第二話
「ゆーちゃん? え、大丈夫?! やっぱコレってヤバい感じ?!」
笑歌の焦ったような声に、ハッと我に返る。
いけない。今は笑歌のことを考えなくては。
私は軽く首を振り、微笑んだ。
「ごめん、本物見たの初めてだったからちょっと面食らった。大丈夫だよ」
「良かったー、でも無理はしないでね? あたし霊感とかないしさ、気にしないでもへーきかもだし」
「うん。とりあえず片付けよ、目立つし」
私が貼り紙を剥がすと、笑歌は頷いて家の鍵を開けた。
笑歌の手に握られたぬいは、私の作ったもので間違いないだろう。
あの女のことだからタダでは呪われてくれないと思っていたけれど、まさか笑歌にぬいを押し付けるとは。しかも、笑歌を呪うような小細工までして。
笑歌の家は、相変わらずココナッツの甘い香りがした。
私はあまりこの甘ったるい香りが得意ではないから、「換気するね」と断って窓を開ける。ワンルームのさほど広くない部屋を満たしていた香りは、すぐに薄まった。
外からの生温かな風に一息ついていると、笑歌はベッドの上に荷物を放り投げた。
その雑な仕草と対照的な慎重さで、小さなテーブルの上にぬいを置く。
「専門家、よろ。あたしは麦茶持ってくる。ゆーちゃんも飲むよね?」
「だから専門家じゃないっての。麦茶もらう」
「おけ~」
私はぬいを手に取り、そして気付いた。
少し、重たい。
着せていた服を脱がして本体の縫い目を確認すると、やはり縫い直されたような箇所があった。笑歌にハサミを借り、その縫い目を慎重に解いていく。
――……キ……
耳元に吐息を感じ、思わず振り返った。笑歌はまだ廊下にある流しで麦茶のパックと格闘していて、私の耳元にそんなことができるような状況ではない。
どこからか視線を、感じる。
クソが。
これが呪いの影響なんだか、あの女の生霊なんだか知らないが、負けてたまるか。
詰め込んだワタに指を突っ込むと、硬いモノに当たった。ほじるように取り出せば、それは小型の盗聴器だった。
「………………」
私は言葉を発さずに、盗聴器のスイッチを探す。だが、恐らくは携帯で操作するタイプなのだろう。特にスイッチのような物は見当たらない。
無言のまま盗聴器を持ってキッチンに向かい、笑歌に目配せをして流しで水を掛けた。
「それ、なーに?」
小声でそう聞いてくる笑歌に、私も声を落として「盗聴器」と答える。
ゲェ、と顔を顰めた笑歌が、勢いよくぬいの方を見た。
すぐに盗聴器へ視線を戻したけれど、その顔は青く、右手が耳を触っている。
「もしかしたらコバエとかいるかも、ごめん」
「あー、夏って増えるよね」
きっと、笑歌も耳元に吐息を感じたのだろう。
私にも笑歌にも影響を与えてくるとは、随分と執念深い女だ。
盗聴器には水を掛けた後、玄関で踏み潰してバラバラにした。コンビニの袋に入れてもらって、後で私が捨てることにする。
もう聞き取れはしないだろうけれど、一応ティッシュで何重にも包んで玄関に置いておいた。
「え、呪いっつーか、ストーカー的な?」
「そうかもね」
「どうせ盗聴器仕込むならもっとプレゼントっぽくしといてくれたらいいのにね」
「そうだね?」
どういうアドバイスだよと、こんな状況にも拘わらず笑ってしまう。
だけど確かに、どう考えても呪いの人形なのにどうして盗聴器なんか仕込んだのだろう。
こんな気味の悪い人形、即捨てられるか、もしくは見えないように包まれてお祓い行きとかだろうに。
もしかして、と思い付いた考えに思わず背筋がゾッとする。
あの女、私を見つけたかったのではないか。
自分に呪いが掛けられていると知って、だけど笑歌は呪いなんか掛けるような人間に見えないから。
笑歌を分かりやすく呪えば、誰かに相談するだろう。もし笑歌のそばに呪いに詳しい人間がいれば、それは自分を呪う可能性のある人間ということになる。
『専門家、よろ』
あの発言を聞かれていたとしたら。
笑歌にはゆーちゃんとしか呼ばれていないし、大学もバイト先も違う私に行きつくことはないかもしれないけれど。もし。
「や、考えすぎか……」
「ん? なんか言った?」
やっと麦茶が作れたらしい笑歌が、カラフルなマグカップを両手に持って私を見つめた。
「ううん、なんでもない」
「そぉ?」
マグカップを受け取り、テーブルを挟んで座る。
何のキャラクターだか分からないが、顔の付いたクッションが座布団の代わりだった。
そもそも、旦那の浮気相手の周囲にいるかもしれない呪いに詳しい人間をピンポイントで調べようとするわけがない。
単純に、笑歌について少しでも知りたかっただけだろう。
そう自分を納得させた。
私があの女を呪ったのは三週間ほど前のことだ。
あの女の容姿を知ってから、何体かの練習作を経てようやく完成したぬい。
それをじっくんこと原沼丈司のゴチャゴチャした鞄の底に突っ込んだ。
