第七話
「え……え、あ、……なんで……?」
段ボールから出てきたそれは、どうみても呪いのぬいだった。
私を模したぬいに、みっしりと呪いの文字が刻まれている。
震えた手から、ぬいがすり抜け床に落ちた。
ころりと転がるぬいは、しかし真っ直ぐに自分を見ているような気がする。
いつ。いつ私のことがバレたのだ。
家を見に行った時?
私があの女を確認していたように、向こうもこちらを見ていた?
分からない。
あの時、写真を撮られたような感覚はない。写真もなしに、こんなにも私に似せたぬいが作れるものなのだろうか。
丈司さんが私の写真を撮ろうとした時もいつだって拒否していたし、あの男が起きている前で眠ったことはない。
どうして。どうして。
「ゆーちゃん!」
笑歌の声が私を現実に引き戻す。
背中をさすってくれる笑歌の手の温もりが、浅くなっていた呼吸を正常に戻してくれた。
私はぬいを自分のリュックに突っ込んだ。段ボールの中をすべて確認したが、緩衝材とぬい以外、何も入ってはいなかった。
「それ、持って帰るの……? 大丈夫……?」
「うん……多分。対処法を知ってそうな人に、聞いてみる」
「ヤバそうだったら呼んでね、あたしじゃ何の役にも立たないかもしれないけど、すぐ行くからね!」
「ありがと」
笑歌の言葉に支えられながら家に帰る。
授業など受けていられる精神状態ではなかった。同じ授業を取っている友人に代返をお願いしてはみたものの、今日の授業は誤魔化されてくれないものだった気がする。でもそれも、どうでもよかった。
蝉の鳴き声がうるさい。
背中や額から垂れてくる汗が気持ち悪い。
もし今の私をあの老婆が見たら、彼女はなんと言ってくるのだろうか。
一瞬スーパーに寄ろうかと思ったが、一刻も早く家に帰るべきだと思い直した。
玄関を開けると、中からひんやりとした風が吹いてきた。
家を出るまで付けていたエアコンに冷やされた空気がまだ残っていたのだろうか。
そんなバカな。だってもう、私が家を出てから半日以上経っているのに。
すぐに、電気を付ける。
廊下もお風呂場も、トイレも、部屋も、全部。
視線は感じない。まだ。なにも。
大丈夫。大丈夫。
座り慣れたクッションに身をもたれさせ、リュックからぬいを取り出す。
セミロングの黒髪。一重で少し小さめの瞳。同じく小さな鼻に、薄い唇。痩せ型で、身長は平均的。
見れば見るほど私にそっくりだった。
指先が震えるのを必死で堪えながら、近くに出しっぱなしだった裁縫セットを開ける。糸切りばさみを取り出して、胴体部分の縫い目を切った。
パチン。パチン。パチン。
大きく解き、中身を取り出す。
そこには黒い髪の毛と、一枚の紙が入っていた。
【花畑ゆりあ 東京都✕✕区✕✕✕ 3-16-4-202】
どうして、住所がバレているんだろう。
どうして住所を知っているのなら、直接ここに送ってこなかったのだろう。
笑歌にも見せたかったのか。お前たちのことを知っているぞって、私たちに知らせたかったのか。
うるせぇよ。知らねぇよ。
こっちを呪う前に旦那を殺せよ。
うちらは悪くない。
全部、お前の旦那が悪いんだ。
既婚者だって隠したまま女子大生を口説いて、好き放題やって。
そんな男を野放しにしているお前が、お前らがいけないんじゃないか。
視線を感じる。
強く、弱く、明滅するように。
【この女は私を呪いました。人を呪うということは、自分が呪われる覚悟を持っているということです。小賢しい小娘が、生意気にも私に噛み付くなんて許せない。こんな腐りきった女。若さしか価値のない女。花畑ゆりあに呪いあれ。苦しんで死ね。誰にも必要とされず、孤独に死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね】
思わずぐしゃりと紙を握りつぶす。
クソが。クソ女が。
絶対に殺す。殺してやる。
私は呪いのぬいを取り出して、手当り次第にマチ針を刺した。
針を刺す度に、呼吸が苦しくなった。視線が、強まって、至近距離で見つめられているみたいに、顔が、すぐそばにあるみたいに、息が、できない。
「っあああああぁぁ!」
ぬいを放り出して廊下に転がり出る。
息ができるようになって、必死で酸素を取り込んだ。
どうして上手くいかないのだ。
私よりもあの女の方が強いというのか。
クソが。クソが。クソが!
