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第67話:繁盛と苦境(3)

 東区の市場は、活気付いていた。商品を求める人々の往来が多い中、八百屋の店主が威勢よく野菜を並べ、魚屋は氷と共に新鮮な魚を陳列している。春原は小さい紙切れを手のひらで確認しながら、残りの材料を探して露店の間を歩いていた。


 彼は紙を見ながら、小さく呟いた。最後に残ったのは「月見草の根」という、聞き慣れない薬草だった。薬師の店で売っているとの記述があったが、それがどこにあるかは書かれていない。


「あとは、これだけかな。月見草の根……一体どこで」


 春原は市場を見回した。肉屋、八百屋、魚屋、香辛料を売る店、そして僅かに見える薬草を扱う小さな店。彼はその店に向かって歩き始めた。


 薬草店の前まで来ると、老婆が古い木箱から色とりどりの乾燥した薬草を取り出している最中だった。


「あの、すみません。月見草の根はありますか?」

 老婆は顔を上げ、春原をじっと見つめた。


「月見草の根? 何に使うつもりじゃい?」

「知人の……獣人の方が倒れてしまって、栄養のあるものを食べてもらいたいんです」  老婆の表情が柔らかくなった。

「ほう、それなら大切じゃな。だけど、すまないね。ウチじゃ取り扱ってないよ」


 春原の肩がガクリと落ちた。これが最後の材料だったのに。今朝から市場を歩き回り、一つ一つ材料を集めてきた。買い物袋は既に必要な食材でいっぱいになっているが、この月見草の根だけがどうしても見つからない。


 彼は手に持つ買い物袋を見下ろした。獣人向けの薬草、穀物、——本に書かれた材料はほとんど集まっている。しかし、最も重要とされる月見草の根だけが手に入らない。


 市場の人混みを見回すと、まだ見ていない店がいくつかある。しかし、どの店も香辛料や日用品ばかりで、薬草を専門に扱っているようには見えない。春原は疲労と焦りで額に汗が浮かんでいた。


 しかし、数歩歩いたところで、彼の足が止まった。お腹が小さく鳴ったのだ。


「……そういえば昨日から何も食べてないな」


 春原はそう呟いて、自分の状況を振り返った。リュカが倒れてからというもの、看病に集中していて自分の食事をすっかり忘れていた。今になって空腹感が押し寄せてくる。

 市場を見回すと、湯気を立てる串焼きの屋台が目に入った。その香ばしい香りが風に乗って運ばれてくると、春原の胃袋はさらに強く抗議した。


 屋台の前に近づくと、店主が威勢よく声をかけてきた。


「兄さん、いい串焼きあるよ! 焼きたてだ!」


 春原は屋台を見渡した。鶏肉、豚肉、野菜などが丁寧に串に刺され、炭火の上で美味しそうに焼かれている。ジュウジュウと音を立てながら脂が滴り、その度に炎が小さく舞い上がる。


 しかし、彼の目に飛び込んできたのは、店の隅に置かれた「特製肉の串焼き 残り1本!!」の札だった。それが指しているのは、香辛料がたっぷりとまぶされた肉串だった。


「あ、あの……すみません、特製肉の串焼を一本……」

 春原が声をかけようとした瞬間、彼の隣から別の声が響いた。

「特製肉の串焼一本、お願いします……」


 春原は振り返った。そこには、黒いスーツのような服装に身を包んだ若い女性が立っていた。赤いリボンで丁寧に結ばれた髪、知的な印象を与える整った顔立ち。明らかに東区の住民ではなく、商会や上流階級の人間だと分かる。


 ——この人も最後の一本を狙ってる。どうしよう、もう他に食べるものを探す時間はない。でも、押し切るわけにもいかないし……


 二人の視線がぶつかり合う。春原の心には焦りと遠慮が混じり合っていた。


「いえ、先に……どうぞ」

「いいえ、あなたの方が先でしたから……どうぞ」


「遠慮しなくて……どうぞ」

 春原はさらに深く頭を下げた。


「いやいや。遠慮しないで……あなたこそどうぞ」

 女性も負けじと頭を下げる。


「いえいえいえ、気にしないですください。どうぞ」

「いや、私も全然大丈夫ですから。どうぞ」


 ——このままじゃいつまで経っても終わらない……!

