第6話:一皿のまかない(2)
2025/05/24:タイトルを変更
今や、リュカの周囲には十人ほどの料理人が集まっていた。
若い見習いから、年季の入った親方格まで、様々な階級の料理人たちが彼女の調理を見守っている。彼らの鼻が、立ち上る香りを追いかけるように動いていた。獣人特有の鋭敏な感覚を持つリュカだけが、彼らの吸い込む空気の音や、喉の奥で生まれる微かな感嘆の音を聞き取ることができた。
リュカの手の動きは次第に加速し、まるで踊るように優美になる。
まるで見えない音楽に合わせるかのように、リズミカルかつ効率的な動作で料理が進んでいく。左手が具材を動かし、右手が火力を調整し、時には鍋を持ち上げて食材を空中で舞わせる。
香草とキノコを加える瞬間、その指先は魔法のような正確さで食材を散らされていく。それぞれが最も引き立ち合う位置を計算するかのように、フライパンの上で食材が踊りだす。熱伝導の経路を予測し、すべての食材が均等に加熱されるよう計算されつくした配置だった。
「素晴らしい手さばきだ……」
誰かがささやいた声が、リュカの耳に届いた。だが彼女は料理に没頭し、その声に反応することはなかった。彼女の世界には今、料理だけが存在していた。
「彼女、計量器も温度計も使っていないぞ……」
見習いの声が小さく上がる。
「感覚だけで、あんな精密な……」
リュカは鍋の中の空気の流れを読み取り、卵を注ぐ最適な瞬間を見極める。フライパンの異なる場所の温度差を、手首の上に漂う熱気の違いから判断した。そして彼女はボウルを傾け、卵液が流れ込む様は、小川が谷間を流れるように自然で美しかった。
卵が半熟になった瞬間、リュカは事前に切っておいたパンのサイコロを散らした。熱が均等に行き渡るよう、彼女は手首を微妙に回し、フライパン全体に小さな振動を与える。鍋を持つ手には力が入っていなかった。まるで鍋自体が彼女の身体の一部であるかのように、自然な延長として動いていた。
そして、獣人の耳だけが聞き取れる湯気の音色を確かめ、蓋をした。
普通の人間の耳では捉えられない微細な音や振動の変化を、彼女は察知している。それはまるで鍋の中の食材が語りかけてくるかのようだった。「もう少し」「そろそろ」と。
彼女の感覚は、密閉された鍋の中で何が起きているかを鮮明に捉えていた。鍋の中の湿度と温度、香りの変化、音の波紋—それらがすべて彼女に伝えていく。
──「今だ」と全身が告げたとき、彼女は蓋を開けた。
完成した料理からは、王宮の豪華な魔導調理器具を使った料理にはない、生命力に満ちた香りが立ち上っていた。
リュカが作ったのは古代オルステリア風の「卵とキノコのパンプディング」と呼ばれる伝統料理だった。まず少量の鶏肉を香草と共に炒め、その上に森で採れた風味豊かなキノコを加えて旨味を引き出し、サイコロ状に切ったパンをフライパンに広げ、その上から卵を流し入れて半熟状態でパンに染み込ませる。仕上げに様々な香草を散らし、蓋をして余熱で熟成させる技法だ。
外側はカリッとした食感で、内側はしっとりと柔らかく、素材の風味が凝縮されていた。パンの香ばしさ、卵のコク、キノコの奥深い風味、香草の爽やかさが絶妙に調和している。この料理は、戦時中の限られた食材で兵士たちの心を温めた「戦場の軽食」とも呼ばれ、エルベルトが得意としていた料理の一つだった。
いつの間にか、厨房は静寂に包まれていた。
リュカがようやく我に返ったとき、厨房の片隅から小さな拍手が聞こえてきた。彼女が顔を上げると、料理人たちが二十人近く集まり、彼女の調理を見つめている。彼らの目には驚きと、明らかな敬意の色が浮かんでいた。
「これは……」
「見事な手さばきだ」
「獣人に……こんな技が」
誰かが小声で言った。温度計も計量器も使わず、ただ自らの感覚だけで完璧な料理を仕上げる彼女の姿に、プロの料理人たちでさえも言葉を失っていた。見習いから親方まで、それぞれの眼差しには様々な感情が宿っていた。驚き、称賛、羨望、そして少数には不快感や嫉妬の色も混じっていた。
