第49話:黎明の夜明け(4)
黎明市の開始を告げる鐘の音が鳴り止み、広場は一気に活気づいた。
人々の声、商人の呼び込み、子供たちの笑い声が入り混じり、祝祭の雰囲気は最高潮に達していた。色とりどりの旗が風になびき、あちこちから音楽が聞こえてくる。王都の一大イベントが、いよいよその幕を開けたのだ。
春原とリュカの露店の前には、まだ客の姿はなかった。
周囲の店には次々と人が集まり、笑顔で料理を受け取っていくというのに、彼らの前だけは不自然な空白があった。
リュカはそれを気にしているようには見えなかったが、彼女の獣耳が微かに後ろに倒れているのを春原は見逃さなかった。彼女の瞳には、わずかな落胆の色が浮かんでいた。
しかし、それでも彼女は準備を続けた。鉄板を拭き、食材の状態を確かめる。その姿には、どんな状況でも最善を尽くす強さがあった。
「大丈夫。まだ始まったばかりだよ」
春原は励ますように言った。しかし彼自身も、不安を感じずにはいられなかった。人々は彼らの店の前を通り過ぎる時、視線を逸らすか、あるいは露骨に顔をしかめていた。中には子供の手を引き、遠回りして通り過ぎる親の姿もあった。
何かがおかしい。この「羊肉の香生地巻き」の香りで人が寄らないはずがない。朝から準備していた調理器具は清潔で、食材も新鮮だ。問題は一つ、店主が獣人であるという事実だけだった。
春原は歯を食いしばった。この壁を越えなければ、リュカの料理は誰にも届かない。
彼は何か行動を起こさなければならなかった。
リュカはただ黙って俯くと、「羊肉の香生地巻き」の調理を続けた。
彼女の手が繊細に鉄板を温め、薄い生地を広げていく。上質な小麦粉と卵、少量の牛乳で作った生地は、熱せられた鉄板の上で薄く均一に広がっていった。
生地の表面が淡く色づき始めると、リュカは素早く香草を振りかけた。
タイムとローズマリーの爽やかな香りが、立ち上る湯気と共に空気中に広がる。
続いて、前日から下処理しておいた羊肉を細かく刻み、鉄板の上で軽く炙った。羊肉から溶け出る脂が、香草と混ざり合い、さらに豊かな香りを生み出していく。
リュカの手が踊るように動き、肉と野菜を生地の上に広げ、柑橘の汁を少量絞り、特製の調味料をかけていく。そして最後に、慎重に生地を折り畳み、半円形に整えた。
その一連の動きには無駄がなく、まるで何百回も繰り返し練習したかのような流れるような美しさがあった。しかし、それを見守る目はほとんどなかった。
春原は彼女の手元を見つめながら、思わず息をのんだ。
リュカの料理する姿には、芸術家が傑作を生み出すような美しさがあった。
それは単なる技術ではなく、心と魂を込めた創造。
そして、完成した料理からは、たまらなく魅惑的な香りが立ち上っていた。香草の爽やかさ、羊肉の旨味、柑橘の酸味が絶妙に混ざり合い、周囲の空気を一変させるほどの存在感を放っていた。
それなのに、まだ誰も近づいてこない。
「なぜだろう……」
春原は眉をひそめた。この香りなら、どんなに偏見があっても足を止めずにはいられないはず。彼は立ち上がると、店の前に立ち、通りかかる人々に声をかけ始めた。
「いらっしゃいませ! こちらは『銀の厨房』の特製料理です! 香り高い羊肉と新鮮な香草が絶妙に調和した一品、ぜひお試しください!」
彼の声は元気に響いたが、人々の反応は冷淡だった。
多くは目も合わせず通り過ぎ、中には露骨に顔をしかめる者もいた。
しかし春原は諦めなかった。彼はさらに声を張り上げる。
「一口食べれば忘れられない味わい! どうぞご賞味ください!」
隣の店の男たちが小馬鹿にしたように笑い、「獣人の料理など誰が食べるものか」と囁き合う。その声も彼の耳に入ったが、春原は気にしなかった。今、彼にはリュカを助けることしか考えられなかった。
そのとき、一人の中年の男性が足を止めた。
彼は少し離れた場所から、リュカの調理する姿を興味深そうに見つめていた。商人らしき風体で、目の下にはクマができ、疲れた様子だったが、鋭い観察眼を持っているようだった。
「いいにおいですね」
男は一歩、また一歩と近づいてきた。その表情には警戒と好奇心が入り混じっていた。
「ありがとうございます」
春原は笑顔で答えた。ようやく、一人目の客が現れたのだ。
