第80話:夜明けの迷い(2)
ソラリス商会本部の最上階、執行役員会議室には朝の陽光が差し込んでいた。大きな窓からは王都オリアーノの街並みが一望でき、遠くには王宮の尖塔が威厳を誇っている。
クラリス・ブライトは自分の席で、几帳面に整理された書類に目を通していた。黒いスーツに身を包んだ彼女の姿は、いつものように完璧な商人を演じている。しかし、よく見ると目の下には薄いクマが浮かび、昨夜あまり眠れなかったことが見て取れた。
赤いリボンで束ねた髪を無意識に触りながら、彼女は心の中で昨日の出来事を反芻していた。『銀の厨房』での料理交流、リュカの銀の炎、アレクシスの蒼炎、そして何より——あの契約書の内容。書類の文字が頭に入ってこない。
「おはよう、クラリス」
会議室の扉が開き、アレクシス・レオナードが優雅に姿を現した。今朝もいつものように完璧に整えられた金髪と、涼しげな銀青色の瞳。しかし、クラリスにはその表情の奥に何か計算的なものが見え隠れしているように感じられた。
「おはようございます、アレクシス様」
クラリスは職業的な笑顔で挨拶を返した。しかし、その声には微かな疲労が滲んでいる。
「昨夜はよく眠れたかい? 君の顔色が少し優れないように見えるけど」
アレクシスの気遣いは表面的には優しかったが、どこか探るような響きがあった。クラリスは内心で身構えながら答える。
「ええ、大丈夫です。昨夜は報告書の作成で少し遅くなっただけですので」
「きちんと休息は取らないといけないよ。とはいえ重要な仕事だからね」
アレクシスは会議テーブルの向かい側に座る。
間もなく、カーク・ローレンス当主が会議室に入ってきた。四十代半ばの彼の存在感は圧倒的で、室内の空気が一気に引き締まる。深いえんじ色のスーツと金の懐中時計が、商会のトップとしての威厳を物語っていた。
「おはよう。早速だが、二人には昨日の『銀の厨房』での件について報告を聞かせてもらおう」
カークは主座に着くと、鋭い眼光でアレクシスとクラリスを見据えた。
「はい、カーク当主」
アレクシスが立ち上がり、報告を始めた。彼の声は落ち着いており、昨日の興奮を微塵も感じさせない。
「やはりリュカ・ヴァレンの技術は、率直に申し上げて想像以上でした。彼女の『銀の炎』は単なる調理技術の域を超えています」
カークの目が鋭く光った。
「具体的に説明してくれ」
「彼女は獣人特有の感覚を完全に料理に活かしています。人間の料理人では到達できない領域の技術です。ですが、その調理技術は『体系化可能』です」
アレクシスの説明に、カークの表情が満足げに変わった。
「ほう、それは興味深い。体系化できるということは……」
「はい。商会の他の料理人にも応用できる可能性があります。もちろん、完全な再現は難しいでしょうが、その要素を取り入れることで全体の技術向上が期待できます」
クラリスは二人の会話を聞きながら、胸の奥に嫌な予感が広がっていくのを感じていた。リュカの技術を「体系化」「応用」という言葉で語るアレクシス。それは昨日見た、心のこもった料理とはまったく別のものに聞こえた。
「素晴らしい。それで、契約の見通しはどうだ?」
カークの質問に、クラリスが答える番だった。彼女は書類を手に取り、職業的な口調で報告を始める。
「相手方は契約内容について十日間の検討期間を希望しています。特に専属使用権の条項について、詳細な確認を行っているようです」
「慎重だな。まあ、それだけ価値のある技術だということだ」
カークは満足そうに頷いた。
「ただし」
クラリスは一瞬躊躇したが、職務として報告すべきことだと判断した。
「相手方の給仕担当の青年——が、契約条項について疑問を呈していました。『派生技術』の定義が広範囲すぎるのではないかと」
アレクシスの表情がわずかに変わった。
「給仕の青年か。何か法律知識があるのかい?」
カークの言葉にクラリスは心臓を掴まれるような感覚を覚えた。専属契約に関する契約書について、よく確認するように言ったのはクラリス本人だったからだ。
「……詳細は不明ですが、契約書の問題点を的確に指摘していました」
カークは興味深そうに身を乗り出した。
「なるほど。では、彼らは契約の本質を理解しているということだな」
その言葉に、クラリスの心がざわめいた。「契約の本質」——それはつまり、表向きの互恵関係ではなく、実際には一方的な搾取構造だということを示唆しているのではないか。
「ですが、問題ありません」
アレクシスが冷静に続けた。
「リュカさんの技術は、個人の店で留めておくには惜しすぎます。王国全体、いえ、種族の枠を超えて多くの人々に届けるべきです。それこそが本当の『種族共存』ではないでしょうか」
アレクシスの言葉には理想主義的な響きがあった。しかし、クラリスにはその裏に潜む別の意図が見えるような気がした。
「確かに」
カークが頷いた。
「彼女の技術を王国中に広めることができれば、素晴らしい商材になる。ソラリス商会の名声もさらに高まるだろう」
——商材。
