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第3話:王宮への奉公(3)

2025/05/18:改行の調整

 王宮の内側は、リュカの想像をはるかに超える規模だった。


 大理石の床が朝日に輝き、その上を歩く足音が高い天井に反響する。壁には歴代の王や英雄たちを描いた美しい絵画が飾られ、金糸で織られた華麗なタペストリーが廊下を彩っていた。空気そのものが権威と歴史の重みを帯び、微かな魔力の残滓が澄んだ光となって舞っている。リュカは息を呑み、あまりの壮麗さに一瞬たじろいだ。


 リュカは案内役の給仕に従って廊下を進む。頭巾を再び被ることは許されなかった。露わになった獣耳が、通りすがる貴族や従者たちの視線を集めていることを、彼女は痛いほど感じていた。好奇の視線、軽蔑の目、稀に驚きの表情──すべてが彼女の存在の異質さを際立たせていた。


 しばらく歩いていると廊下の華麗さから一転、給仕が彼女を導いた先は、石造りの簡素な通路だった。床は磨り減った木板で、壁には湿気によるしみが広がっている。次第に空気の香りが変わった。高貴な香木の薫りが消え、かわりに様々な食材の匂いが混ざり合う、生々しい空気が彼女を包み込んだ。


 リュカの鼻孔が広がり、獣耳が自然と前傾する。油と塩、スパイスの複雑な香り、生の肉と新鮮な野菜、発酵した香り、甘い匂い──幾重にも重なる匂いの層が、彼女の感覚を刺激した。


 ここが王宮の心臓部、巨大厨房への入り口だと理解するのに、説明など不要だった。


「ここが裏口だ、中に入ったら右手の扉。副厨房長のエドガーが待っている。遅れるなよ」


 案内役の給仕は、まるで彼女に親切にするのが面倒くさいとでも言うように、面倒そうにドアを指差し、踵を返して去っていった。


 リュカは一瞬たじろぎ、それから意を決して重い木の扉を押し開けた。

 ドアを開けた瞬間、リュカは息を呑んだ。 圧倒的な音と匂いと熱気が彼女を迎える。


 王宮の厨房は、彼女の想像をはるかに超える巨大さだった。天井は高く、その頂には魔導照明が幾筋もの光を投げかけている。何十もの調理台が整然と並び、そこでは白い制服に身を包んだ料理人たちが黙々と作業を続けていた。


 包丁の音、鍋の音、給仕の声、蒸気の音──すべてが一つの巨大な交響曲のように耳に押し寄せてくる。 壁沿いには巨大な魔導炉が並び、青白い魔力の炎が静かに燃えていた。通常の炎の赤や橙とは違い、魔素が燃焼する際特有の青白い輝きは、「恒温炉」と呼ばれる王国の最新鋭魔導具の証だった。一般の店ではまず見られない高級品だ。


 リュカが獣耳を震わせながら立ち尽くしていると、突然、横から声がかけられた。


「お前が新しい奉公人か?」


 振り向くと、そこには体格のいい男性が立っていた。太い眉の下から鋭い目が彼女を評価するように見下ろしている。首に巻かれたネッカチーフには、鮮やかな赤いステッチが施され、その腕には二本の金線が刺繍されていた。副厨房長の証だ。


「は、はい。リュカと申します。一ヶ月の奉公でお世話になります」


  リュカは深く頭を下げた。その際、獣耳が前に倒れるのを抑えることができず、恥ずかしさで頬が熱くなった。


「エドガーだ。この副厨房を任されている」


 男は彼女の証書をもう一度確認すると、眉をひそめた。


「調理師一級か……珍しいな、獣人で」


 彼の声には驚きは含まれていたが、明らかな嫌悪は感じられなかった。むしろ、純粋な驚きと、わずかな懐疑が混ざっているようだった。


「あ、ありがとうございます」


 リュカは小さく答えた。実際には褒められたわけではなかったが、敵意のない言葉に感謝せずにはいられなかった。

 エドガーは彼女をじっと見つめた後、ため息をついた。


「今のところ、副厨房の野菜下ごしらえ係としての仕事だ。証書は本物だが、実力を見せてもらわないと何も言えん」


 彼はリュカを促して厨房の奥へと歩き始めた。通路を進むにつれ、リュカは周囲の料理人たちの視線を感じた。驚きと好奇心、そして明らかな軽蔑。だが彼らは仕事の手を止めることはなく、目で追うだけだった。

