするか。そういう覚悟を、選択を委ねられた。
俺には、選べなかった。
茉莉奈がいないと、何も決められなかった。だから、茉莉奈を選んだ。
もう、茉莉奈なしでは生きられないのだ。
子どもはまた望めるかもしれないが、茉莉奈は俺の唯一なのだから。
しかし、俺のその考えもすぐに打ち砕かれることとなった。
処置をしている最中にまた話をされ、子宮を全摘出しなければ茉莉奈の命も危ないと聞かされた。
もう、子どもができない。
目の前が真っ暗になった。
どうすれば、どうしたら、母に電話を掛けそうになって、慌てて踏みとどまる。
だめだ。母には聞けない。
結局、俺は茉莉奈の命を最優先にした。
子どもを失い、子宮を失った茉莉奈の隣で、情けなく泣いた。
俺よりも茉莉奈の方がつらいに決まっているのに、最初、茉莉奈は泣かなかった。
何もなくなってしまった平らな腹部をさすりながら、茫然としていた。
そのうち、茉莉奈の瞳からどんどん涙が零れてきて、病院だということも忘れてふたりで泣いた。
看護師が連れてきてくれた俺たちの子は、可愛らしい女の子だった。
顔も身体も手も足も全部小さくて、可愛くて、けれど目を閉じたまま、ピクリとも動かない。
産まれた実感も何もないまま死亡届を出し、きちんと火葬してもらった。役所の職員も、斎場の職員も、皆が皆、泣きそうな顔をしてお悔やみを言ってくれた。
きっと、母はこういう顔もしないのだろうなと思った。
娘の骨は小さかった。骨壺も小さかった。茉莉奈が抱えて、一緒に帰った。
家の中で一番陽当たりのいい場所に、娘は置かれた。ほんの少しだけ用意していた子供服とおもちゃを、骨壺の隣にそっと置いた。
そんなことがあっても、まだ茉莉奈は懸命に日々を過ごしていた。今までと変わらない風に、必死で。
それが捻じれ始めたのは、彼女の姉の電話がキッカケだったように思う。
折に触れて優秀なのだと聞かされていた彼女の姉は、誰もが知っているような大手に勤め、ともすると俺よりも稼いでいた。
いわゆるキャリアウーマンであった彼女はしかし結婚からは遠い人であったのだが、それが突然の妊娠と結婚である。
茉莉奈のお腹に子どもがいたことも、今はいないことも知らない彼女の姉は、ただただ無邪気に喜び、そしてその喜びを茉莉奈に共有した。
結婚式には絶対に来てほしいと、日程調整を求める連絡を見て、俺は無理をしないでと声を掛けた。
茉莉奈は、見たこともない顔で笑っていた。
「もしもし、お姉ちゃん? うん、今見たよ。私はいつでも大丈夫だから、他の人のスケジュールだけ見て調整して。うん、うん。楽しみにしてるね」
何事もないような顔をして、茉莉奈は結婚式へ参加する準備をした。
その頃から、何もいない部屋の隅や天井の方を見て、なにやら喋ることが増えた。
俺は茉莉奈が強いストレスに晒されて精神的に参ってしまったのではと思った。
心配して声を掛けるのだが、ことごとく無視されるか、大丈夫と言って笑うだけ。
茉莉奈を支えなくてはと思うのに、何もできなかった。
彼女の姉から都度送られてくるエコー写真や、胎動を映した動画など、見なくていいものを無表情で眺める茉莉奈に、何もできなかった。
俺も一緒に、結婚式に参列した。
俺たちの結婚式とは比べ物にならないくらいに大きく、豪華な式だった。
参列者も多く、誰もがきらびやかで、楽しそうだった。
あまりにも場違いなところへ来てしまったような気持ちになって茉莉奈を見ると、余裕のある笑顔を浮かべて姉と、新郎親族へ挨拶をするではないか。
俺も必死で笑顔を作り、茉莉奈に追従した。お礼の言葉を言い、義理の兄に挨拶をする。
緊張したまま式は進み、出されたコース料理の味も分からぬまま居心地の悪さを隠すように過ごした。
茉莉奈がもう一度姉のところへ行くというので、一緒に向かう。高砂に座る花嫁は、誰よりも輝いて見えた。
少し目立つようになってきたお腹を、茉莉奈の手が優しく撫でる。
「お友達になろうね」
茉莉奈は、いったいどんな気持ちでその言葉を言ったのだろう。
本来であれば同い年か、ひと学年差で産まれるはずだった子どものことを思うと、胸が苦しくなる。
あの日、俺がもう少し早く家に帰っていれば、もしかしたら救えたかもしれない命。茉莉奈と天秤にかけて、選べなかった小さな命。
泣きそうになるのを誤魔化すようにスマホを取り出し、茉莉奈と姉の写真や動画を取った。
結婚式は、大盛り上がりのうちに終了した。
かなり無理をしたのではないかと茉莉奈の様子を窺ったが、そこまで落ち込んだりはしていないように見えた。
けれど、相変わらず何もいない場所を見ては微笑んだり、頷いたりすることを繰り返していた。
そうしてそれは、更に悪化したのだった。
「お友達が来たの。すごいわ、言った通りにできたのね」
茉莉奈曰く、自分の周りから離れない我が子と、その子が連れてきた姉の子だと言う。
「自分と同じくらいになったら一緒に遊ぼうって、そうしようって話をしていたの。だからきっと、上手くいったのよ。これは姉の子なんだわ」
俺には、何も見えない。
茉莉奈にしか見えていないソレは、幻覚の類なのではないかと不安になる。
心配して病院に行こうと言っても、聞いてくれなかった。
そして、そんな会話をした翌日、茉莉奈に姉から連絡が来たのだ。
流産したと。そう言った。
聞いた瞬間、あの日の茉莉奈の姿がフラッシュバックして眩暈がした。
ただ、茉莉奈とは違って現状母体に何か問題があるというわけではなく、妊婦検診に行った際に鼓動が止まっていることが確認されたらしい。
今度、お腹の子を取り出す手術をするのだという。
「言いにくいことなのにありがとう。無理に連絡しなくても平気だよ。お大事にね」
姉を慰めるように優しい声をかける茉莉奈の顔には、満面の笑顔が浮かんでいた。