「さっきから気になってたんですよ。そちらのお嬢さんの作ってるものは」
男はリュカの姿をまじまじと見た。頭巾の下から覗く獣耳に目が留まり、一瞬顔をしかめたが、再び香りに引き寄せられるように鼻を動かした。
「獣人の店だが、この香りは素晴らしい……」
リュカは黙々と調理を続けながらも、その言葉に耳を傾けていた。彼女の獣耳がわずかに男のほうへ向く。
「一つ、いただこうかな」
男はポケットから小銭を取り出した。春原は内心で喜びながら、最初のお客様に手渡す。男は少し躊躇った後、一口かじった。
その瞬間、彼の表情が一変した。
「おいしい! これは……素晴らしい!」
男の声は予想以上に大きく、周囲の人々の注目を集めた。
彼は再び一口、また一口と食べ進め、その表情には純粋な喜びが広がっていた。生地のサクッとした食感と、中からあふれ出る肉汁の旨味が彼の味覚を虜にしたようだった。
「なんという味わいだ! 香草の香りが鼻に抜けて、肉の旨味と完璧に調和している。生地の薄さも絶妙だ!」
男は次々と感想を述べ、周囲の人々もその様子に興味を示し始めた。
「なんなんだ? こんなにも美味しいなんて...」
男は残りを一気に平らげると、また財布から銀貨を取り出した。
「もう一つください! 家族にも食べさせたいんです」
リュカの翡翠色の瞳に、小さな希望の光が灯った。
彼女は静かに頷くと、再び調理を始めた。獣耳はもはや後ろに倒れることなく、まっすぐ前を向いている。その姿には、料理人としての誇りが戻ってきていた。
最初の客の言葉と表情は、確実に周囲の人々に影響を与えていた。何人かが好奇心から近づき、リュカの調理する様子を見つめている。彼女の手さばきの美しさに、周囲からは小さな感嘆の声が漏れた。
春原は自信を持って声を上げた。
「『羊肉の香生地巻き』! 東区『銀の厨房』の特製料理です! 店主の繊細な感覚で作る一品、ぜひ一度ご賞味ください!」
春原の元気な声に、さらに人が集まってきた。そして二人目、三人目と注文が入り始める。
最初は躊躇いがちだった客たちも、先に食べた人の表情を見て、次々と注文を始めた。子供連れの家族が近づき、少女が興味深そうにリュカの獣耳を見つめている。最初は母親が娘を引き離そうとしたが、フリネレットの香りに惹かれ、結局は立ち止まった。
「本当に美味しい!」
「この香りは他にないね」
「やわらかくて香りがいい...」
次々と感想が飛び交い、それが新たな客を呼び寄せていった。知らない人が隣り合って料理の感想を言い合い、笑顔で頷きあう光景が広がっていく。
「獣人だからこそ、この繊細な香りのバランスが分かるのかも」
「羊肉なのに、まったくクセがないね」
「歩きながらこんなに美味しいものが食べれて幸せ〜」
賞賛の声が増えるにつれ、リュカの表情にも少しずつ明るさが戻ってきた。彼女の瞳が、今までにない光を宿し始めている。料理人として認められる喜びが、彼女の全身から滲み出ていた。
リュカの手は一時も休まることなく動き続けた。
一皿、また一皿と作り続ける。注文が続く中でも、その集中力は途切れることがなかった。材料を切り、生地を広げ、調味料を加える──その一連の動きは、まるで長い間練習してきた舞のように美しかった。
春原は客の応対と料金の受け取りを担当した。彼もまた休む間もなく動き回り、リュカの料理を少しでも多くの人に届けようと懸命だった。
「味だけではなく、見た目も素晴らしいですね」
「香りが絶妙だ」
「なにこれ、こんなに美味しいものがあったなんて!」
人々の声は、リュカの心に確かに届いていた。彼女の瞳は次第に輝きを増し、動きはさらに生き生きとし始めていた。春原はその変化を見て、心から嬉しく思った。
そして気づけば、彼らの露店の前には行列ができていた。
昼過ぎには、春原とリュカの露店は黎明市の一つの名物となっていた。「獣人店主の絶品『羊肉の香生地巻き』」という噂が口伝えで広がり、絶えず十人以上の行列ができていた。人々は待つ間も楽しそうに会話を交わし、「どんな味だろう」「あの手さばきが見事らしい」と期待に胸を膨らませていた。
「すみません、少々お待ちください!」
