第二十一話
母の機嫌を窺うばかりの家だった。
母が笑っていられるようにしなくてはならなかった。
それが、全てだった。
父は、いつだって母を立てた。母の望む物を用意し、母が望む言葉を贈る。
母に言われるがまま、求められるがままに全てを与えた。
当然のように、ぼくもそう育てられた。
我が家の中心は母だったし、それはすなわちぼくの世界の中心が母であるのと同義だった。
保育園に通っていた頃、ぼくはいつも母の後ろにいた。母は絶対にぼくを前に立たせることなく、ぼくに話しかけてくる子への対応もまずは母が行った。
母の満足いくやり取りを経て、ようやくぼくがその子と話せるようになる。
ぼくを取り巻く人間関係は全て、母が構築していた。
「じっくんはお母さんの宝物だから。お母さんが大事に守ってあげないとならないの」
母の機嫌がいい時、母の中心もまたぼくだった。だからぼくは、母の中心で居続けられるように生活した。母の愛が途切れないように、生きた。
どこの家庭も同じだと思っていて、けれどそうではないかもしれないと思ったのは小学校に上がり、友達の家に遊びに行った時のことだった。
彼の家には両親が揃っていた。
父親というものは平日の昼間家にいないものだと思っていたぼくは、その時点でかなり面食らっていた。
「うちの父さん、家で仕事しててさ」
「そ、うなんだ」
ふたりでゲームをしていると、彼の母親がひょいと顔を覗かせ「いいお天気なのに、外で遊ばないの?」と言った。
それに対して腰を浮かしかけたぼくを尻目に、友達は「いいんだよ、だって父さんも母さんも一緒にゲームできないじゃん。これはひとりでやるより誰かと一緒にやるのが面白いんだから」と答える。
ぼくは、目を剥いて驚いていたように思う。
だってそんなこと、ぼくにはできない。しようとも思わない。母の機嫌が悪くなる前に慌てて外に遊びに行くことしかできないのに、彼は。
そして、彼にそんなことを言われた母親の方も、「そうなの」と、それだけ言って去っていくではないか。
ぼくがそんなことを言おうものなら、きっと母は怒り狂い、ぼくを家から締め出し、数日間は食事の用意もしてくれなくなるだろう。
あまりのことに唖然としていると、更なる衝撃がぼくを襲った。
「バナナケーキ食べる? ぼくが作ったんだけど」
「え……? あの、お父さんが?」
「食べるー! アイスも? 生クリーム?」
「どっちもいっちゃうか? せっかくお友達来てるしな」
「やったー!」
ケーキを父親が作るということ以前に、父親が台所に入れるという事実が信じられなかった。
台所は母の聖域だった。父もぼくも一歩も立ち入れない聖域。
家族のためにお金を稼ぐのが父の役割で、家の中のことは全て母の役割で。
だから嬉々としてケーキを切り分けて皿に乗せ、バニラアイスに生クリーム、チョコソースを盛り付ける友達の父親が、あまりにも別次元の生き物に感じられて気味が悪かった。
同時に、自分の立っている場所が揺らぐのを感じた。
衝撃を受けたことを悟られないように笑顔を作ってケーキを食べた。
味は、分からなかった。
家に帰って、その日あったことを母に報告した。
いつものように家を出てから帰るまで、どこで誰とどんなことをしたのか話していると、母の顔がみるみるうちに歪み、そしてぼくの腕をぎゅうと握りしめた。
痛いと口に出す前に、母はぼくを離して電話に向かっていた。
受話器を片手に唾を飛ばして捲し立てる母の横顔は恐ろしく、ぼくは廊下に蹲って嵐が過ぎるのを待った。
電話の相手は、どうやら今日遊んだ友達であるらしい。
「おたくは常識がなってない」
「教育に悪い」
「もう二度と関わらないで」
その日が、ある意味では分岐点だったのかもしれなかった。
その日以来、ぼくは彼と近付くことさえ禁じられた。
母の干渉は苛烈さを増し、ぼくの周りにはぼくと同じような人間だけがいるようになった。
ぼくと母の関係をおかしいと言う人間は、ぼくと母の関係を疑わせるような人間は、誰もいなくなっていた。
§
高校生になる頃、母に一人称を変えるように言われた。
「そろそろ、ぼくって言うのは終わりにしなさい? もう大きくなったんだし、俺って言った方がカッコいいわよ」
俺は言われた通りにした。
時を同じくして、母から新たな教育を受けた。
それは、異性に関することだった。
高校生ともなれば、友人たちの中にもちらほら彼女ができたという話が出るようになった。それを報告した流れで、俺の彼女としてふさわしい女性像を教わったのだった。
「いずれ結婚したら私の娘になるんだから、変な子を選んじゃダメよ」
俺は母に言われた条件をしっかりと頭に刻んだ。
クラスメイトや、塾で同じクラスになった女性には条件に合致する子はおらず、友人たちが悲喜交々する中、俺はそう言った話のカケラすら出ることなく高校生活を終えた。
東京の大学を選んだのは、友人のアドバイスがあったからだった。
