第5話:一皿のまかない(1)
2025/05/24:タイトルを変更
彼女は素早く材料を選び始めた。卵、少し古くなったパン、新鮮なキノコ、少量の鶏肉、香草の束。彼女の頭の中で、すでに料理の完成形が見えていた。
調理台に戻ると、彼女は小さな布で手をきれいに拭い、持参した包丁を取り出した。養父から譲り受けた大切な『銀の包丁』。王宮の豪華な調理器具に比べれば質素なものだが、彼女の手に最も馴染む相棒だった。
リュカは小さく息を吸い込み、目を閉じた。世界がゆっくりと遠ざかっていく。
静寂が彼女を包み込む。──そして、次の瞬間、獣人特有の感覚が全開になった。
彼女の鼻孔が開き、食材から立ち上る香りの複雑な層を感知していく。
卵の殻の下で眠る生命の匂い、それはかすかな鉄分と硫黄の調和した香り。キノコからは森の土の湿り気と、太陽が照らした朽ち木の温かみが混ざった複雑な香気。鶏肉は表面から漂う微かな酸味と、内側に閉じ込められた旨味の兆候を告げていた。
彼女の耳は、風を切る獣のように高く立ち上がり、周囲の音を掻き分ける。
隣の厨房からは大鍋の沸騰音が伝わってくる。泡の大きさ、水の密度、火力の強さまでもが音色の微細な違いとして彼女の耳に届いていた。他の料理人たちの包丁のリズムは、それぞれの性格と技術を物語っている。軽快に踊るような音色、重厚で力強い叩き切る音、緊張感の漂う慎重な音色。
さらには、魔導炉から発せられる魔力の振動音。それは人間の耳では捉えきれない周波数で、風鈴のような甘い響きと針の先が氷を割るような鋭さを同時に持ち合わせていた。リュカの耳は時に痛いほどの鋭敏さで、王宮の厨房のあらゆる音色を受け止めていた。
彼女の指先が食材と出会う瞬間、触覚もまた研ぎ澄まされていく。
卵の殻の微細なひび割れの感触、キノコの傘の繊細な強度、鶏肉の筋の走る方向性。すべてが彼女の指先で読み取られる情報となり、脳裏に鮮明に描き出される。
──そして、調理に入ると、彼女の手が舞い始めた。
まずは卵を割る。リュカは片手で卵を持ち上げ、指先で重心を確かめる。新鮮な卵は内部の水分が均一に分布している。彼女は卵殻の均等な圧力点を本能的に見極め、ほんの僅かな力加減で一撃を加えた。「カチン」という、乾いた心地よい音色が空間に広がる。そして両手の指でその割れ目を広げると、卵の中身が一滴の無駄もなく、黄身と白身が完全に分離せぬままボウルへと滑り落ちた。まるで水流のように滑らかな動きだった。
リュカの手もまた、水のように途切れることなく動き続ける。
次は鶏肉。彼女の指先が肉に触れた瞬間、その質感と構造が指紋を通して彼女の神経に流れ込んだ。この鶏肉は若鶏のもので、筋繊維はまだ柔らかく規則正しい。親指と人差し指で肉質を確かめると、指先の皮膚と肉の間に生まれる微細な摩擦が、肉の熟成度合いを告げている。
包丁を持つ手が楽器を奏でるように空気を切る。刃は肉の繊維と同じ方向に沿って滑り、まるで水中を泳ぐように抵抗なく進んでいく。筋に逆らわず、肉本来が持つ構造を尊重するように切り分けられていく。
調理の音色が空間に広がると、周囲の動きがわずかに変化した。
リュカの集中した世界では気づかなかったが、彼女の技術が厨房の空気を変えていた。
副厨房の料理人が一人、二人と手を止め、彼女の方向に目を向ける。主厨房との通路にも、次第に人の気配が増えていく。彼らは自分たちの作業の合間を縫って、その珍しい光景を一目見ようと集まり始めていた。
香草の茎を切る音が空気を震わせる。彼女は香草の茎の筋の方向性を確かめ、その細胞壁に対して垂直の角度から切り込みを入れる。「スナップ」という心地良い断裂音が響く。それは完全に同じ音ではなく、香草の種類によって僅かに異なる。ミントの断裂音は高く澄んでおり、タイムは少し重厚に、パセリは柔らかい響きを持っていた。彼女の耳はその僅かな違いを捉え、調理の進行状況を把握していた。
獣耳は高く立ち上がり、その先端が微かにピクピクと動いていた。まるで音楽を聴くように、彼女は料理の音色に身を任せていた。眉間に小さなしわを寄せた真剣な表情は、狩りに集中する獣の姿を思わせた。
パンは表面の硬さを指先で感じ取る。古さはわずか二日といったところだろう。表面の皮が生み出す「カリッ」という音を目指して、理想的な角度でサイコロ状に切り分けられる。彼女はその質感の違いを舌の上で想像し、食感として完成した料理を予測していた。
その後、彼女はフライパンに油を注ぐ。
近づいてくる温度の変化を、彼女は顔の皮膚全体で感じとっていた。視覚だけでなく、空気の温度変化、湿度の微細な差異、油が分解し始める時に発する特有の香りを統合して油温を判断する。
油の温度が変化する匂いの中に、彼女は幼き日の記憶を見つけていた。養父の家で初めて料理を習った日のことだ。
── ── ──
「リュカ、油の温度はどうやって見るんだ?」
養父は少女のリュカに問いかけた。小さな彼女は不安げに鼻を鳴らした。
「目で……見るんですか?」
彼は笑って首を横に振った。
「違う。匂いで感じるんだ」
彼は彼女を抱き上げ、鍋の上に立たせた。危なくないよう、しっかりと彼女の体を支えている。
「深く息を吸い込んでみれば素材が教えてくれる。どうだ、変化がわかるか?」
彼女は鼻を動かし、空気を吸い込んだ。初めはただの油の匂いだったが、次第に何か別の香りが混じり始めた。
「なんか……熱いにおいがします」
「そうだ、それが温度だ。目で見るより正確だ。油が話しかけてきているんだよ」
ーーー
記憶の中から現実に戻ると、フライパンの油はちょうど理想的な温度に達していた。熱気が立ち上る空気の密度が変わった瞬間、彼女は鶏肉を投入する。「ジュッ」という音が厨房に響き、肉の表面から水分が蒸発する音と香りが爆発的に広がった。