第十一話
牽制と忠告のつもりだったから、盗聴器が実際にきちんと動作するかはあまり気にしていなかった。
それよりもむしろ、一緒に行かせた姉の子の方が心配だった。
笑歌が気付かないようであれば、深入りせずに戻ってこいと言ってあるが、うまくいくだろうか。
一度だけ、実験をした。
お義母さんの元へ行かせてみたのだ。
ちょうどお中元を贈ろうと思っていたところだったので、荷物の中に隠れているよう指示した。
義実家で荷物から出たあとは、女の姿になってお義母さんの近くにいるように言ってあった。もし何か相手に対してできることがあるならやってみるようにとも。
「母さんから、最近家の中が変だって連絡が来たよ」
「変?」
「そう。家にいると、どこからか見られている気がするんだってさ。でも、視線を感じる方には誰もいないんだって。少し前に墓参りに行ったって聞いてたから、その時に幽霊でも連れ帰ってきたんじゃない? って言ったら、冗談じゃないって怒られたよ」
「お義母さん、身体は大丈夫なの?」
「四六時中見られてる気がして、食欲が落ちたとは言ってたけど大丈夫じゃないかな。喋ってる感じは元気そうだったよ」
しばらく様子を見ていたが、丈司さんに掛かってきたその電話で姉の子に大した力はないと判断した。
あれにも何か特別なことができるのではないかと期待したものだったが、どうやらただ見つめることしかできないようだった。
お義母さんが変なことをし始めても面倒だし、そろそろ帰ってきてもらおうか。
できればもう少し、お義母さんを苦しめてほしかったのだけれど。
「そう……。言いにくいけど、頭の方は大丈夫なのかしら。ほら、脳に問題があるとか、こわいじゃない」
「うーん、どうなんだろう。会話はしっかりできたし、口調も普通だったけど……一応、父さんに伝えておくよ。病院行ってみてもいいかもしれないしね」
「その方がいいと思うわ」
丈司さんが義実家の固定電話へ掛けて話している最中に、姉の子を呼び戻した。距離が距離なのでどうかと思ったが、消えてしまうとかそういうことはないらしかった。
呼ぶとすぐに目の前に現れたので、幽霊には時間も距離もないのかもしれない。
「ねえ、あなた相手を見ることしかできないの? もう少し……例えば耳元に息を吹きかけるとか、手足を掴むとか、そういう簡単なことでもいいのよ。できるようになればいいのに……」
何も相手を殺してこいと言っているわけではない。ただ、怖がらせたいだけだ。
できれはもっと時間をかけて、やれることが増えてから使いたかったけれど、そうも言っていられない。私に対して何かしてこようというのなら、こちらだってやり返さなくては。
まあ、姉の子などいてもいなくても大きな問題ではない。何か問題が起こって消えてしまえばそれまでだし、うまく行けばラッキーというくらいの気持ちでいよう。そう思った。
ただ、姉の子はやけに自信があるように見えた。お義母さんのところへ行かせた時よりも、元気にくるくると回ってからぬいぐるみの中へと入っていったのだ。
何かできることが増えたならいいのだけれど、私にそれを確かめる術はない。
お義母さんのように、丈司さんに彼女が相談することを願うしかなかった。
姉の子が出ていってから、やけに肩が凝る。
少しのことで息切れしてしまって、外にもあまり出られなくなった。
丈司さんのこと、呪いのこと、お義母さんのことも、色々と抱えるものが大きく、精神的にも肉体的にも疲労が溜まっているのかもしれなかった。
痛む頭に手をやりながらソファに座り込む。
未だに、心の底から受け入れたとは言い難い真っ平らな腹をさすり、大きく溜息を吐いた。
今の自分が普通ではないことくらい解っている。今の自分が間違っていることくらい解っている。それでも、それでも、私の周りを飛び回るこの子を、どうしても諦められなかった。
「どうして……」
どうして、私ばかりがこうなのだろう。
悔しい、悲しい、羨ましい、恨めしい。
「うう……ぐ、ぅ……」
止めどなく流れる涙を拭ってくれる夫はもういない。
どうして。
どうして。
気分転換をした方がいいと思いスマホを眺めていると、呪いのぬいを調べたせいなのかSNSのおすすめ欄がオカルトまみれになっていた。
何を見るでもなく適当にスクロールしていると、案外他者を呪っている人間はいるのだなと思う。
呪ってやると呟いたとして、本当に呪物を作ってまで呪っている人間がどれほどいるかは分からないが。
それでも、誰かに対して呪ってやるという言葉を投げつけるという行為は少なからず負のエネルギーを放っていると思った。
