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第42話:カラスの影(2)

 東区の夜空に浮かぶ月が、石畳の上に青白い光を落としていた。

 黎明市の準備を始めてから数日、「銀の厨房」では毎晩のように料理の試作が続いていた。リュカは様々なレシピを試し、春原もその味見係として奮闘する日々が続いていた。


「あ、これは大変だ……」


 春原は食材棚を確認しながら、小さくつぶやいた。リュカの試作に必要な主要食材が底をついていた。予想以上に準備が長引き、買い出しの頻度も増えていたのだ。


「リュカさん、香辛料がほとんどなくなっているよ。あとキノコと羊肉も足りないみたい」


 厨房からリュカの顔が覗いた。夜遅くまで料理の練習をしていたため、彼女の翡翠色の瞳には疲れが滲んでいた。獣耳も少し力なく下がっている。


「本当ですね……。明日朝一で市場に行かなければ」

「いや、今から買いに行くよ。リュカさんは疲れているし、明日の朝はゆっくり休んで」


 春原は暖かく微笑んだ。市場はすでに閉まっているだろうが、東区には夜市が立つと聞いていた。そこで手に入れば、リュカの負担も減らせる。


「でも、こんな夜遅くに……」

 リュカの獣耳が不安そうに揺れる。


「大丈夫だよ。東区もだいぶ慣れてきたし、アシュレイから頼まれた調査もかねて見て回ってくる」


 春原はそう言って、肩掛けの革袋を手に取った。アシュレイから依頼された「調査」は、正直なところあまり進んでいなかった。店と黎明市の準備に追われ、グレンデル商会についての情報収集どころではなかったのだ。


「あの……気をつけてくださいね」


 リュカの小さな声に、春原は優しく頷いた。彼女の心配そうな表情を見ると、胸が温かくなる。


「すぐ戻るから」

 春原は柔らかく微笑み、夜の東区へと足を踏み出した。


 石畳の通りには、昼間とは違う顔が広がっていた。通りの両側に立ち並ぶ屋台には、赤い灯りが灯り、肉や魚を焼く香ばしい香りが漂っている。人々の笑い声や売り子の呼び込みが、夜の空気に溶け込んでいた。


「この辺りが夜市か……」


 春原はリュカから聞いていた通りに進み、東区の奥にある小さな広場に辿り着いた。そこには確かに市場が広がっていたが、昼間とはまた違った品々が並んでいた。芳醇な香りを放つ酒の樽、昆虫の羽や小動物の骨など、怪しげな商品も見受けられる。


「香辛料なら、あっちの屋台かな」


 春原が向かったのは、様々な色の粉が小さな袋に分けて並べられた屋台だった。売り手は赤茶色の髪をした中年の男性で、客の少ない時間帯なのか、退屈そうに欠伸をしていた。


「いらっしゃい、何をお探しで?」

「タイムとローズマリー、それからセージがあれば」

「ふむ、料理人さんかな?」

「ええ、まあ」


 春原は曖昧に答えた。真相を話すのは面倒だし、リュカの店の手伝いをしている今、間違っているわけでもない。


「タイムとローズマリーは上質なものがあるよ。セージは……ちょっと待ってな」


 男が屋台の奥を探る間、春原はふと視線を感じた。

 振り返ると、人混みの中に見覚えのある女性の姿があった。長い髪に凛々しい顔立ち、腰にはナイフを下げている。


「あれは……」


 ミラだ。春原の財布を盗んだ女。彼女は春原に気づいていないようで、人混みの中を歩いていく。


「お客さん、セージも見つかったよ」

「あ、ありがとう。いくら?」

「三つで銀貨一枚」

「それじゃあ、それで」


 春原は急いで買い物を済ませると、ミラの姿を追った。本来なら黙って見過ごすべきだろう。だが、彼女に騙されたお陰でリュカに出会えたという皮肉に、春原は苦い笑みを浮かべた。


「追いかけてみるか……」


 どうせアシュレイの依頼した「調査」も進んでいない。この機会に南区の情報でも集められれば、多少は役に立つかもしれない。


「ちょっとミラさん!」


 思い切って声をかけると、ミラが振り返った。一瞬、彼女の顔に驚きの色が走ったが、すぐに余裕の笑みに変わる。


「あら、自称異世界人さん。元気そうね」

「金返してよ!」

「あははっ」


 爽やかな笑い声を上げるミラ。その明るさに、周囲の人々の視線が集まった。


「ステキな冗談ね。でも、あなたからお金なんて受け取ってないわ」

「え?冗談じゃなくて……」



——「じゃあね〜〜!」



 軽く手を振り、ミラは人混みの中へと消えていった。


「ちょっと待って!」


 春原は慌てて後を追った。市場を抜け、細い路地へと入っていくミラ。その足取りは速く、時折振り返っては春原を挑発するような笑みを浮かべる。


「ちょ、金返せー!」

「ははは、しつこい男は嫌われるわよー」


 ミラの声が、夜の闇に消えていく。春原は息を切らしながらも追跡を続けた。東区から南区へと続く細い路地は、昼間とは違う顔を見せていた。闇の中から覗く怪しげな目、酒場から漏れる下品な笑い声、そして時折聞こえる争いの声。


「はあぁ、はあぁ、なんなんだ……」


 息を切らして立ち止まった春原の横を、突然ミラが通り過ぎた。


「ははは、もうばてちゃったの? 体力ないのね」


「くっ……」


 茶化すような彼女の声に、春原は歯ぎしりした。だが、腹の底ではどこか楽しんでいる自分もいる。半年間の王宮生活で、こんな「冒険」をしたことはなかった。


 再び走り出した春原は、ミラの姿を追って南区の奥へと進んでいく。路地を曲がるたび、街の雰囲気はより危険さを増していった。青白い魔導灯も少なくなり、代わりに赤く揺れる松明の炎が、不気味な影を作り出している。


 さらに走り人通りの少ない細い路地を曲がると、ミラはもう姿が見えなくなっていた。


「はあぁ、はあぁ……どこ……いった?」


 春原が辺りを見回していると、突然頭上から声が聞こえた。


「あんた、ほんとにしつこいわね」

 見上げると、古い建物の二階の窓枠に、ミラがどうみても危なげな姿勢で座っていた。


「ミラさん! そんな危ないところに……」

「これぐらい大丈夫よ」


 彼女は器用に身体を回転させると、窓枠から離れ、建物の壁を伝って軽やかに地面に降り立った。春原は思わず息を呑んだ。まるで猫のような身のこなしだ。


「あんたさ、いい加減諦めたら? 金はとっくに使っちゃったわよ」

「でも、あれは僕の──」

「そもそも人を信用しすぎなのよ。この街じゃ、知らない人間を信用するなんて自殺行為だわ」


 ミラの言葉には冷たさがあったが、どこか諭すような響きもあった。


「……それでもさ」


 春原の声には強い決意が込められていた。


「あの日……ミラさんに会ってなかったら路地裏で倒れることもなく、リュカさんと出会えてなかったかもしれない。だから、ミラさんに感謝もしてる。でも、盗むのは間違ってる」


 ミラの表情が一瞬だけ揺れた。


「感謝だなんて、変な男ね」


 そう言ってミラは再び走り出した。春原も息を整えて後を追う。

 今度は入り組んだ路地をさらに深く進んでいく。行き止まりかと思われた場所で、ミラは見事な跳躍で壁を乗り越えた。春原も何とか後に続く。


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