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第52話:黎明に咲いた銀の炎(1)

 実演料理舞台の裏は、前に広がる客席の熱気と対照的に、静かな緊張が満ちていた。


 春原は控室の窓から外を覗き、黎明市の賑わいを眺めた。色とりどりの旗が風になびき、人々の笑い声や商人の呼び込みの声が遠くから聞こえてくる。


「あともう少しで、リュカさんの出番だ……」


 春原は小さく呟いた。その声には期待と不安が混ざり合っている。

 露店での成功は確かな手応えだったが、実演舞台は別次元の挑戦だ。多くの料理人や審査員の前で技術を披露し、評価される──獣人であるリュカにとって、それはこれまでの人生で最も大きな挑戦かもしれなかった。


 彼は部屋の奥にあるテーブルに目を向けた。そこには「軍人の宴」の材料が整然と並べられていた。しかし、部屋にはいるはずの一人の少女の姿だけが見えなかった。


「あれ…? リュカさん?」


 春原は部屋を見回したが、彼女の姿は見当たらなかった。わずかに開いた扉の向こうに、小さな足音が聞こえる。彼は慌てて廊下に出た。

 廊下の奥の扉が微かに開いていた。そっと近づくと、小さなため息が聞こえてきた。春原はそっと扉を開ける。


「リュカさん……?」


 小さな部屋の隅に、リュカはうずくまるように座り込んでいた。頭巾を深く被り、獣耳は見えなかったが、その細い肩は目に見えて震えていた。



「で、できません……無理なんです……」



 リュカの声はかろうじて聞こえるほど小さく、壊れやすい陶器のように繊細だった。その小さな体からは、恐怖と緊張が波のように伝わってくる。


 重い沈黙が二人の間に流れる。リュカの震えはさらに強くなり、ときおり小さな嗚咽が聞こえてきた。春原の胸の内で、葛藤が渦巻いていた。



 ──彼女を支えたい……でも、どうやって?



 彼の頭の中で思考が巡る。言葉を選び、考え直し、また別の言葉を探す。


 しかし、どんな言葉も薄っぺらく、彼女の恐怖を打ち消せるようには思えなかった。彼はただの役立たずの異世界人。この世界では何者でもない存在。そんな自分の投げかける言葉に、何の価値があるというのだろう。リュカのような才能を持つ人間を、彼が励ますなど、おこがましいとさえ思えた。



 でも、それでも──。



 彼は決意した。


 今、この瞬間、誰でもない自分にできることがあるとしたら、それは自分をさらけ出すことだけだった。偽りの言葉ではなく、本当の自分を見せること。たとえそれが、自分の弱さや恐れをさらすことになっても。リュカの勇気に、彼もまた勇気を持って答えなければいけないと思った。


