第十三話
姉のぬいを作ったばかりだったことも功を奏し、完成したゆりあのぬいはかなりの出来だった。
まさかこんなに短い期間で呪いのぬいを二体も作ることになるとは思ってもみなかったが、まあいいだろう。
ただ、これを送ったところであの女に苦痛を与えられる気はしなかった。
現に、姉は今も元気なのだ。
どうすればいい。どうすれば。
忍ばせた姉の子は役に立たなかった。
この子にやらせるわけにはいかない。
なら、私しかいない。
大丈夫。できる。
やるしかないんだ。
絶対に排除してやる。私とこの子の邪魔はさせない。
どうすれば呪いの力が強まるのか分からなかった。
けれど、丑の刻参りでは相手に見立てた藁人形に釘を打っていたのだし、このぬいにもそれをすればいいのではないか。
私はあの子の骨壺の前に座った。三人で撮った写真が飾られた、小さな、祭壇。
「お母さん、頑張るから……」
裁縫箱から針を取り出すと、その周りを光が飛び回った。
私は指の腹に針を刺し、自分の血をまとわせる。
その針を使って、ぷすり、ぷすりと、ぬいの全身に更に呪いを刻んでいった。
完成したぬいを持ってリビングへ向かう。家の中を歩いているだけなのに息が切れた。視界の隅に女がいる。
この子は私を守ってはくれない。
私がこの子を守る側なのだから当然だ。
待っててね。もうすぐだからね。
ゆりあのぬいを箱に詰め、緩衝材を入れて封をする。
宛先は笑歌の家。
自宅まで来てもらった配達員に荷物を託すと、大きく溜息を吐いた。
疲れた。頭が痛い。
まだ先生からは返事がない。メールは見てくれているのだろうか。不安になってもう一度メールを送ってみた。あまり催促するようになってもいけないだろうと、これ以上はやめておく。
これで一週間経っても返事がなければ、何か他の方法を考えようと思った。
日に日に、身体が重たくなっていった。丈司さんに言っても病院を勧められるだけで、何をしてくれるわけでもない。
あの女に負けてたまるかという気持ちだけで立っていた。勝つのは、私だ。
「馬鹿のひとつ覚えみたいに繰り返さないで!」
部屋の隅に立つ女に、くしゃくしゃに丸めた洗濯物を投げつける。どうやったって消えないのは分かっているのに、イライラした。
もはや恐怖や嫌悪感よりも、怒りが勝る。
不安定になる私を目の当たりにしながらも、慰めひとつしない丈司さんにも腹が立ってくるほどだった。
そろそろ我慢の限界だと思い始めた頃、先生からの返事が来た。
────
初めまして、御門大門と申します。
ご丁寧なメールをありがとうございました。
あなたの置かれている状況の断片は理解いたしました。
つきましては、お手隙の際に下記の番号へ電話をいただけますでしょうか。
具体的な日程等の調整をさせていただければと存じます。
(電話番号)
────
私はすぐに電話を掛けた。数コールののちに、年配の男性が電話に出る。
『はい、御門でございます』
「原沼茉莉奈と申します。先日は突然のメールを申し訳ありません」
『ああ、原沼さまですね。いえいえ、こちらこそお待たせしてしまって申し訳ありません。電話越しでもよく分かりますよ。お辛いですね。なるべく早く対応したいとは思っているのですが、こちらもなかなか予定が立て込んでおりまして……ただ、三日後の月曜日、午後三時にこちらにいらしていただけるのであれば、お受けできるかと』
「大丈夫です、ぜひお願いします……」
『分かりました。お送りしたメールに住所も記載しておりますので、そちらにいらしてください。こちらへ来る時は、必ずお一人でお願いします。大丈夫ですか?』
ここのところ、あまり家から離れた場所への移動はしていない。メールを確認すると、先生の住所はそこまで遠くはなかった。これなら時間に余裕をもって家を出れば大丈夫だろうと頷いた。
「大丈夫です。何か、持参するものはありますでしょうか。その、依頼料だったりとかは」
『いえ、呪物だけで結構ですよ。依頼料などは後ほど請求させていただきますので』
「分かりました。ありがとうございます」
『ああそうだ、恐らく出歩くのもお辛いかと思いますので、家を出る前にお電話をください。少し手助けいたします。それでは、当日までどうぞ持ちこたえてください』
「はい、よろしくお願いいたします。失礼します……」
電話を切って、脱力する。
これで、助かるんだ。
その日は部屋の隅の女も、さほど気にならなかった。
§
約束の日、出発前に電話をすると何やらブツブツと呪文を唱えられた。その途端、今まで感じていた身体の痛みやダルさが一気に弾け飛ぶ。
「えっ」
『長くは持ちませんが、移動中くらいは守れると思います』
「す、すごいですね……これなら普通に歩けます」
『はい、お気を付けていらしてください』
手提げカバンに、ハンカチに包まれたぬいが入っている。もうすぐこれとおさらばできると思うと、更に身体が軽くなったような気がした。
菓子折りの入った紙袋も持って、駅へと向かった。
池袋につき、東口を目指した。ほとんど周りの人に流されるように歩いて地上に出ると、照り付ける陽射しが眩しかった。
帽子を深く被り直し、指定された住所へ向かう。サンシャイン通りを抜けて、大通りを渡り、道を外れて住宅街へ。
先ほどまでの人混みが嘘のように静かな住宅街の中、佇む一軒家に御門と書かれた表札が下がっていた。