 春原の心の中で焦りが生まれた。リュカが倒れているのに、こんなところで時間を無駄にしている場合ではない。しかし、だからといって女性を押しのけるわけにもいかない。


 女性も同じような思いでいるようだった。彼女の眉がわずかに(しか)める。そして彼女は、深く息を吸うと、突然声を張り上げた。



「はぁ……もういい加減にしなさいよ! さっきから私が譲ってるんだから、大人しくあんたが買いなさいっての!」



「ええええええ……!?」


 春原は思わず後ずさりした。さっきまでの上品で控えめな印象が嘘のように、女性の声は市場に響き渡る。周囲の人々が一斉に振り返り、注目が集まった。

 店主は慌てたように手を振った。


「おいおい、どうしたんだ? まあまあ、お二人とも落ち着いて」


 女性は自分の声の大きさに驚いたのか、顔を赤らめて頭を下げた。


「あ、ごめんなさい……つい……」


 春原はまだ呆然としていた。さっきまでの淑女のような女性が、まるで別人のように変わってしまったことに戸惑いを隠せない。


 店主は苦笑いしながら提案した。

「そうだな……どっちも欲しそうだし、この特製串、実はもう一本あるんだよ。自分用で取り置きしてたんだが、お二人にお分けしようか」


 春原と女性は安堵の表情を浮かべた。

「「ありがとうございます」」


 二人は同時に言って、またお互いを見た。今度は笑いがこみ上げた。

 店主が二本の串を慣れた手つきで包むと、女性が代金を取り出そうとした。


「あ、僕が払います」

 春原も財布を取り出す。


「いやいや、さっきは失礼なことを言ったので」

 女性の言葉に、春原は首を振った。


「いえいえいえ、気にしないでください。むしろ、僕の方こそ」

 またも譲り合いが始まりそうになったとき、店主が割って入った。


「はいはい、もうその辺にしてくれ。それぞれ自分の分を払ってくれ。これで解決だ」


 二人は苦笑いしながら、それぞれ代金を支払った。

 屋台を離れると、女性は恥ずかしそうに俯いた。



 ◆◆◆◆◆◆



「さっきは、その……ごめんなさい。大声を出したりして……」

「いえ、大丈夫だよ。僕の方こそ、しつこく譲ってしまって」


 春原は購入した串を見下ろした。香辛料の良い香りが立ち上り、お腹がまた反応する。二人は並んで歩きながら串を食べ始めた。

 最初の一口を噛むと、柔らかな肉の旨味と香辛料の辛味が口の中に広がった。春原は思わず小さく唸った。


「うわ……これ美味しい」

「ええ、この屋台は東区でも評判がいいのよ」


 女性は春原の横顔をちらりと見て、眉を寄せた。


「ところで、あなた……顔色悪いし、目のクマもすごいしどうしたの?」

 春原は串を持つ手を止めた。彼は自分でも疲れているのは分かっていたが、そんなに酷く見えるのかと思う。


「えっと……実は、友人が昨日倒れてしまって。一晩中看病をしてたからかな」

「それは、大変。それで?」


「過労だったんだ。医者に来てもらったら、特別な栄養をつけるよう言われたから、市場で材料を探していたんだ」

 春原は手に持つ買い物袋を少し持ち上げた。


「そういえば……」

 彼は紙切れを取り出し、確認した。


「これ買えるお店知らない?」

 春原は「月見草の根」と書かれた部分を指差した。


「ああ……それなら、確かあのお店にあったはず。ちょうどそっちの方面に向かうところだったし、一緒に行こうか?」

「本当? ありがとう! 助かるよ、見つからなくて苦労してたんだ」


 二人はゆっくりと市場を歩き始めた。女性は黒い燕尾服の様なものを身を包み、赤いリボンで髪を結んでいる。その洗練された装いは、東区の市場ではあまり見かけないものだった。


「えっと……名前聞いてなかったね」

「あ、そうだ。クラリス・ブライトね。クラリスって呼んで。あなたは?」

「春原祐一。よろしく」

 二人は軽く頭を下げ合った。


「クラリスさんは、東区の市場に何か用があって?」

「いや、少し用があったけど……訪問先のお店がお休みだったから。ちょっとブラついてたの」


 クラリスは串を小さく齧り、春原が抱えている食材を見ながら問いかけた。


「……あなた料理人?」

「いや、僕は料理人ではないよ。給仕で」

「そうなの。倒れた方が料理人?」

「うん。とても腕のいい人なんだけど、最近忙しくて……それで」

 春原の声に疲れが滲んだ。


「最近、食材も高騰してきてるから、仕入れが大変で。お客さんは増えてるんだけど、利益は逆に下がってしまってて」


 クラリスは足を止めた。市場の喧騒の中で、彼女の表情が一瞬鋭くなったのを、春原は見逃さなかった。


「客は増えているのに利益が下がる? それは深刻な問題ね」

「経営のことはよく分からないんだけど、仕入れ値が上がって、でも料理の値段は簡単には上げられないしで……」

 春原は困ったような表情をした。


「客数増加に対して利益が減少——典型的な収益構造の問題ね。売上高に対する変動費率が想定より高くなってるのね」

「どのくらいの頻度でお客様が? 一日何人くらい? お店の席数は? 平均単価の変動は?」

 クラリスは矢継ぎ早に質問を重ねた。その質問の仕方は、まるで経営コンサルタントか、商会の分析担当者のような専門性を感じさせた。


「……あ、ごめん。職業柄、つい聞いてしまう癖があって」

「いや、いいよ。心配してくれてありがとう」

 春原は微笑んだ。


 その時、二人は目的の店に到着した。古い木造の建物の前には、「山菜・木の実・薬草専門店」の看板が掛かっている。


「ここかな? 案内してくれてありがとう」

「いえいえ、どういたしまして」


 春原は店の中に足を踏み入れ、短時間で月見草の根を見つけることができた。


「これでやっと全部揃ったよ」

 春原が店から出てくると、クラリスはまだそこに立っていた。


「良かった! 見つかったんだ」

「ありがとう、本当に助かった。クラリスさんがいなかったら、きっと見つけられなかった」


「気にしないで。あと、クラリスでいいわ。堅苦しいのは仕事だけで十分だから」

「ああ、うん。ありがとう、クラリスさ……クラリス。僕も春原でいいよ」

「どういたしまして、春原。東区にはよく来るから、また会う機会があれば」

「その時は、僕がお世話になってるお店を紹介させて」


「楽しみにしてるわ……。あ、もうこんな時間。ごめん、私も用事があるから、そろそろ行かなくちゃ」

「僕も早く戻らないと。本当にありがとう!」

「こちらこそ、珍しい出会いで楽しかったわ」


 二人は深く頭を下げあった。春原は急いで帰路に着き、クラリスは反対方向へと歩いていく。  春原の胸の奥で、もしかしたらクラリスがいつか来客として店に現れるかもしれないという予感がかすかに芽生えた。


 しかし今は、リュカのことで頭がいっぱいで、その考えは意識の奥へと沈んでいった。


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