リュカは自分の手を見つめた。小さく、粗い皮膚をした獣人の手。だが今、その手には何かが宿っているように感じられた。長年の訓練と、獣人特有の鋭敏な感覚が融合し、彼女にしか作れない料理を生み出す力。
「何を作っているんだね?」
突然声をかけられ、リュカは小さく飛び上がった。振り向くと、そこには年配の料理人、ヨハンが立っていた。主厨房の料理長の一人であり、リュカを時折気にかけてくれる数少ない人間だった。
「あ、あの、客人用の賄いを……」
リュカは少し慌てて説明した。ヨハンは彼女の作った料理を覗き込み、鼻を近づけた。彼の鋭い目が、料理を分析するように見つめている。
「ふむ……少し、味見をしても?」
「は、はい」
彼はフライパンに残った料理をスプーンで掬い、口に運ぶとしばらく味わった後、小さく頷いた。
「繊細な火加減。香草の使い方も見事。それに……君の包丁さばきは基本に忠実でありながら、その精度が並外れている。そして、適切な温度管理と食材への深い理解──これは単なる技術の域を超えている」
リュカの耳がピクリと動いた。彼女は微かに赤面し、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
胸の奥で小さな温かさが広がっていく。王宮の主厨房料理長──王国でも指折りの料理人であるヨハン様に、自分の料理を認めてくれた。獣人である自分の技術を、こんなにも詳しく、そして正当に評価してくれた。養父エルベルトが生きていたら、きっと喜んでくれただろう。料理の全ては、養父から学んだのだから。
そしてヨハンは彼女の料理をさらに観察してから、不意に言った。
「リュカ君、そろそろ王宮で本格的な料理を作ってみる気はないかね?」
彼女は混乱して顔を上げた。
「ど、どういう意味でしょうか?」
「言葉通り『主厨房で働かないか』という意味だよ」
ヨハンは真剣な表情で言った。
「初めて見た時から思っていた。君には才能がある。包丁の握り方、素材を見る目、火加減の感覚……それを雑用だけで無駄にするのは実に惜しい」
リュカは言葉を失った。主厨房で働くということは、王宮の正式な料理人として認められるということだ。獣人にはほとんど与えられない機会だった。
「でも……私は獣人です」
彼女は小さく言った。それは説明でも、拒絶でもなく、ただの現実だった。
「料理に種族は関係ない」
ヨハンはきっぱりと答えた。
「私が保証する。腕さえあれば、主厨房でも働ける。もちろん、最初は下っ端からだが、それでも今よりはずっとましだろう」
リュカの心臓が激しく鼓動した。これは彼女の夢だったはずだった。料理人として認められること。だが、不思議と迷いがあった。
「身に余るお話、ありがとうございます。ですが……考えさせてください」
彼女は小さく答えた。
「あと、もう一つ理由があるんだよ。これは主厨房を任せられている立場としてではなく、私個人の理由なんだが……」
ヨハンは彼女の料理を見つめながら続けた。
「この料理……懐かしいのだよ。昔、戦場で食べた料理を思い出す。君のように食材の機微を見極めて踊る様に調理するエルベルト・ヴァレンという料理人がいてな……」
彼女は思わず胸が高なった。思いもしなかった養父の名前に、驚きを隠すことができなかったからだ。そんな様子を感じとったのか、ヨハンは驚きとも感嘆とも取れる様な表情で彼女を改めて見つめた。
「そうか、君は彼の……」
「……はい、養女です」
リュカは静かに答えた。
「なるほど……ちゃんと彼の料理は受け継がれていたんだな」
ヨハンは深く頷いた。その表情には、何か複雑なものが宿っていた。懐かしさと哀しみの混ざり合ったような感情だ。
「彼は素晴らしい料理人だった。戦場で兵たちに作った料理は、単なる栄養補給ではなく、心を癒すものだった」
リュカは胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。養父の評判を聞くのは久しぶりだった。
獣耳の先が少し下がり、彼女の目には微かな湿り気が浮かんだ。幼い頃の記憶が、彼女の内側で震えるように蘇ってくる。