第41話:カラスの影(1)
南区の薄暗い路地を、黒い外套に身を包んだ女性が音もなく歩いていた。
月明かりさえも遮るほど濃い闇の中で、その姿はまるで影絵のように輪郭だけを残して存在している。足音を立てない歩き方、周囲の気配を察知する鋭い目配り──それらは長年の経験によって磨き上げられた技術だった。
酒場『黒鴉』の入り口に立つと、ミラはいったん足を止め、深く息を吸い込んだ。外の冷気とは対照的に、扉の向こうからは暖かな光と、酒と煙草と汗の混じり合った濃密な匂いが漏れている。彼女は表情を一瞬だけ整えると、扉を押し開いた。
ミラリア・セルティス──南区では単に「ミラ」と呼ばれる彼女は、静かに酒場の裏口から中に入った。
酒場の内部は、南区の中でも特に怪しげな客たちで溢れていた。商人を装った密輸業者、傭兵崩れの用心棒、そして裏社会の情報屋たち。彼らは互いの素性を詮索せず、事実上の「聖域」として、この場所を利用していた。
ミラは慣れた足取りで奥の個室へと向かった。入り口の用心棒は彼女の姿を認めると、無言で頭を下げた。
個室のドアを開けると、既に三人の男が待ち構えていた。
「遅いぞ、ミラ」
壁際に佇む一人──黒い革の外套に身を包んだ男の低い声が室内に響く。
彼は「カラスの巣」の幹部、コルヴァンだった。彼は南区の闇を牛耳る組織の中でも、特に冷酷さで知られる存在だ。鷹のような鋭い目つきと、無表情な顔は、多くの南区の住人を震え上がらせてきた。
そして真ん中に座る中年の男──徴税吏グレイヴスは、彼女を見るなり薄笑いを浮かべた。窓からの明かりに照らされた彼の顔は、陰影が強調され、より狡猾な印象を与えていた。
グレイヴスの隣には、濃紺の上着に身を包み、口髭を丁寧に整えた商人のような男が立っていた。
「下調べに手間取ったわ」
ミラは軽く会釈すると、三人の向かいの椅子に腰掛けた。金属製のグラスに注がれた濃い赤の酒が、彼女の前に置かれている。アルミアン・ワイン──高級品だ。普段なら喜んで口にするところだが、今夜は頭をクリアに保ちたかった。
「報告を聞こうか」
グレイヴスが前のめりになって尋ねた。彼の目は貪欲な光を帯びている。
「獣人の店『銀の厨房』の調査だけど、『王都黎明市』へ出店するみたい」
彼女の言葉にグレイヴスと商人風の男が顔を見合わせた。
「確かか?」
カラスの巣の幹部、コルヴァンが冷たく尋ねた。
「確かよ。さっきその準備をしてるの見てきたもの」
「あとそれだけじゃない。どうやら、王宮の人間が居候してるみたい」
「何!?」
グレイヴスの声が一オクターブ上がった。ヴェルデも明らかに動揺を隠せない様子で、整えられた口髭をいじり始めた。唯一、カラスの巣の幹部であるコルヴァンだけは、表情を変えなかった。
「王宮の人間だと? まさか腑抜けた平和面の男か?」
グレイヴスの目が据わった。明らかに平常心を失っている。
「詳しくは分からないけど、先日あなたが徴税に行った時に邪魔した男みたいね」
ミラは冷静に答えた。
「金貨を出して獣人の店を助けた男。彼が今、居候しているみたい」
「あの男が!」
グレイヴスの声には明らかな怒りが含まれていた。
「王宮からの人間がいる店となると、単純な"事故"や"騒動"を起こすわけにはいかなくなる。王宮の目が届くようになれば、我々の動きづらい」
コルヴァンの静かな説明に、グレイヴスは顔をしかめた。
「全くその通りだ。王宮の人間が居候しているとなると我々も手出しができん」
「しかし、グレンデル商会としては、この計画を中止するわけにはいきません。あの場所は我々の再開発計画の最後の一角です。獣人の店などさっさと潰れてくれればいいものを……」
ヴェルデの言葉には、露骨な欲望が滲み出ていた。彼の優雅な物腰の下に潜む冷酷さが、その発言から透けて見えた。
ミラは静かに頷いた。これで全体像が見えてきた。あの自称異世界人が「銀の厨房」で居候する理由も、グレイヴスたちが彼を敵視する理由も。彼女の頭の中で、複雑なピースが徐々に組み合わさっていく。徴税を妨害した男はおそらく自称異世界人の男だろう。彼が居候しているのも、私が彼の金を巻き上げたからにちがいない。皮肉な偶然だ。
「重要なのは今後だ」
コルヴァンが口を開いた。
「銀の厨房が黎明市に出るのであれば、それを利用すればいい」
「具体的にはどうすれば?」
「それなら、いい方法があるわ……直接手も下さず消えてくれる方法が」
ミラはゆっくりと口を開いた。彼女の目に、計算高い光が宿る。
「国中の人が集まる黎明市で信用を無くせば、獣人の店はおのずと客を失うでしょう。特に、『食中毒事件』など起これば……ましてや、下町の小さな食堂となると途端、立ち行かなくでしょう」
「食中毒...…?」
ヴェルデが目を細めた。
「実際に毒を盛るつもりか? それは危険すぎる。死者が出れば、王国警備隊の捜査が入る」
「実際に毒を使うわけじゃないわ。露店でリュカの料理を食べる客に、演技をしてもらうの。食べた後で苦しむ演技をしてね。『獣人の料理は危険だ』という噂が広がれば、あの店は終わり」
「嘘だとばれる可能性は?」
「心配無用よ」
ミラは冷たく笑った。
「演技は本物の中毒症状と区別がつかないものにする。あるものを使えばそれができる」
彼女は小さな紙包みを取り出した。
「これは『幻惑の粉』。南方から密輸される魔素を含む香辛料。エルフやドワーフが口にしても何も問題ないけど、魔素耐性がない人が接種すれば少量で発熱や一時的な幻覚を引き起こす。命に別状はないけど、中毒症状にそっくり。これを使えば、王宮の医術師でも見分けるのは難しいわ」
ミラの言葉を、三人の男たちが黙って聞いていた。彼らの表情には、邪悪な期待と満足が浮かんでいる。
「なるほど、それはいい」
グレイヴスが頷いた。
「王国の祭事での不祥事は、噂が広がりやすい。獣人の店が食中毒を出したとなれば、誰も近づかなくなるだろう」
「そして自然と客足が途絶え...…」
ヴェルデが言葉を続けた。
「店を手放さざるを得なくなる」
グレイヴスが即答した。彼の目は欲望に燃えていた。
おそらく、あの区画の土地を手に入れれば、莫大な利益が約束されているのだろう。
「ただし」
コルヴァンが冷たい声を添えた。
「失敗は許さんぞ、ミラ。今回は重要な”お客様”の依頼だ」
そう言ってグレンデル商人の男に視線を映す。
「ふっ……わかってるわよ」
ミラはそう答えながら、微かに笑みを浮かべた。その笑みの裏に潜む真意は、部屋の誰にも読み取れないものだった。
会議が終わり、三人が去った後、ミラは一人、酒場に残っていた。
彼女は窓から見える月を見上げながら、自分の行動を再考していた。顔には何を考えているのか読み取れない表情が浮かんでいた。
赤い酒を一気に喉に流し込み、ミラは立ち上がった。彼女の影が、壁にゆらめく炎の明かりによって、不吉な形に伸びている。
南区の夜は、まだ始まったばかりだった。そして、闇の中で織りなされる策謀は、これからさらに複雑に絡み合っていく。