その友人も上京したかったらしく、両親を説得する材料として俺を使いたいようだった。
東京に行った方が世界が広がる、就職の幅も広がると言われ、なるほどと思った。
母に言うと、初めは反対された。親元を離れるなんてとヒステリーが始まりかけた時、珍しく父が俺の味方をしてくれた。
「俺は大学の時に一人暮らしをして、母の偉大さを実感したんだよ。やっぱり実家が一番だ、ってさ。だから丈司にも、一回体験させていいんじゃないか?」
「じっくんは今だって十分そう思ってるわよ、ねぇ?」
「うん……思ってるよ」
「ほら!」
「今よりももっとってことだよ。自分が思っていたよりも支えられていたんだなって実感するっていうかさ。それに、……ほら、この辺りには丈司にふさわしい子がいなかったんだろ? 東京に出ればいい出会いがあるかもしれないじゃないか」
その後、数日経って母は俺の東京行きを許可してくれた。
俺を誘った友人は第一志望に合格できず、それほど行きたかったわけではない滑り止めの大学にギリギリ補欠合格していた。
彼よりかなり早く合格を決めていた俺に腹を立てたらしく、気付けば疎遠になっていた。
俺はひとり、東京での生活を始めることとなった。
そうして出会ったのが茉莉奈だった。
茉莉奈は、俺の、そして母の理想の女性だった。
清潔で品のいい見た目であるのに、いつだって自分に自信がなさそうに一歩引いたところから他者を見ている。新入生歓迎会でも他の学生や先輩のグラスが空きそうになるタイミングを見計らって店員を呼んだり、大皿の料理を取り分けるのも大抵彼女がやっていた。
かといって男に媚びるような態度も取らず、真面目な顔で座っている彼女が目に付いて、気付けば連絡先を交換していた。
家に帰って母に電話をかけ、彼女のことを話すと好印象だった。
歓迎会の最中にこっそりと撮った写真をメールで送ってもその感想は変わらず、むしろもう少しどんな子か知りたいから仲良くなってみてと言われるくらいだった。
彼女しかいないと思った。
慣れないながらもアプローチをし、何度かデートをした。その度に母にどんなことがあったか、どんな会話をしたか報告し、母の中でも彼女しかいないという結論に至ったようだった。
就職活動で思ったように結果の出ない彼女に、卒業を機に結婚してほしいとプロポーズをした。女性には、家を守っていてほしい。外で稼ぐ自分を支えてほしい。
彼女は驚いた顔をして自分の頬をつねっていた。
冗談でも夢でもないと言い、そうして俺たちは籍を入れた。
唯一、母の誤算だったのは、彼女が結婚後も東京で暮らし続けたいと言ったことだった。
ただ、その頃には俺の就職も決まっていて、数年は東京本社で結果を出した方がなにかといいだろうという話にもなったのでそれほど問題にはならなかった。
結婚式は、あまり派手には行わなかった。
そもそも、俺に友人が少なかったというのもある。母の許可する友人は年々減っていて、今まで友人だった者たちも進学などを経てどんどん疎遠になっていたから。
招待したい人は多くないと言うと、彼女は少し意外そうな顔をした後、小さな声で「私も」と言った。俺たちは身内と、数少ない交流のある友人らを招待して式を挙げた。
母は式に色々と口出ししたがったが、ウェディングプランナーが頑として母に主導権を渡さなかった。
俺に何度も文句の電話やメールが来ていたが、俺にはどうすることもできないとしか言えなかった。
結婚式場にやってきた母の機嫌は良くはなさそうだったが、大勢の人の前で騒ぐようなことはしなかった。
結婚して彼女と暮らすようになると、小学生の頃に友人の家で受けたものと同じ種類の衝撃を何度も味わうようになった。
自分の立っている場所が、固い地面だと思っていた場所が、どんどん崩れていくような気がした。
茉莉奈はそんな俺を、ゆっくりゆっくり支えて立たせてくれた。
俺と母の関係は健全ではないと。俺を取り巻く人間関係はどれもどこか歪であると、ぐちゃぐちゃになった俺の中身を懇切丁寧に解きほぐしてくれた。
「あなたは、あの人のモノではないのよ」
「あなたの友人はあなたが選べばいいの」
「結婚相手もそう。私を選んでくれて嬉しかったけれど、それがあの人の条件に合うっていう理由だけだったら悲しいわ。でも、そうじゃないでしょう? あなたの意思も少しはあるでしょう?」
「小さな頃から押し込められてきたせいで小さすぎて見えないだけよ。あなた自身の気持ちや考えだって絶対にどこかにあるはずだわ」
「大丈夫、一緒に見つけていきましょう」
「あなたが好きなもの、あなたが好きなこと」
「ゆっくりでいいのよ。どんなに小さなことでもいいの」
「まずは、今日のご飯からね。ご飯とパンだったらどっちが食べたい?」
「大丈夫よ、私がついてる。私の目を見て、私の声だけ聞いて」
「それじゃあ、パンを食べましょう。あなたの選んだパンをね」
そうして俺は、徐々に母の愛から抜け出していったのだった。




