第37話:再開する銀の厨房(2)
「給仕?」
「はい。私が厨房で調理をする間、春原さんにはお客様への配膳や注文を聞いていただきたいのです」
春原はパンを飲み込みながら頷いた。
「もちろん! 喜んで手伝わせてもらうよ」
リュカの獣耳が微かに前に傾き、彼女の瞳に安堵の色が浮かんだ。
「……ところで、リュカさんは調理師の資格を持ってるんだよね?」
春原は王宮の書庫で読んだ知識を思い出しながら尋ねた。
「はい。一応、一級調理師の資格を持っています」
「一級? それって……」
「王都でお店を持つために必要とされる料理人の資格です……。王都の外でお店を持つ場合は、そこまで厳格ではないようですが」
リュカは少し恥ずかしそうに答えた。
「王国では調理師の資格が二段階あるんです。二級調理師、一級調理師と。王都で厨房に立つには資格が必要でしたので、養父の勧めで資格試験を受けました」
春原は感嘆の声を漏らした。彼が王宮の書庫で読んだ『オルステリア食文化史』によれば、一級調理師は高度な技術と知識が求められる最上級の資格だった。それを獣人であるリュカが持っているということは、相当な実力者ということだ。
「養父が亡くなる前に二級資格は取得していたのですが、お店を引き継ぐには一級が必要だったので……」
リュカは少し俯きながら言葉を続けた。彼女の獣耳が少し後ろに傾いている。そこには養父の思い出と、彼の店を守るという決意が感じられた。
「でも、もし僕が給仕をするなら、何か資格が必要なんじゃない?」
リュカは首を横に振った。
「いえ。給仕に資格は必要ありません。ただ……」
彼女は少し躊躇った後、続けた。
「衛生管理や接客の基本は覚えておいてほしいです。お客様の健康を守るためにも」
春原は素直に頷いた。
リュカが小さな革手帳を取り出すと、そこには丁寧な字で接客の仕方やメニューについて書かれていた。基本的な食事の提供方法や、客への応対についての説明が始まった。
幸いにも、彼は以前の世界でアルバイトとしてレストランのホール担当をしていた経験があった。テーブルへの案内の仕方、注文の取り方、料理の運び方—基本的なことはほとんど変わらないようだった。
「朝方は『朝の厨房盛り合わせ』『卵とキノコのオープンサンド』『季節の果物と蜂蜜のヨーグルト添え』の三種類です」
リュカはメニューを指さしながら説明した。
「昼は『日替わりの一皿』『狩人風シチュー』『彩り野菜のテリーヌ』、そして夜はこれらに加えて特別コースの『銀の食卓』があります」
春原はメニューを見て少し驚いた。彼が思っていたよりも洗練されたメニュー構成だった。特に興味を引いたのは「銀の食卓」というコース料理だった。
「コース料理の『銀の食卓』は季節と仕入れによって変わるのですが、基本的には養父の得意だった料理を少しアレンジしたものです。前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザートの五品で構成しています」
リュカの声にはわずかな誇りが混じっていた。養父の遺した調理法を守りながらも、自分なりの工夫を加えた料理への自信が感じられる。
春原は頷きながら、真剣にリュカの言葉に耳を傾けた。
「あと、お店を閉めた後には黎明市の準備も始めなければいけません……。出店する露店の料理のレシピを考えたいので、閉店後また試食をお願いできますか?」
「もちろん! 喜んで」
春原の屈託のない答えに、リュカの顔がわずかに緩んだ。彼女の尻尾が嬉しそうに揺れる。
「店の準備をしましょうか」
リュカが言い、二人は朝食を終えると店の開店準備に取り掛かった。リュカは厨房の調理器具を手早く整え、春原はテーブルを拭き、床を掃いた。
「調理服に着替えてきます」
リュカが言うと、彼女は何気なく厨房の片隅で上着のボタンに手をかけた。
一つ、二つとボタンを外していく。いつも一人だった彼女にとって、これは何の変哲もない日課だった。
「あ、えっと...…」
春原が慌てて顔を背けた。
「僕は、外の掃除もしてくるよ」
リュカは動きを止め、獣耳が驚きで立ち上がった。彼女の頬が一瞬で赤く染まる。今まで一人で店を切り盛りしていたため、誰かの目があることを完全に忘れていた。
「す、すみません...…」
彼女は小さな声で謝り、急いで奥の小部屋へと向かった。
数分後、リュカは厨房に戻ってきた。清潔な白い上着を身につけ、獣耳を覆うための特別な帽子をかぶり、尻尾も覆い隠すための布を腰に巻きつけていた。調理中に毛が料理に混入するのを防ぐためだ。
二人とも先ほどの出来事には触れないようにしていたが、空気には微かな緊張感が漂っていた。
「こ、これをお願いします」
リュカは春原に黒い給仕用エプロンを手渡した。それは彼女のものより少し大きく、おそらく養父のものだったのだろう。春原はそれを身につけながら、なぜか胸が熱くなるのを感じた。
春原はエプロンを身につけ、その結び目を何度か調整した。少し長すぎるようだった。
「ちょっと大きいかも……不恰好じゃない?」
彼は照れくさそうに笑った。
リュカはしばらく春原の姿を見つめ、わずかに首を傾げた。
「似合っていますよ」
リュカが小さく微笑んだ。彼女が笑顔を見せるのは珍しかった。春原はそれに気づき、自分も思わず笑顔で応えた。
そして、店の片隅に掛けられた古い時計が十の鐘の音を鳴らす。
「よし……、開店だね」
春原がそう言うと、リュカは小さく頷き、店の扉を開けた。彼は店の前に「営業中」と書かれた小さな看板を出した。朝の光が店内に流れ込み、新しい一日の始まりを告げていた。
厨房から漂う料理の香りが、東区の通りへと溢れ出す。リュカは開店の札を掲げ、深呼吸をした。彼女の獣耳が周囲の気配を感じ取り、鼻が朝の空気を嗅ぎ分ける。
春原は店内に立ち、窓の外の景色を眺めた。東区の朝の風景は、王宮からは見えなかった世界だった。石畳を歩く人々、仕事へと急ぐ職人たち、遊ぶ子供たち──そこには確かな生活の鼓動があった。
この小さな店で、この小さな獣人の少女と共に、彼は自分の居場所を見つけ始めていた。これから始まる料理の準備、そして黎明市への挑戦。すべてが新しい冒険の始まりを告げていた。
春原は東区の景色を見つめながら、小さく微笑んだ。




