第32話:揺れる心、見つける場所(5)
王立魔導研究所の廊下をアシュレイの使用人に案内されながら、春原は自分の足音が不自然に大きく響くような気がしていた。半年近く「役立たず異世界人」として扱われてきた場所に、自ら戻ってくるなんて。彼は苦い自嘲と共に笑みを浮かべた。
「王宮を出るときは気分爽快だったのになぁ……」
壁に飾られた歴代研究所長の肖像画が、まるで彼を批判するように見つめている気がした。「またお前か」「何も学んでいないな」「期待はしていない」という無言の視線が、春原の背中に突き刺さるようだ。
「いやいや、気のせいだ……肖像画が喋るわけない。この世界は魔法があるけど、そこまで怖い魔法はないはず……」
彼はブツブツと呟きながら歩みを進めた。
アシュレイの研究室の前で立ち止まり、春原は深呼吸した。思えば、この部屋で彼はどれだけの時間を過ごしただろう。
「異世界の科学を説明せよ」
「電気とは何か細部まで説明せよ」
「"スマートフォン"なるものの動作原理を今すぐ教えろ」
──そんな質問の嵐に、彼は答えられる限りのことを話してきた。しかし、工学の専門知識のない大学生の説明に、アシュレイの不満そうな表情は日に日に濃くなっていった。
「よし、気合いだ……」
アシュレイは悪い人ではないと心に言い聞かせる春原。恐る恐るドアをノックする。まるで怒り熊の洞窟を叩くような緊張感があった。
「入れ」
中から聞こえてきた声は、冷ややかで鋭かった。春原は一瞬だけひるんだが、選択肢もなく、ドアを開けた。
アシュレイは机の前に座り、何やら記録をとっていた。
彼の姿を見て、春原は妙な安心感を覚えた。少なくとも、この半年で変わっていないものが一つあった──アシュレイの仕事への没頭ぶりだ。
「あの……アシュレイ」
アシュレイが顔を上げると、その表情には明らかな驚きが浮かんでいた。それが一瞬で「またか」という呆れた表情に変わるのを、春原は見逃さなかった。
春原は気まずさを紛らわすように頭をかきながら、昨日からの出来事を話し始めた。東区での食べ歩き、ミラとの出会い、そして酔って財布を盗まれるという情けない顛末。話しながら、彼はアシュレイの表情が「やはり」から「そうだろうな」を経て「何を期待したのか」へと変化していくのを感じていた。
しかし──「そして徴税吏とグレンデル商会という者が現れて……」という言葉を口にした瞬間、アシュレイの表情が一変した。まるでスイッチが入ったかのように、彼の目が鋭く光り始めた。
「待て」
アシュレイは身を乗り出した。椅子が軋む音が研究室に響き渡る。
「今、グレンデル商会と言ったか?」
春原は驚いた。半年間、彼が何を話しても退屈そうな顔をしていたアシュレイが、突然食いつくように関心を示した。まるで眠っていた猫が鼠を見つけたように、その全身から緊張感が放たれている。
「うん、確かグレンデル商会だったかな。徴税吏と一緒に来ていた商人がそう名乗っていたはず」
春原の言葉に、アシュレイはすぐさま立ち上がり、書類棚から分厚い帳簿を取り出した。その動きには、いつもの冷静さとは違う焦りのようなものが見て取れた。
「詳しく話せ」
そこで春原は、リュカの店で目撃した出来事を細かく説明した。徴税吏グレイヴスの横暴な態度、グレンデル商会のヴェルデという男、そして獣人の少女リュカの窮地。
アシュレイの目は次第に輝きを増していった。彼はページをめくりながら、熱っぽく説明を始めた。
「グレンデル商会……ここ数ヶ月、王都での不自然な取引が目立つ商会だ。表向きは輸入業と不動産業を営んでいるが、その資金の流れが不透明なんだ」
春原はアシュレイの説明を聞きながら、少し拍子抜けした。彼がこんなに興奮して話すのを見るのは初めてだった。いつもは「それでは不十分だ」「もっと詳しく」「何も分かっていないな」と言われることが多かった。
アシュレイは帳簿の複雑な図表を指しながら、声を潜めた。
「獣人や貧困層の住む地域を狙い撃ちにしている。合法的な手段とは言い難い方法で立ち退きを迫っているという情報もある」
彼の言葉に、春原は心が痛んだ。リュカのような弱い立場の人々が、組織的に追い込まれているという事実。それは単なる偶然の出来事ではなかったのだ。
「……春原、お前に正式な任務を与えよう」
アシュレイの言葉に、春原は思わず「え?」と声を上げた。
「任務?」
春原の声には期待と疑いが入り混じっていた。これはもしかして、自分の存在価値を証明するチャンスなのだろうか。異世界に来て以来、何の役にも立てずにいた彼にとって、それは大きな意味を持つことだった。
「文化観察官としての、な。表向きは社会調査だ。人々の生活、習慣、そして商業活動の実態を調べてもらう」
アシュレイの声には、珍しく熱が入っていた。
「特に、グレンデル商会の動きについて、詳しく調査してほしい。彼らの不審な活動の証拠を掴むまで、帰ってくる必要はない」
春原の胸に小さな希望が灯った。もしかしたら、彼にも何かできることがあるのかもしれない。しかし、すぐに現実的な問題が浮かんだ。
「でも、お金が……」
春原は期待を込めて尋ねた。食事も宿も確保できない状態で、どうやって調査を進めればいいのだろう。
「やらん。昨日渡した金を盗まれたのはお前の不注意だ。自分で何とかしろ」
アシュレイはキッパリと言い切った。その一言で、春原の期待は木っ端微塵になった。
なるほど、これが「アシュレイ流エンパワーメント」というやつか……と春原は内心で苦笑した。彼には相変わらず無理難題を押し付けて、後は知らぬ顔というスタイルは変わっていなかった。
春原の肩は落ち、深いため息が漏れた。ここでもう一度お金をねだっても無駄なことは分かっていた。アシュレイの決断が覆ることはない。
「わかったよ。……また何か見つけたら報告する」
春原は諦めの表情で言った。これが彼に与えられた「任務」──お金も支援もなく、ただ街をさまよいながら怪しい商会の調査をせよというものだった。まるでどこかの勇者が「竜王を倒して来い」と命じられるようなものだ。違うのは、勇者には剣と鎧とお金があったという点だけで。
「行け。そして、何か掴んだら報告しろ」
アシュレイは手を振って、春原を追い出すような仕草をした。静かな研究を邪魔されたことへの苛立ちと、グレンデル商会への興味という相反する感情が、彼の表情に混在していた。
春原はうなだれながら研究室を後にした。廊下の肖像画たちが「だから言っただろう」と囁いているような気がした。
王宮の廊下を歩きながら、春原は自分の状況を整理していた。
お金はない。宿はない。食べ物もない。けれど、彼はまた東区へ戻るしかない。そこには、彼に温かい料理を振る舞ってくれた獣人の少女がいる。
「みじめだな...」
春原は自嘲気味に笑いながら、王宮の大きな扉へと向かった。広がる青空の下、彼の冒険は思いがけない形で始まろうとしていた。