その言葉がクラリスの胸に刺さった。リュカは商材ではない。心のこもった料理を作る、一人の料理人だ。彼女の技術は確かに素晴らしいが、それを「商材」と呼ぶことに、クラリスは強い違和感を覚えた。
「ところで、クラリス君」
カークの声で、彼女は現実に引き戻された。
「君の顔色が優れないようだが、大丈夫か?」
「は、はい。申し訳ございません。少し考え事をしていました」
クラリスは慌てて謝罪した。しかし、カークの鋭い目は彼女の動揺を見逃さなかった。
「この契約は我々にとって重要な案件だ。君の手腕にかかっている部分も大きい。しっかり頼むぞ」
「承知いたしました」
会議は滞りなく終了した。カークが退室した後、会議室にはアレクシスとクラリスだけが残された。
◆◆◆◆◆◆
廊下に出ると、アレクシスがクラリスに歩み寄った。大理石の床に二人の足音が静かに響く。商会本部の廊下は威厳に満ちているが、今のクラリスには圧迫感として感じられた。
「クラリス、少し話そうか」
アレクシスの提案に、クラリスは頷いた。二人は人気のない会議室の前で立ち止まる。
「……君は何か気になることがあるようだね」
アレクシスの銀青色の瞳がクラリスを見据えた。その視線は優しいが、同時に探るような鋭さも持っていた。
「アレクシス様……」
クラリスは言葉を選ぶように口を開いた。
「契約条項についてですが、確かに『派生技術』の定義が広範囲すぎるように思われます。このままでは、リュカさんの創作活動そのものを制限してしまう可能性が……」
「君はリュカさんを心配しているのかい?」
アレクシスの問いかけに、クラリスは一瞬答えに詰まった。
「あっ、えっと、それは……職務として、契約の公正性を……」
「クラリス」
アレクシスが彼女の言葉を遮った。
「君の気持ちは分かる。彼女は確かに素晴らしい料理人だ。昨日見た『銀の炎』は、僕自身も感動した」
彼の声には確かな感動が込められていた。しかし、次の言葉で雰囲気が変わった。
「だからこそ、彼女の技術は王国全体のために必要なんだ。一つの小さな店に留めておくには、あまりにも惜しい」
クラリスは彼の言葉に複雑な思いを抱いた。理想的には聞こえるが、リュカ本人の意志は考慮されているのだろうか。
「でも、彼女自身の意思も……」
「もちろん、彼女の意思は尊重する。だが、時として個人の選択が、より大きな利益と対立することもある」
アレクシスは窓の外を見ながら続けた。
「君は『種族共存』という理念に共感して商会に入ったそうだね? リュカさんの技術を広めることは、まさにその理念の実現につながるとは思わないかい?」
クラリスの心が揺れた。確かに彼の言葉には一理ある。種族の壁を越えて多くの人に届く料理——それは彼女が夢見ていた世界に近い。
「獣人の優れた技術が正当に評価され、王国中に広まる。それは彼ら彼女らの立場の解消にもつながるはずだ」
アレクシスの理想論に、クラリスは一瞬心を動かされそうになった。しかし、頭の片隅で小さな声が警告していた。
「……ですが」
クラリスは勇気を振り絞って反論しようとしたが、アレクシスの表情が一瞬だけ硬くなる。しかし、すぐに穏やかな笑みを取り戻す。
「クラリス、君は優しすぎる」
彼の声には、まるで子供を諭すような響きがあった。
「時に大きな理想のためには、小さな犠牲も必要だ。……彼女の持つ素晴らしい技術は、社会の利益のために活用されるべきものだとは思わないかい? かつてこの国、人間が魔道具の技術革新をもたらし栄光を掴んだように……ましてや、この王国に利益をもたらすものなら尚さらだ。それが進歩というものだよ」
——小さな犠牲。
その言葉がクラリスの胸に重くのしかかった。リュカの自由は「小さな犠牲」なのだろうか。彼女の心のこもった料理は、理想のための代償として差し出されるべきものなのだろうか。
「確かに、君の懸念は理解できる。だが、法的な問題については法務部門が適切に処理するはずだ。君は契約成立に向けて努力してくれればいい」
アレクシスは時計を確認すると、足早に歩き始めた。
「すまない。僕は別の用事があるから、これで失礼するよ。契約の件、僕も期待しているよ」
クラリスは廊下に一人残された。アレクシスの後ろ姿が角を曲がって見えなくなっても、彼女はその場に立ち尽くしていた。
理想と現実。正義と利益。種族共存という美しい理念の裏に隠された、商会の冷徹な計算。クラリスの心の中で、様々な思いが渦巻いていた。
窓の外では、王都の街並みが朝日に照らされて輝いている。美しい光景だった。しかし、クラリスにはその光が、どこか冷たく感じられた。彼女が信じてきた理想は、果たして本物だったのだろうか。それとも、巧妙に装飾された搾取の仕組みに過ぎなかったのだろうか。
幼い頃の記憶が蘇る。親友との別れ。「必ず迎えに行く」と約束したあの日。商業の力で社会を変える——そんな夢を抱いて商会に入った日。
果たして、自分は正しい道を歩んでいるのだろうか。
クラリスは深いため息をつくと、ゆっくりと自分の事務室へと向かった。まだ朝だというのに、一日がとても長く感じられそうだった。