同人誌には、ぬいを作った後のことはあまり詳しく載っていなかった。
新しい呪いのせいか情報がまとまりきっていないという感じだったが、呪物を対象者の近くに置けるならその方がよさそうだったのでそうした。
結局のところ私は素人だし、呪いの効果なんか眉唾だ。
本気で呪い殺すつもりでぬいを縫いあげはしたものの、それでどうにか出来るとは思っていなかった。
ただ、少しでも嫌な気持ちになればいいと思った。
旦那のカバンから、自分に似た気味の悪い人形が出てくることで、精神的にダメージを与えられればと思ったのだ。
それが元で不倫がバレて、笑歌から離れてくれたら一番よかった。
何も知らない笑歌。
じっくんが既婚者だってことも、誰にでも言い寄るクソ野郎だってことも知らず、ただただ大好きな彼氏だと思っている笑歌。
何も知らないまま別れて、もっと普通の男とまた惚気てほしかった。
なのに。
素直に手を引くどころか、笑歌を呪いにくるなんて。
感じる視線も、吐息も、悪寒も、全部本物なのだとしたら、こっちだって本気を出してやる。
あんな女に負けてたまるものか。
「これ、持って帰ってもいいかな?」
「え? 別にいーけど、だいじょぶそ?」
笑歌の前では、本当のことは言えない。
ここで下手なことをして笑歌に疑われたくもないし、持ち帰るのが最善だろう。
どうせ丈司さんとはまた会う機会もある。
「ちょっと研究してみる」
「おっけー。あたしも、何かあったら報告すんね」
トートバックにぬいと貼り紙を放り込み、麦茶を飲んだ。
空になったマグカップを流しに置いて、そのまま帰ることにする。
盛り塩とか、お札とか、いろいろ考えてはみたけれど、今すぐどうこうできるものはないということになったのだ。
一応、笑歌には家から持ってきた水晶のお守りを四六時中身に付けておいてもらうことにしたけれど、それもどこまで効果があるのかは分からなかった。
捨てておくから、と盗聴器の入ったビニール袋もトートバックに突っ込んで、玄関を開けた。
玄関から一歩外に出ると、蒸し暑さが身体を包み込んできて気が滅入る。
「あっつ……」
「マジか、気を付けて帰ってね~」
エレベーターが来るまで、律儀に私を見送ってくれる笑歌に手を振った。
チン、と到着音がして扉が開くと、エレベーターの内部から冷房の冷たい風が吹いてきて、気付いた。
笑歌の家の中、どうしてあんなに涼しかったんだろう。
ココナッツの香りを飛ばすため、窓を開けたままだった。
笑歌がエアコンを入れた記憶もない。
普段から笑歌の家が涼しかったということもなく、いつもはエアコンをガンガンに効かせていたはずなのに。
「あーっもう! ガチなんじゃん!」
一人きりになったエレベーターの中、叫ぶ。
肩から下げたトートバックが、重く感じた。
家に帰るまでの間、SNSであの同人誌を出した人を自分のフォロー一覧から探した。
黒地に白文字で『呪』の文字が書かれているシンプルなアイコン。
サンバ@自作呪物愛好家という名前をタップすると、ホームに表示されたメールのアイコンからメッセージ画面に飛ぶ。
────
はじめまして、ゆうゆうと申します。
突然のメッセージ、申し訳ございません。
以前、〇〇というイベントの際に、サンバ様の出した同人誌を購入いたしました。
そこに載っていた、ぬいを利用した呪いについてお伺いしたいことがあり、メッセージ送らせていただきました。
実は、友人宛にあのぬいが届きまして、対処法や呪いの解呪方法など、同人誌には載っていない情報がありましたら是非お教えいただきたいのです。
まだ軽い霊障に留まっているようなのですが、これからどうなっていくのかも不安です。
個人的なことで大変申し訳ございません。
ご返信いただけますと幸いです。
念のため、メールアドレスも明記しておきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
────
はぁ、と溜息を吐く。嘘は、ついていない。
それに、実際あれを使って呪いを実行したと言う相手に返事をしたいと思うだろうか。
客観的に見て、ヤバいやつと思われるに違いない。
情報を得るためには、言うべきことと言わない方がいいことがある。
そのまま家に帰り、授業の支度をした。
自分の家でぬいを確認するのも嫌な感じがして、トートバックは玄関に放置したまま。
普段は気にならない冷蔵庫の駆動音がやけに耳に付く。
ワイヤレスイヤホンを耳に突っ込み、最初に目に入ったプレイリストを垂れ流した。
家の中がやけに薄暗い気がするけれど、こんなのは思い込みだ。
全部、思い込みだ。
盗聴器を取り出そうとしたとき以来、私自身には何も起きていないのだから。
流行りの曲が終わり、次の曲に乗り替わる無音の瞬間。
玄関の方からビニール袋の擦れるような音が、聞こえた。