第7話:一皿のまかない(3)
2025/05/24:タイトルを変更
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炉辺で養父の料理を食べていた幼い日々。養父は料理以外のことの多くを語らなかったが、彼の手から生まれる一皿一皿が、言葉なき物語を紡いでいた。
そして彼女が初めて作った料理の日のこと。
あの日、彼女は自分の感覚を信じて料理を作った。目分量で入れた塩、感覚だけで調整した火加減、未熟なまでの不器用な手つき。
養父の見様見真似で出来上がったスープは、塩気が強すぎ、野菜は煮崩れ、肉は固かった。見た目も色合いも、とても人に出せるものではなかった。
幼いリュカは恥ずかしさと不安でいっぱいだった。エルベルトに渡す時、彼女の手は震えていた。
「はじめて、作りました……」
彼女は怯えたように小さく言った。もしかしたら怒られるかもしれない、まずいと言われるかもしれない、そんな恐怖と期待が入り混じった複雑な思いで差し出したスープだった。
養父はそのスープをじっと見つめ、ゆっくりとスプーンを持ち上げた。そしてひと口、口に運んだ。彼の表情は変わらなかった。二口...三口...四口...彼は最後の一滴まで飲み干すと、静かに皿を置いた。
「美味しい」
たったそれだけの言葉だったが、リュカには全てを語る一言に聞こえた。彼の口元には、微かだが紛れもない笑みが浮かんでいた。それは彼女が見たことのない、柔らかな表情だった。
「ほんとうですか……?」
リュカは半信半疑で尋ねた。自分でも味見をしていたから、決して美味しいものではないことは分かっていた。だがエルベルトは嘘をつく人ではなかった。
「ああ」
彼は静かに頷き、リュカの頭を優しく撫でた。
粗い手の感触が彼女の獣耳に触れ、温かな安心感が全身に広がっていった。
「ありがとう……本当に美味しい」
リュカの中に小さな灯がともったのはその時だった。
誰かのために料理をする喜び。誰かの口に入るものを作る責任。そして何より、料理を通して心が通じ合う不思議な感覚。
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”主厨房で働かないか”という言葉に戸惑いを隠せていなかったリュカは、言葉を詰まらせてしまっていた。
「なに、すぐに回答をする必要はない。いつでも答えを聞くよ」
ヨハンは言い残すと、彼女の肩を軽く叩き、立ち去っていった。
厨房に残された他の料理人たちも、次第に自分の持ち場に戻り始めた。しかし彼らの眼差しには、それまでとは違う光が宿っていた。一人の獣人の少女を、初めて料理人として見る目だった。
リュカはヨハンの去り際の背中を見つめながら、複雑な感情の渦の中にいた。主厨房で働く──それは料理人としての技術が認められるということ。
だが、店はどうなる? 「銀の厨房」は彼女の家であり、養父の遺産だった。閉めてしまうわけにはいかない。かといって、この機会を逃せば二度と訪れないかもしれない。
彼女は自分の小さな手を見つめた。この手は料理人の手だ。養父から受け継いだ技術と、彼女自身の感覚が宿る手。その手で何を掴むべきなのか。
ただ今は考えている暇はなかった。リュカは料理を銀の蓋付き皿に盛り、指示された東棟へと向かった。廊下を歩きながら、彼女の鼻孔からは湯気と共に漂う料理の香りが微かに漏れてきた。獣人の嗅覚で捉えるそれは、安らぎと温もりの香りだった。自分の心が形になったような気がした。
東棟は王宮の中でも比較的新しい区画で、貴賓や特別な来客のための宿泊施設がある。リュカはそこに足を踏み入れたことがなかった。大理石の床と高い天井、壁には美しいタペストリーが掛かっている。彼女は肩を縮め、料理を両手で抱えるように持ち、指示された配給棚へと向かった。
配給棚は東棟の小さな給仕室にあった。そこでは数人の給仕が忙しく立ち回っていた。リュカが部屋に入ると、彼らは一瞬動きを止め、獣人の少女を見つめた。彼女は耳を後ろに倒し、視線を落とした。
「東棟客人用のまかないです」
彼女は小さく言った。
「ああ、東棟の……連絡が行き届いておらず、すみません」
給仕が彼女から料理を受け取った。給仕の女性は蓋を開け、中身を確認すると、驚いたような表情をした。その料理からは、魔導調理器具で作られた王宮料理にはない、生命力あふれる香りが立ち上っていた。
「これは……見事な出来栄えですね」
給仕の女性はは思わず呟いた。
リュカは頭を下げ、部屋を後にした。料理人としての誇りが微かに芽生えていた。
廊下を歩きながら、リュカの胸の中に奇妙な感情が芽生えていた。彼女の料理は誰かの口に入る。その人がどのような反応をするのか、彼女は知ることができない。それでも、彼女は心を込めて作った。しかし、それが誰かの心に届くのだろうか?
養父のエルベルトの言葉が甦る。
『料理は言葉より雄弁だ』
彼女はずっと、その言葉の意味を理解していなかった。
それを理解できるようになったのは、養父が亡くなってからだった。彼の不在を埋めるように、毎日調理をし、彼の味を思い出そうとする中で、次第に料理の持つ力を感じるようになっていた。
王宮での一ヶ月、彼女はただ生きるために働いていた。だが今日、初めてこの宮廷での奉公の中で料理を作った。この生活の中で本当の意味で、誰かのために作った料理だ。
それが誰かの心に届くかどうかは、彼女にはわからない。だが、作ったという事実だけでも、彼女の中に小さな満足感をもたらしていた。
リュカは副厨房に戻り、次の雑用に取り掛かった。厨房のざわめきの中、彼女の心は静かに落ち着いていた。今日の彼女には、別の感覚があった。それは自分自身の存在を、少しだけ肯定できる感覚だった。
彼女の獣耳が少しだけ高く立ち上がり、尻尾が束縛の中でわずかに揺れた。そして彼女は思った──
もし機会があれば、また料理を作りたい。
そして、いつかまた誰かに直接「美味しい」と言ってもらいたい。
彼女の中の小さな希望の火種は、そうして静かに燃え続けていた。
その日の夜、東棟の一室では、『異世界から召喚された若者』が一皿の料理を前に涙を流していた。
だが、それはまだリュカの知らない物語だった。
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