もういい。私からの呪いは一旦止めよう。
私は、ずるずると張って部屋に戻り、私にそっくりのぬいを掴んだ。
私が偽物のぬいを送り付けたから、あの女は呪いのぬいを相手に送り付けるものと思ったのだ。
だから私に、このぬいを送り付けてきたのだ。
なら、このぬいは、本物だ。
あの女が私に掛けた呪いの、源だ。
呪詛返しをしてやる。
あの女の呪いがたっぷり詰まったこの呪物で、あの女に痛い目を見せてやる。
あの女には決してできない方法で、全てを終わらせてやる。
私はスマホを取り出し、サンバさんにメッセージを送った。
友人ではなく、私自身が呪いのぬいの対象になったこと。助けてほしいこと。呪詛返しを行いたい旨を送信する。
それからは、ほとんど死んだように床に倒れて過ごした。
食べ物や飲み物を口に入れようとすると、それを遮るように何かが目の前を塞いでくる。
ノイズ混じりのそれは呪いの具現化なのかあの女なのか。
分からない。悔しい。負けたくない。
大学には行けないまま、今が何時なのかもよく分からず過ごしていると、外が暗くなる頃サンバさんから返信が届いた。
────
ゆうゆう様。
ご心痛お察しします。
私の知り合いの霊能者をご紹介いたしますね。
御門大門先生です。
(メールアドレス)
ゆうゆう様のことは話しておきますので、私の紹介である旨をタイトルに入れて連絡してみてください。
忙しい方ではありますが、親身になってくれるかと思います。
またゆうゆう様とゆっくり話せる日を心待ちにしております。
────
サンバさんにお礼のメッセージを送るのも一苦労だった。私の顔とスマホの間に何かがいるみたいに、視界がボヤけていた。
気持ちが悪い。
教えてもらったメアドをコピーして、必死に文面を考える。
頭がぐるぐるする。視界がブレる。
あの女の呪いは私と似ているけれど違うものなのだろうか。ぬいが私の手元に届いた瞬間から効力を発揮するのか、単純に生霊の力が増したのか。
このままでは、私の方が先に死ぬ?
先生にメールを送ってからしばらく考えて、私は笑歌に少しだけ本当のことを話すことにした。家に来てほしいと連絡すると、すぐ行くと返事が来た。
這うように玄関に移動して鍵を開け、壁に寄りかかって笑歌を待った。
少しして家に来た笑歌は私を見てひどく驚いて、泣きそうな顔をして駆け寄ってくる。
「ゆーちゃん……!」
「えみ、か」
笑歌に肩を借りて、部屋まで連れて行ってもらった。膝が震えてうまく歩けなかった。自分の不甲斐なさに泣きそうになったが、涙すら出ないほどに衰弱しているらしかった。
床に座った私を、隣に座る笑歌が支えてくれる。
放り出したままだったあの女のぬいを指で示すと、笑歌が拾ってテーブルに置いてくれた。
「これ、あたしのこと呪ってたやつ?」
「ううん……あれとは、別にね、笑歌のこと呪ってきた相手を、逆に呪ってやるって作ったやつ、なの」
「そうなんだ……」
笑歌は、私の顔とあの女のぬいを交互に見つめる。
その表情は真剣で、私の言うことを信じてくれているのだと分かった。
「もし、私になにか、あったら、これ、笑歌が使って。いや、使わなくてもいい、使わないなら、針を抜いて燃やして、お願い」
「わ、分かった。……ねぇ、ゆーちゃん、死なないよね」
「死なないために、今、霊能者さんにメールしたとこ」
「そっか、うまくいくといいね、全部解決するといいね。ゆーちゃん、ごめんね、あたしのせいで」
笑歌が、私を抱きしめる。
強く。抱きしめる。
私も同じくらい強く抱き返したかったけれど、全然力が入らなかった。
「大丈夫だよね。きっと。元気なゆーちゃんとまた会えるよね」
「うん、大丈夫って思ってて。なんか、笑歌がそう言うと、本当に、そうなる気がする」
「あは、そうだね! あたしがついてるよ!」
「ありがと、笑歌」
笑歌がそばにいるだけで、少し気分が楽になる気がした。
今の自分の状況を話すと、笑歌は慌ててキッチンに行き、冷蔵庫からペットボトルを持ってきた。
「ゆーちゃん、目つぶって! あたし飲ませてあげるから!」
「え? あ、うん……」
言われた通り、目を瞑る。
唇にペットボトルが押し当てられた感覚があって、薄く口を開けると冷たい水が流れ込んできた。
反射的にごくりと飲み込むと、食道から胃に向かって水が流れていくのが分かる。
「飲めた……」
「やた! ねぇ、同じ感じでご飯も食べよ! 飲まず食わずなんて死んじゃうし!」
それから笑歌はコンビニに行って食材を買い込み、私の世話をしてくれた。
喉の渇きと空腹が満たされるだけで、私の気力は大きく回復した。
大学やバイトは大丈夫なのか聞けば、「そんなことよりゆーちゃんだよ」と泣きそうな顔をして怒られた。
ありがとうとごめんなさいを繰り返し言う私を、笑歌が抱きしめる。
ぐるぐる。思考が回る。
私が悪いのだ。呪いを始めた私が。
あの男が悪いのだ。笑歌と私に手を出したあの男が。
あの女が悪いのだ。あの男を野放しにしたあの女が。
ぐるぐる。視界も、回る。
笑歌の手が、私の瞼を下ろす。目を閉じたまま、また、落ちていく。
死にたくない。
ただでは、死にたく、ない。
先生から返事が来たのは、二日後のことだった。