「リュカさん……」


 彼は言葉を探しながら、床に腰を下ろす。

 リュカとの距離を縮め、同じ目線で話そうとした。


「僕、隠していたことがあるんだ。みんなに……そして、君にも」


 春原は静かに語り始めた。リュカの耳がわずかに動き、彼の言葉に反応した。


「僕は……この世界の人間じゃないんだ。異世界から、召喚されたんだ」


 リュカが驚いて顔を上げた。頭巾の下から覗く翡翠色の瞳が、困惑と驚きに揺れている。


「え……?」


「僕の世界には、魔法なんてない。代わりに科学という技術があって……いや、そんなことはどうでもいい。……この世界に来て、とにかく僕は『失敗』扱いだったんだ」


 春原の声には、かすかな痛みが滲んでいた。あの日々の虚無感、孤独感が蘇ってくる。


「王宮の人々は、最初は期待していたんだ。異世界の知識、特別な力……」


 春原は自嘲気味に笑った。




「──でも、僕には何もなかった」




「魔法も使えない。この世界の常識も知らない。ただの、役立たずだった」


 リュカの瞳が、少しずつ変化していく。驚きから、何かを理解しようとする眼差しへと。彼女の獣耳が微かに動き、春原の言葉に集中していた。


「毎日、豪華な部屋で、一人ぼっちだった。窓の外を見ながら、何度も思った。なぜ、僕はここにいるんだろうって」


 彼の声は次第に沈んでいく。


「誰も僕を必要としない。誰も僕を見てくれない。まるで、透明人間になったみたいに……」


 リュカの胸が、締め付けられるように痛んだ。春原の言葉の一つ一つが、彼女自身の孤独と重なって心に響いていく。


「でも、あの夜……」

 春原の声が、突然熱を帯び始めた。


「あの夜、君の料理を食べた時、初めて……初めて、心が震えたんだ」


 彼の目に熱い光が宿り、声が感情で震えていた。


「温かいものが、胸の奥から溢れてきて……なんでだろうって、ずっと思ってた。でも、君と一緒にいるとその理由がわかったんだ」


 リュカは彼の言葉に魅入られたように、静かに聞き入っていた。


「それは、君が誰かのことを想って料理を作るからなんだ。食材や調味料じゃない、君の思いやりが料理に魂を吹き込んでいる。そのぬくもりが──」


 ──春原の声が震え、途切れた。記憶の奥底から、温かな光が立ち上ってくる感覚。幼い頃の台所。母の背中。立ち上る湯気の向こうの優しい笑顔。



「母さんの料理を思い出したんだ」



 震える声で言葉が零れ落ちる。


「うちはそんなに裕福じゃなくて、いつも同じような食材だったのに……でも、母さんの料理は毎日違う味がして、毎日が特別で、毎日が美味しかった……」


 春原の頬を、涙が一筋、また一筋と伝い落ちる。彼の肩が小刻みに震え、呼吸が乱れる。彼は無意識に胸に手を当て、体の内側から広がる温かさに驚いていた。


「ずっと……ずっと気づかなかった。母さんがどうして毎日あんなに美味しい料理を作れたのか」


 声が詰まり、彼は一度深く息を吸い込んだ。


「母さんは、毎日僕のことを想って……料理してくれていたんだ」


 突然、彼は顔を手で覆った。押し殺そうとしても抑えきれない感情が、溢れ出してくる。喉の奥から絞り出すような声で、彼は続けた。


「君の料理に出会うまで……君と一緒にいるまで、この世界に来るまで気づかなかった。元いた世界でも忘れていた。母さんの味を……」


「君といて、やっと気づいたんだ。料理は……料理は単なる食べ物じゃない。誰かへの思いなんだ。君の料理を食べた時、僕は母さんの料理を思い出した。そして……その温かさがどれほど僕を生かしてくれていたかを……」


 春原は涙を拭おうともせず、むしろ素直にその感情を受け入れていた。

 彼の目は赤く腫れ、声は掠れていたが、それでも語り続けた。


「誰かのことを思って作る料理には、どんな魔法よりも強い、特別な力があるんだって」


 春原の言葉に、リュカの目からも涙があふれ出した。

 獣人として生きる彼女には、その言葉の重さがよくわかった。

 居場所を探す痛み。認められる喜び。それらは彼女自身の心の奥底にも眠っていた感情だった。


「春原さん……」


 彼女の声はかすれ、言葉を探していた。


「君の料理には、魔法なんかよりずっと、ずっと強い力がある! 異世界人の僕にも、種族も、言葉も、すべてを超えて……心に直接届く力が。 それは、僕が……僕自身がその証明だ!」


 リュカの涙が、止まらなくなった。彼女の頬を伝い落ち、小さな手が震える。頭巾の下から獣耳がわずかに覗き、感情の波に揺れていた。


「私は獣人で……」

 彼女の声は、嗚咽で途切れた。


「お客さんの中には……私を見て帰ってしまう人もいて……」

 リュカの声が小さくなり、悲しみに沈んでいく。


「でも、それでも……来てくれる人もいたんです。『美味しい』って言ってくれる人も……」


 彼女は自分でも気づいていなかった事実を、口にしていた。


 養父が営んでいた時から「銀の厨房」には常連客がいた。ゴードンをはじめとする人々は、彼女の料理を心から愛していた。しかし心を閉ざしていた彼女には、その温かさが本当の意味では届いていなかった。常に拒絶されることを恐れ、心の盾を持って生きてきたのだ。