春原は列の最後尾に並んだ客に声をかけた。彼の額には汗が浮かび、声はかすれ気味だったが、表情は生き生きとしていた。最初は誰も寄りつかなかった彼らの露店が、今では人気店となっている事実に、春原はある種の高揚感を覚えていた。
リュカもまた休むことなく料理を続けていた。細かい香草を振りかけ、羊肉を刻み、生地を焼き、調味料を加えていく──その繰り返しの中で、彼女の動きは徐々に洗練されていった。獣耳は完全に前傾し、周囲の音を集め、鼻は空気中の香りを読み取り、指先は素材の状態を敏感に感じ取っていた。
彼女の獣人としての鋭敏な感覚が、料理の完成度をさらに高めていることを、春原は確信していた。そしてそれは、客たちの表情からも明らかだった。
「もう三回目です」
年配の紳士が笑顔で言った。彼の目には純粋な喜びが宿っていた。
「この香りと味わいは忘れられないんですよ。家内も気に入ると思い、持ち帰りたいのですが……」
「もちろん、大丈夫ですよ!」
春原は特別に持ち運びやすく包装してあげた。この繁盛ぶりに、隣の店の男も今では睨みつけるのをやめ、時折不思議そうな目で彼らを見るようになっていた。かつての侮蔑の視線は、いつの間にか羨望に変わっていた。
「すごいな、あの獣人の店。誰も相手にしないと思ったのに……」
「あの料理は特別らしいぞ。行ってみるか?」
そんな会話が漏れ聞こえてくる。春原は内心で微笑んだ。リュカの料理の力が、ようやく認められ始めたのだ。
そんな中、突然の休息の時間が訪れた。露店の在庫から食材を材料の補充のためだ。そのために、わずかな間だけ店を閉める必要があったのだ。
「ごめんなさい、少しだけ休ませてください」
リュカが小さな声で言った。春原はすぐに頷き、列に並ぶ人々に「しばらくお待ちください」と伝えた。不満の声も上がったが、多くの人は理解を示してくれた。
リュカは厨房の隅に用意していた水筒を手に取り、一口飲んだ。彼女の肩には疲れが見えたが、翡翠色の瞳は以前にないほど輝いていた。頬には汗が光り、髪は少し乱れていたが、その表情には充実感が溢れていた。
「すごいね、リュカさん」
春原は小声で言った。
「みんな、リュカさんの料理に感動してるよ」
リュカは照れたように俯いた。獣耳がわずかに揺れる。
「春原さんのおかげです……」
彼女の声は小さかったが、確かな感謝の色が込められていた。
「私の料理を、こんなに多くの人に……」
言葉を続けられないほどの感情が彼女の胸に湧き上がっているようだった。長い間、獣人という理由だけで避けられてきた彼女の料理が、今や王都の人々に受け入れられている。その現実が、彼女には信じられないほどの喜びをもたらしていた。
「ありがとうございます、春原さん」
リュカはそう言葉にした。春原は彼女の感謝の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。
「いや、こちらこそありがとう。……でも、こんなにもお客さん達が集まったのはリュカさんの料理だからだよ」
春原も心からの言葉を返した。半年間、異世界で「役立たず」と扱われてきた自分が、今日初めて「誰かの役に立っている」という充実感を味わっていた。リュカの料理を多くの人に届けることで、彼自身も確かな存在意義を感じていたのだ。
「休憩が終わったら、実演舞台だね」
春原がそう言うと、リュカの表情に緊張が走った。獣耳が一瞬ピンと立ち、すぐにやや後ろに倒れる。黎明市の実演舞台で披露する「軍人の宴」――それは多くの料理人が見守る中での勝負だった。
「きっと、大丈夫」
春原は彼女の肩に軽く手を置いた。
「リュカさんの料理は、誰の心も動かす。それはもう証明された」
リュカはゆっくりと顔を上げ、春原をまっすぐ見つめた。
「はい……」
彼女は小さく、しかし力強く答えた。獣耳が再び前に向き、決意の表れとなった。
その言葉に、春原はただ頷くことしかできなかった。
リュカの中に芽生えた自信と決意は、今や誰にも揺るがせないものになっていた。
再び店を開き、列に並ぶ人々に「羊肉の香生地巻き」を提供する二人。春原はリュカの横顔を見ながら、この異世界で初めて感じる「居場所」の温かさを噛みしめていた。ここには彼を必要としてくれる誰かがいる。彼の言葉と行動が、誰かの役に立っている。それは春原にとって、何よりも大切な発見だった。




