第47話:黎明の夜明け(2)
真夜中を過ぎた「銀の厨房」の二階の小部屋で、春原は眠れぬ夜を過ごしていた。窓から差し込む月明かりが、部屋の中に青白い光の帯を作っている。彼はベッドに横たわったまま、天井を見つめていた。
「ああ……やっぱり眠れないな」
春原は小さく呟くと、ゆっくりと起き上がった。隣の部屋では既にリュカが寝息を立てているはずだ。長時間の緊張した準備の後、彼女はさすがに疲れ果てていた。しかし春原の頭の中は、まだぐるぐると回り続けている。
窓際に立ち、春原は東区の夜景を見下ろした。石畳の道や古い建物の屋根が、月の光に照らされて灰色に浮かび上がっている。夜の静けさの中で、遠くからは酔っ払いの笑い声や、猫の鳴き声が微かに聞こえてきた。
明日は黎明市。王国中から人々が集まる一大イベント。
そして、リュカにとっては料理人としての真価を問われる日。
「リュカさんのために、頑張らないと……」
春原の胸にはリュカへの強い思いがあった。初めて彼女の料理を口にした時の感動、そして彼女が料理に込める純粋な思いに触れてからの日々。この世界で唯一、彼に居場所を与えてくれた存在だった。
だが同時に、倉庫での恐ろしい光景が脳裏から離れなかった。檻に閉じ込められた子供たち。冷淡なヴェルデの表情。そして「処理」という不吉な言葉。
「グレンデル商会は何を企んでいるんだ……」
春原の思考は暗い方向へと向かい始めた。アシュレイの依頼した調査。グレンデル商会の不審な動きとリュカの店を狙った地上げ。そこに、子供の人身売買まで絡んでいる。南区の闇はあまりにも深かった。
春原は窓ガラスに薄く映し出された自身の姿を見つめた。窓から守れ出す夜の冷気の冷たさが、彼の熱を持った頭を少し冷やしてくれる。
春原は薄明かりの中で「軍人の宴」のレシピが書かれた古い料理帳を手に取る。リュカが貸してくれたものだ。ゆっくりとページをめくると、エルベルトの丁寧な字で記された調理法と、リュカが書き足したメモが交互に現れる。二人の想いが交錯するページに、春原は不思議な感覚を覚えた。
それは、エルベルトとリュカの対話のように感じられたから。
彼は微かに微笑む。チートスキルも魔法の力もない自分だが、リュカの料理を通じて何かを感じ取れた。それだけでも、この異世界に来た意味があったのかもしれない。
すると床から微かな物音が聞こえ、彼は耳を澄ました。
どうやら眠れないのは彼だけではないようだった。リュカもまた、緊張で眠れずにいる。
「自分にできること……」
春原はそっと呟くと、再びベッドに横になった。
窓からの月明かりを浴びながら、彼は明日への準備を心の中で整えていた。
◆◆◆◆◆◆
東の空がわずかに白み始めた頃、春原は既に目を覚ましていた。実際には、ほとんど眠れなかったと言ったほうが正確だろう。ベッドから起き上がり、顔を洗うと、彼は階下へと向かった。
予想通り、厨房からは既に物音が聞こえていた。リュカは夜明け前から準備を始めていたのだ。階段を降りると、彼女の姿が見えた。
小さな獣人の少女は、既に調理服に身を包み、露店用の道具を整理していた。彼女の褐色の獣耳は緊張からか、小刻みに震えている。
「おはよう、リュカさん」
春原の声に、リュカの獣耳がピンと立った。彼女は振り返り、微かに微笑んだ。
「春原さん、早いですね」
「うん、なんだか眠れなくて」
春原は少し照れくさそうに言った。
「私もです」
リュカは静かに答え、再び作業に戻った。彼女の手はいつもどおり正確に動き、道具や食材を丁寧に整理していく。しかし、その動きにはわずかな硬さがあった。明らかに緊張していた。
「何か手伝えることはある?」
「あ、はい。フリネレットの皮を入れる容器を、あと何個か拭いていただけますか?」
リュカは木製の容器を指差した。春原はすぐにそれを手に取り、側の水桶で湿らせた布で丁寧に拭き始めた。二人は沈黙の中で作業を続けた。
朝日の最初の光が窓から差し込み始めた頃、春原は意を決したように口を開いた。
「リュカさん、今日の黎明市、きっと大丈夫だよ」
リュカは手を止め、春原を見上げた。翡翠色の瞳には、不安と期待が入り混じっていた。
「そうでしょうか……」
「うん、絶対に」
春原は力強く頷いた。
「リュカさんの料理きっと多くの人に届くはずだから」
リュカの獣耳がゆっくりと前に向いた。希望の表れだ。
「……今日は王都中から人が集まる。リュカさんの料理を食べれば、きっと誰も気にしなくなるよ」
春原の言葉に、リュカの表情が少し明るくなった。彼女は小さく深呼吸をすると、決意を固めたような表情を見せた。
「はい……後悔しないように、精一杯やります」
彼女の声には、新たな強さが宿っていた。
「うん! 僕も微力ながらリュカさんの料理を、みんなに届けるのを手伝わさせてもらうよ」
春原の瞳には、リュカへの信頼と期待が満ちていた。彼女の料理の才能を、彼は心から信じていた。
「そういえば、実演舞台は何時からだっけ?」
「正午からです。その前に、朝から露店の準備もありますから……」
リュカの言葉に、春原は考え込むような表情を見せた。彼の頭の中には、倉庫での記憶と混ざり合い、グレンデル商会の陰謀への警戒心が強まっていた。露店と実演舞台、どちらかで何かが起きるかもしれない。
二人は再び黙々と準備を続けた。食材を計量し、調味料を小分けにし、必要な道具を整える。やがて東の空が明るくなり、日の出の時間が近づいてきた。
「そろそろ行く時間ですね」
リュカがそう言った時、彼女の声にはもはや迷いはなかった。獣耳は真っすぐ前を向き、瞳には強い決意が宿っていた。
「うん、行こう」
春原も頷いた。彼の心にも、決意が満ちていた。今日一日、どんなことがあっても、リュカと彼女の料理を守り抜く。たとえ自分に特別な力はなくとも、彼にはできることがあるはずだ。
二人は荷物を手に取り、「銀の厨房」の扉を開けた。
朝日が石畳を照らし、 黎明市の朝の始まりを告げていた。