「お父さんが死んでから……私、ずっと怖かった……」


 リュカの全身が震えていた。小さな体は感情の波に揺さぶられ、獣耳は後ろに倒れ、頭巾の中で震えている。


「人前に出るのが……拒絶されるのが……」


 春原は静かに、彼女の言葉に耳を傾けていた。その瞳には深い共感と理解が宿っていた。彼女の恐怖は、彼自身も感じていたものだったから。


「出たくないなら、無理に出なくてもいい。みんなのために自分を犠牲にする必要はないんだ」


 リュカは驚いたように顔を上げた。彼女は、ずっと自分の気持ちよりも周囲を優先してきた。この一言は、彼女の心の奥に触れるものだった。


「君と違って、僕にはなんの力もない。魔法も使えない。君を守ることさえできない……生まれてきた境遇も、種族も違う、生きてきた世界すらも違う」


 春原は、自分の無力さを噛みしめながら、それでも続けた。


「でも、君の料理が、僕を救ってくれたことは事実なんだ! 異世界から来た、何の価値もないと思っていた僕を……」


 廊下から風が吹き込み、リュカの獣耳が微かに震えた。




「君がたとえ誰かに拒絶されたとしても、僕は君のそばに立つ。それだけは、約束する。絶対に」




 その言葉が、リュカの魂の奥底まで響いた。


 誰も手を差し伸べてくれなかった。

 誰も理解してくれなかった。


 でも今、この異世界人は──彼女の心の中で、何かが音を立てて崩れていく。

 恐怖の壁が、少しずつ溶けていく。


 リュカは、震える手を胸に当てた。心臓が、力強く鼓動していた。

 恐怖はまだある。でも、それ以上に──彼女は初めて感じていた。「自分の力で一歩踏み出したい」という気持ちを。


「春原さん……」


 リュカの声は、もはや震えていなかった。彼女は深く息を吸い込んだ。


「私……舞台に立ちます」


 リュカの獣耳が、ゆっくりと立ち上がり始めた。もはや恐怖に押しつぶされることはない。

 彼女は調理舞台に向かって体を向け、立ち上がった。



 それは、彼女自身の決意だった。他の誰かのためでもなく、自分自身の心の声だった。



 春原の顔に、優しい微笑みが広がった。


「……わかった。準備は大丈夫?」


 リュカは目を閉じた。養父の温かな手。春原の言葉。そして、知らず知らずのうちに支えてくれていた常連客たちの顔。全てが、今の自分を形作っていた。


 リュカの瞳を開くと、そこには新しい光が宿っていた。もはや恐怖に曇ることのない、強い意志の光。


「……はい」


「よし!」


 春原の声が、空気を、舞台を、リュカを震わせた。





「行こうっ!」


「はい!」





 ──春原は華奢な彼女の背中を、グッと前へと押し出した。


 押し出した手の抵抗は軽かったが、彼女の強い意志だけはしっかりと感じられた。


 リュカの獣耳がピンと前を向き、腰に巻きつけていた紐が解けた。尾が自由を取り戻し、彼女の全身から恐怖の影が消えていく。


 彼女は廊下を歩き出した。その足取りには、もはや躊躇いはない。


 小さくとも確かな一歩を、彼女は自分の意志で踏み出していた。


 春原はわずかに遅れて彼女に続いた。彼女の背中は小さかったが、廊下の灯りに照らされて神々しく輝いている。


 リュカの歩みは、次第に軽くなっていった。獣耳はまっすぐ前を向き、翡翠色の瞳は迷いなく前方を見据えていた。その表情には、彼が今まで見たことのない強さと誇りが宿っていた。


「『銀の厨房』、リュカさん!お願いします!」


 舞台への入口で運営スタッフが待っていた。彼はリュカに向かって手を振り、舞台への案内を始めた。


 リュカは一瞬だけ振り返り、春原と目を合わせた。

 彼女の唇が微かに動き、無言の「ありがとう」を伝えた。


 春原はただ頷くことしかできなかった。言葉は必要なかった。

 二人の間には、すでに深い絆が生まれていた。種族の壁も、世界の壁も越えた絆が。



 そして彼女は、ゆっくりとカーテンの向こうへ消えていった。




 春原は静かに待機場所に向かった。彼は人々の間で一番いい位置を確保し、リュカの調理の様子を見守ることにした。今の彼にできることといえば、ただ彼女を信じて見守ることだけだったから。

 異世界人の自分が、獣人の彼女を支えられるなら。彼女が外の世界へ踏み出す、その歴史的瞬間に立ち会えるなら。彼にとってそれで十分だった。


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