第8話:手違いの異世界召喚(1)
2025/05/18:改行の調整
王都オリアーノの王宮東棟──異世界から召喚された青年の”春原祐一”は暖炉の前に立ち、揺らめく炎を見つめながら、自分がなぜこの世界に召喚されたのかをいまだ理解できずにいた。
半年前のあの日、彼は日本の一人暮らしのアパートでノートパソコンに向かい、締め切り間近のレポートと格闘していた。画面にはいくつかの参考文献のPDFが開かれ、春原はコーヒーを一口飲んでから、再びキーボードに指を走らせようとしていた。
そのとき、部屋の空気がわずかに震え、彼の周囲に青白い光の渦が現れ始めた。
「えっ……何だこれ!?」
彼は椅子から飛び上がり、背中が壁に当たるまで後ずさった。
パニックで頭が真っ白になり、彼の手は震え、声は裏返った。
春原は必死に目を擦り、幻覚を振り払おうとした。だが光の渦は彼を包み込み、意識が引きずり込まれるような感覚に襲われた。体が浮き上がり、宙に浮かぶような不思議な浮遊感。
「誰か! 助け──」
叫び声は途中で切れ、次の瞬間、すべてが闇に溶けていった。
目を覚ますと、彼は冷たい大理石の床に膝をつき、数十人の人間たちに取り囲まれていた。部屋は壮麗な装飾が施された円形のホールで、高い天井からは水晶のような光が降り注いでいた。壁には見たこともない紋章や模様が刻まれ、芳香のする香が漂っていた。
部屋の中央には、七つの輝く石が円形に配置され、春原はその中心にいた。円の外側には、様々な色の衣装を纏った人々が立ち並び、彼を凝視していた。その視線には好奇心、期待、そして一部には警戒心が混じっていた。
「いてて……一体なにがおきたんだ……」
彼の声は震え、汗が背中を伝い落ちた。
「どこだここ……」
正面の壁には、金糸で刺繍された巨大な旗が掲げられ、その前には豪奢な椅子に腰かけた老人が座っていた。彼の周りには学者らしき服装の人々が何人も立ち、春原の姿に驚きの表情を浮かべていた。
彼らは一斉に口々に何かを言い合い始めた。
「成功した……?」
「召喚が実際に……」
「いや、まさか本当に……」
老人が手を挙げると、部屋は静まり返った。彼は立ち上がり、春原に向かって数歩歩み寄った。
「我が名はクラウス・アルデンブルグ=オルステリア。オルステリア王国の王太傅だ」
春原は混乱したまま、立ち上がろうとして足がもつれた。周囲から小さな笑い声が漏れる。彼の頭の中は混乱でいっぱいだった。
「あの……ここはどこなんですか? 僕はなぜ……ここに」
話しながら、春原は自分の口から出てくる言葉に驚愕した。彼は日本語で話しているつもりだったが、口から出てきたのは明らかに違う言語だった。それでも、不思議と意味は理解できる。
部屋の空気が一変した。人々はまるで幽霊でも見たかのように凍りついた。
「彼は話せる!」
「我らの言葉を!」
「儀式に言語の呪文は組み込んでいなかったはずだが?」
春原は再び戸惑った。額に冷や汗が浮かび、胸の鼓動が耳をつんざくほど激しくなった。
「どういうことなんだ……なにが起きてる……」
老人の横にいた青年が前に出た。細面で知的な表情をしているが、今はひどく狼狽えていた。
「面目ありません、アルデンブルグ様。召喚儀式は実験的なものであり、まさか成功するとは……」
「アシュレイ、もういい」
老人は厳しい表情で青年を制した。
「何はともあれ、異界より存在を招くことには成功した。今はそれを祝うべきだろう」
老人は再び春原に向き直り、威厳のある声で語り始めた。
「異界より来たる者よ、汝をオルステリア王国へ歓迎する。我らは魔導具の研究において偉大な進歩を遂げ、ついに異界への門を開く儀式を完成させたのだ」
春原の脳裏に『異界……召喚』という理解が浮かんだ。