 

「ここが副厨房だ。今日からお前にはここで調理補佐をやってもらう」


  エドガーが示したのは、主厨房よりもやや小さいが、それでも「銀の厨房」の数倍はある空間だった。天井からは同じく魔導照明が吊るされ、整然と調理台が並んでいる。しかし、ここには主厨房のような荘厳さはなく、より実用的な雰囲気があった。

 

「主厨房では王や高官への料理が供される。ここの副厨房では、王宮内の従者や中級役人たちのための食事を作る場所だ。獣人だからといって特別扱いはしない。できなければ去ってもらう。それだけだ」


「はい、一ヶ月間よろしくお願いします……」


  リュカの心の中では奇妙な感情が渦巻いていた。「獣人だから」特別扱いしないという言葉は、裏を返せば、実力次第では正当に扱われるという意味でもある。彼女はそれだけで十分だった。


「まずは朝食準備のための野菜の下ごしらえからだ。あそこの台に行け、作業については他の調理補佐から聞くように」


  エドガーが指し示したのは、厨房の隅にある小さな調理台だった。

 そこには既に何人かの見習いらしき若者たちが黙々と作業していた。リュカは小さく会釈すると、その方向へ歩み始めた。 調理台に近づくにつれ、リュカは自然と背筋を伸ばした。


 これは料理の場所だ。この瞬間だけは、彼女は獣人ではなく、一人の料理人だった。


「新人か。獣人を寄越してくるなんて、外の連中は何考えてんだ」


 調理台の前に立っていた若い男が、リュカの獣耳を見て顔をしかめた。エドガーとは違い、まだ十代後半ほどの見習いだ。


「はぁ……このカブを二百個、すべて繊維に沿って切れ。太さは指一本分だ」


 彼は乱暴に包丁を彼女に押しつけ、大きな籠を指し示す。そこには山のようなカブが積まれていた。二百個など、到底朝食までに終わるはずのない量だ。それは明らかな嫌がらせだった。 周囲から小さな笑い声が漏れた。若い男は、何も言わずに包丁をリュカの前に差し出した。


  その包丁を手に取った瞬間、リュカの内側で何かが変わった。 「銀の厨房」で毎日包丁を握っていた彼女の手は、この瞬間だけは震えなかった。むしろ、見慣れない調理場の中で、包丁だけが唯一の友達のように感じられる。


 彼女はゆっくりと包丁を持ち直し、まず刃の状態を確認した。

 若者が与えた包丁は、ずっしりとした重量感のある鋼製の包丁。刃は確かに鋭いが、微妙に研ぎ方が均一でなく、切れ味にむらがある。リュカはそれを指先で感じ取った。


 そしてカブをひとつ手に取り、まず状態を確認する。繊維の走り方、水分量、硬さ──それらをすべて、獣人特有の鋭敏な感覚で瞬時に把握した。



 彼女は静かに目を閉じ、一瞬だけ深く呼吸した。



 次の瞬間、リュカの手が動き始めた。 繊維に沿ってカブを二つに割り、丁寧に芯を取り除く。

 その動きは無駄がなく、リズミカルで美しかった。包丁は彼女の手の延長となり、まるで踊るようにまな板の上を滑っていった。


 切り落とされたカブは指一本の太さで、その長さはすべて均一。 一つ、二つ、三つ──リュカの手はどんどん速くなっていった。だが、決して粗雑にはならない。むしろ、刃の運びはより精密に、より優美になっていった。包丁がカブを切る音は、リズミカルなメロディのようになり、やがて厨房のざわめきの中に溶け込んでいった。


 気づけば周囲が静かになっていた。


 見習いたちが作業の手を止め、彼女の包丁さばきを見つめている。リュカはそれに気づきながらも、手を止めることはなかった。彼女の獣耳は集中のあまり前傾し、まるで包丁の音だけを捉えようとするかのように微動する。