『超しんどかったけどついに完成した。全力で呪い込めた。マジで死ね』
私を呪ったものと同じようなぬいの写真付きで流れてきた、少女の呟きに目を留める。
その人のホームに飛んでみると、布や糸を購入するところから写真を載せつつ進捗を呟いていた。
私は、少しずつ形になっていくそれをぼんやりと眺め、そして、決めた。
「作ろう」
手芸店に行く元気はないので、通販サイトで必要そうなものを買うことにする。
少女の写真を参考にして、使いやすいらしい材料を選んだ。
それと、姉の好きそうなネイルチップも。
スマホを眺めているだけでは決して解消されない、ぐるぐると己の中に渦巻くものを吐き出す必要があった。
その方法を、私は手に入れた。
白い肌、細長い手足、高い身長、薄茶色のウェーブしたセミロング。
優しげな眼差し、高い鼻、上品に微笑む薄い唇。
ひと針ひと針、丁寧に。
ぷすりぷすりと、丁寧に。
私はカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、姉を呪うぬいを作った。
裁縫は得意ではなかったけれど、時間だけはあったため何度も何度も練習して作り直して、どんどん上手くなった。
姉に対して、こんなにも真剣に向き合ったことはなかった。
姉に似たぬいを仕上げながら、私は私の中に隠してきた姉への憎しみがあまりにも大きいことに気付いた。気付いてしまった。
肩はどんどん重くなる。気分が沈んで、それでも姉を呪ってやると決めて一心不乱に縫い続けた。
§
「お姉ちゃん、用事があって近くに来たんだけど、よかったら遊びに行ってもいい?」
『どうしたの急に、別にいいけど』
駅前でケーキを買って姉の家に行く。
結婚式の時よりも少し痩せた姉は、私を見て驚いた顔をしたあと眉根を寄せた。
「ちょっと茉莉奈、痩せすぎだよ、え、大丈夫なの?」
「あー……うん、最近食欲なくて、病院には行ったから大丈夫だよ」
「それならいいけど……さ、入って」
あの子に挨拶がしたいと言えば、仏間に通された。私の家よりずっと都心にあるのに、ずっとすっと大きな家。用意された子供部屋もある中、ここにどんな気持ちで二人で暮らしているのだろうか。
小さな骨壷。仏壇に線香をあげる。
ああ、ここにあなたはいないのに。
思わず笑ってしまいそうになって必死で堪える。それが泣くのを我慢しているように見えたらしく、私の背中をそっと抱く姉の声は震えていた。
それからリビングへ移動し、ケーキと小さな贈り物を姉に渡した。
「なに? わ、可愛い……!」
「好きだろうと思って。今ネイルしてないみたいだし、ちょうどよかった」
「そうなの、最近行けてなくて。ありがとう」
「せっかくだし、つけてみてよ。よかったらやってあげる」
「本当? セルフ自信ないし、旦那にも無理だから嬉しい」
爪切りとやすりを借りて、姉の手を取る。
丁寧に。丁寧に。
少し血色の悪い姉の爪を明るい花のネイルチップで彩った。
「すっごい上手! 本当にありがとう」
「どういたしまして」
喜ぶ姉を横目に、バレないように爪を回収した。それから少しだけ世間話をして、夕ご飯の支度があるからと訪問を切り上げた。
真っ直ぐ家に帰り、ほとんど完成していたぬいの中に爪を入れる。最後の縫い目まで丁寧に手をかけて、姉のぬいが完成した。
その顔に呪いの文字を書き込もうとして、ふと考える。布を切って、刺繍をして、綿を詰めて、ぬいを完成させるまでに、あんなにも念を込めたのだ。
パッと見で顔の刺繍が分からないほどに文字で埋め尽くすよりは、今のまま、姉によく似たこのぬいに対して、針を刺す方がよほど恨みが込められるのではないかと。
そしてそれを、誰もいないあの骨壷の隣に置いてもらおう。あの子のために作ったのだと言えば、きっと姉は喜んで飾ってくれるだろう。
いつか、真実に気付けばいいと思う。私がどんな人間だったか知って、嘆き悲しめばいいと思う。
私がこうだと知ったところで、あの人たちは私が望むようなことを思いはしないのだろうけれど。
不幸になれ。不幸になれ。病気になれ。職を失え。友を失え。自分の思い通りにいく人生なんて許さない。苦しんで、苦しんで、苦しんで死ね。死ね。死ね。死ね。
姉の顔も嫌いだ。姉の身体も嫌いだ。姉の心も嫌いだ。姉の胎も、ああ。
「痛いよぉ……」
どういう理由で涙が出るのか分からなかった。
あの日のようにじくじくと痛む胎を抱えて呪いをかける。
気の済むまで針を刺し、それを露ほども感じさせぬ可愛らしいラッピングを施して姉に贈った。
感謝のメッセージと共に届いた、小さな骨壷に優しく寄り添う姉のぬいの写真を見ても、私の心は晴れなかった。