これは漫画やゲームで見たことのある光景だった。
「異世界召喚というやつですか……!?」
異世界召喚、冒険と魔法の世界、もしかしたら特別な力を与えられるかもしれない...そんな空想に彼の心は一瞬だけ心が踊った。
「えっと……つまり、僕は異世界から召喚された……勇者、とか?」
春原は半信半疑で口にした。もしこれが現実なら、これから始まるのは冒険物語なのかもしれない。彼の心に小さな興奮が生まれた。
部屋の隅では、学者らしき人々が小声で慌ただしく話し合っている。その表情からは、何か予想外のことが起きたという動揺が読み取れた。
「マナ反応はどうだ?」
「測定器の値が安定しない……」
「反応はあるが、パターンが通常と……」
春原は尋ねた。
「な、なぜ呼ばれたんですか...?」
老人は微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「汝は我らの研究に協力していただきたい。『異界』の知識を授けていただきたいのだ」
春原が答える前に、先ほどの青年、アシュレイが老人に近づいた。
「アルデンブルグ様、初期検査の結果が出ました。彼の魔素反応は……予想と大きく異なります。これはおそらく……」
老人は眉をひそめ、小声で青年と言葉を交わした。その表情からは、何か期待外れのことがあったようだった。
「あの……僕には何か……特殊な能力とか?」
春原は期待と不安を混ぜた声で尋ねた。そして、アシュレイは冷たい目で彼を見た。
「現時点での検査結果では、特別な兆候は見られない。より詳細な調査が必要だ」
春原の周りにいた人々の態度が、微妙に変化した。最初の驚きと歓迎の空気は薄れ、代わりに困惑と失望の色が混じり始めていた。
「アシュレイ、彼を客室に案内せよ。徹底的な検査は明日行う」
老人は命じた。
青年は渋々頷き、春原に向き直った。
「私の名はアシュレイ・ノイマー。王立魔導研究所の主任研究官だ。今日は休息を取るがいい。明日から様々な検査と面談を行う予定だ」
彼の声には、期待と同時に不安も含まれていた。どうやら春原の存在自体が、彼らにとって想定外の事態だったようだ。
「検査?何のために?」
「汝の『異界』の知識を記録するためだ。特に魔導具とマナの扱いについて」
「魔導具…マナ……?」
春原は混乱したまま、その言葉を繰り返した。
アシュレイはため息をついた。
「すべては明日説明する。今は休め」
こうして春原は、荘厳な廊下を通り、彼のために用意された客室へと案内された。部屋は信じられないほど豪華で、絹のカーテン、大きな天蓋つきベッド、磨き上げられた木製の家具が置かれていた。窓からは広大な庭園と、その向こうに広がる見知らぬ都市の景色が見えた。
「明日、朝食後に迎えに来る」
アシュレイはそう言い残して部屋を出て行った。扉が閉まると同時に、小さな鍵の音がした。春原は鍵をかけられたことに気づき、急いでドアノブを確かめた。確かに外から鍵がかけられていた。
「ちょ! ちょっと、待って!」
春原はドアを叩いたが、反応はなかった。彼はゆっくりと部屋の中央まで戻り、その場に膝をついた。
春原は窓際に立ち、異世界の夕暮れを見つめながら、この信じられない状況を受け入れようと努めた。窓の向こうには、赤く染まる空の下、見たこともない尖塔や中世時代の西洋風を思わせる建築が並ぶ街並みが広がっていた。
「これは夢……?」
彼はつぶやいた。しかし、石の床の冷たさや空気の匂い、すべてがあまりにも鮮明だった。
その夜、春原は落ち着かない眠りについた。彼の頭の中には、故郷への思いと、この不思議な世界への不安が交錯していた。そして、一瞬だけ抱いた「異世界の勇者」という夢の破片が、痛ましくも残っていた。