インターホンを押して待っていると、少しして門の向こうの玄関が開く。禿頭の優しげな老人が顔を覗かせ、微笑んで頭を下げた。
「いらっしゃい、お待ちしておりましたよ。さあ、どうぞ」
「すみません、お邪魔いたします」
菓子折りを渡すと、玄関でスリッパに履き替える。客間に案内され、示されるまま一人掛けソファに腰掛けた。
そっと出された湯気の立つお茶を口にして、深く息を吐く。こんなにもお茶を美味しく、ゆっくりと飲むことができたのはいつぶりだろう。
身体から余計な力が抜けていくような気がした。
「本当にお疲れ様でした」
「いえ……出発前に、その、ありがとうございました。おかげさまでここまで来られました」
この人なら、きっとあの女にしっかりと呪詛を返してくれるに違いない。私は期待を胸に、呪いのぬいを取り出してテーブルに置いた。
「ああ、確かにこれは呪物そのものですね。これでしたら問題なく呪詛返しができると思いますよ。ご安心くださいね」
「はい。どうぞよろしくお願いいたします」
「それと……こちらにお名前を書いていただいてよろしいですか? その後、血判をおしていただきます」
「え? あ、はい……」
差し出された紙に名前を書く。少しざらついた和紙のような紙で、字が少し崩れてしまったが、先生は特に何も言わなかった。
書き終えると、先生が私の手を取って指先に針を刺した。ぷつりと浮き出した血で、名前の下に拇印を捺す。
「ありがとうございます。それでは、ご自宅へお帰りください」
「は……?」
どういうことかと聞き返すと、先生は困ったように眉根を寄せて私を見る。
「こう言ってご理解いただけるかは分からないのですが端的に申しますとですね……私が力をお借りしている神様が居られるのですが、その方が、その、大変嫉妬深い方でいらっしゃいまして」
「え?」
よく分からなかった。神様が嫉妬深いと、なぜ私が家に帰らねばならないのだろうか。
「儀式を行う空間に私以外の人間がいると、力を借りるどころか、挨拶すらさせてもらえないのです。本当に申し訳ありません。ご希望であればお電話を掛けさせていただいて、呪詛返しの様子が伝わるようにいたしますので……」
「はぁ……分かり、ました」
「ご理解いただけて助かります」
まあ、神様にも色々と個性があるということなのだろう。私がいては上手くできないと言われれば、帰るしか選択肢はない。
「失礼なことを申しますが、その、もし呪詛返し? に失敗したとして、私がこの場にいなくても問題はないのでしょうか」
「さきほどあなたの身代わりを作らせていただきました。この呪物であれば失敗することはないと思いますが、万が一の場合でもこの身代わりがあなたを守ってくれます。それに、通話状態でいていただければ、更に安心かと思います。こちらにいらっしゃる前にしたように、電話越しでもできることは多いので」
「ああ、そうですね、電話越しでも、たしかに」
「ではご自宅につきましたらご連絡いただけますか」
「分かりました」
家から出る際、また先生が呪文を唱えてくれた。そういえば、家を出てから産む女を見ていないことにようやく気付く。
やはり、この先生は本物なのだ。
「もしもし、原沼です。今、家につきました」
『承知いたしました。準備にもうしばらくかかりますので、折り返しますね』
すぐに始まるのかと思ったが、そうではないらしい。18時近くなって掛かってきた電話は見知らぬ番号で、一瞬躊躇ったが通話ボタンを押した。
『もしもし、御門です。申し訳ありません、メインの携帯の調子が悪くなってしまいまして。予備機を使わせていただきますね』
「あ、先生でしたか。いえ、大丈夫です。よろしくお願いいたします」
『では、これより呪詛返しを行わせていただきます』
電話越しに、空気が変わるのが分かった。
低く、身体に響くような声が聞こえてくる。
『南無久遠実成本師釈迦牟尼仏、南無霊山会上来集の分身諸仏、南無諸大菩薩、梵天帝釈日月四天等、五番善神、殊には鬼子母神、十羅利女等、惣じては仏眼所照の一切三宝、来臨影嚮、妙法経力、速得自在諸仏守護、増益寿命、諸余怨敵皆悉摧滅心中所顧決定成就…………』
これで私も本腰を入れてこの子のために動ける。飛び回る光を優しく抱きしめようとした私を、激痛が襲った。
「あああああああああああ!!!!!!!!」
痛い。痛い。痛い。
全身に刃物を突き立てられているような痛みに耐え切れず、床をのたうち回る。
口から漏れる叫びが先生に届いていないはずはないのに。先生は何も聞こえないかのように、一切取り乱すことなく呪詛返しを続けている。
その先生の声に混じって、女の叫び声が聞こえる気がした。それは誰の声だ。私を呪ったあの女の声なのか。痛い。痛い。痛いいいいい。
『…………無明一たび定まんぬれば、三千悉く常住なり。然るに業障の雲、起って、天真独朗の月を覆い、妄想偏執の風、揺かして差別の枝を鳴らす。爰を以て三毒呪咀の猛火・熾然として自ら焼き、又、将に他を焼かんとす。何ぞ夫愚なるや…………』
毛穴という毛穴から血が吹き出ているようだった。白いワンピースが赤に染まり、全身から力が抜けていく。おかしい。こんなのは、おかしい。
助けて。助けて、丈司さん。
痛い。痛いよ。助けて。
私はただあなたと、この子と幸せに暮らしたかっただけなのに。
薄れゆく意識の中、赤ん坊の泣いている声が聞こえた気が、した。
原沼茉莉奈-END ……⇢ ????