 作業を進めるリュカの元に、エドガーが静かに近づいてきた。彼は何も言わず、リュカの作業を見守っていた。


「新入り」


 エドガーの声に、リュカは手を止めずに視線だけを上げた。


「その腕前なら、朝食前には終わるだろう。終わったら厨房の裏にある肉部屋の掃除をやってもらう」


 リュカの耳が微かに震えた。肉部屋──生臭い匂いの立ち込める、血のこびりついた部屋の掃除。厨房で最も嫌がられる仕事の一つだ。彼女の包丁さばきを見ていたはずなのに、与えられるのは雑用。それが現実だった。


「はい」


  リュカは小さく頷き、再び食材と向き合った。彼女の手の速度が少し落ちる。周囲の視線も、すでに別の作業へと戻っていた。一瞬の驚きは、彼らの日常を変えるものではなかった。


 ただ一人、隣の調理台で働いていた年配の料理人だけが、まだ時折リュカの方を見ていた。細い目をした、白髪の混じった小柄な男性。彼の視線には軽蔑ではなく、何か別のものが宿っていた。


 リュカは黙々と作業を続けた。手首が痛み始めても、リズムを崩さない。一つ、また一つとカブが切られていく。獣人の体力と集中力が、今は彼女の味方だった。恒温炉の熱気が厨房を満たし、額から汗が流れ始める。彼女は頭を下げたまま、耳だけで周囲の動きを把握していた。


「あの新入りの獣人、使えそうだな」

「ずいぶん早いが、どうだ?」

「どうせ雑に切っているんだろう」


 厨房の喧騒の中で、断片的な言葉が彼女の鋭敏な耳に届く。リュカは無視を決め込み、手を動かし続けた。 予想より早く、籠のカブはすべて切り終えた。


 リュカは汗を拭いながら、静かに周囲を見回した。

 エドガーの姿はなく、見習いたちも別の仕事に取り掛かっている。彼女は切り終えたカブを大きな鍋に移し、水に浸した。


「ずいぶんと早いじゃないか。それに、見事な下処理だったよ」


  振り向くと、先ほどの年配の料理人が立っていた。近くで見ると、彼の制服には主厨房を示す銀のラインが入っている。主厨房からの視察だったのか。リュカは緊張して背筋を伸ばした。


「少し見せてもらっても構わないかな?」


  男は切り終わったカブの一片を手に取り、目を細めて観察した。彼の指は長年の料理で硬くなり、至る所に小さな火傷の跡がある。職人の手だった。


「ほぉ……なるほど、ちゃんと繊維を見極めて、包丁を振るっているね。素晴らしい技術だ」


  リュカは黙って頷いた。彼女の切り方は一般的な方法と少し違っていた。カブの繊維が交差する部分を見極め、最も柔らかく煮上がる角度で切る──養父から教わった技だ。

 

「これほどの技量を持つ料理人が肉部屋の掃除だと? もったいないな。エドガーもわからんやつだ」


 男は笑みを浮かべながら、リュカへの賛辞を送る言葉を述べた。

  リュカは困惑した。この男は彼女に何を望んでいるのか。獣人に対する偏見のない人間はほとんどいない。だが、この男の目には純粋な料理人としての評価しか見えなかった。



「い、いえ。私は……任せられた仕事がありますので」


 リュカは小さく答えた。どんな厳しい仕事であっても、文句を言うつもりはなかった。それが彼女の立場だった。


「そうか。まあ、約束は約束だ。……だが今度、時間があったら私の調理を見に来るといい。主厨房の料理長を任せられている、ヨハンだ。覚えておくように」


 『主厨房の料理長』という言葉にリュカは、思わず目を見開いた。王や高官の食事を担う王宮厨房の頂点。その料理長ともなれば、王国でも指折りの料理人のはずだ。そのような高位の方が、獣人の自分にこれほど親切に接してくださるなど、想像もしていなかった。


「……はい、ヨハン様。ありがとうございます」


 その日から、リュカの王宮奉公は本格的に始まった。


 肉部屋の掃除は想像以上の重労働だった。牛や豚、鹿、鳥の血が染み込んだ石の床を磨き、傷んだ木製の台を洗い、錆びかけた肉用のフックを磨く。作業を終えた頃には、彼女の全身から疲労が溢れていた。


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