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第30話:揺れる心、見つける場所(3)

 木漏れ日が「銀の厨房」の窓からテーブルに差し込み、三人の表情を照らし出した。ヨハンの予想外の提案に、リュカが驚きで微かに震えた。


王都黎明市(おうとれいめいいち)……ですか?」


 リュカの声は細く震えていた。翡翠色の瞳には不安と戸惑いが浮かんでいる。

 ヨハンはゆっくりと頷いた。


「今年の黎明市の料理部門の運営を任されているんだ。例年と違い、今回は特別に料理実演の舞台も設けられることになった。オルステリアの料理文化を広める試みだ」


 春原は王宮の書庫で読んだ本を思い出していた。『オルステリア食文化史』によれば、王都黎明市は単なる市場ではなく、王国の食文化を祝福する年に一度の一大イベントだった。各地の名産品が集まり、王都外からも多くの人々が足を運ぶ。戦後の和解の象徴として、国王自らが開催を命じた歴史的な行事でもあった。


「王宮の料理人だけでなく、中央区の城下町からも一流の料理人たちも参加する。彼らが集う場で腕を振るうことができるのは、料理人にとって最高の栄誉だ。腕に自信のある者たちが集まる場になるだろう……その場に、是非出てもらいたくてな」


 ヨハンの言葉に、リュカの目が一瞬だけ輝く。彼女も王都黎明市の重要性を理解していた。王宮の料理人が腕を振るう場で、実演舞台に立ち、自分の料理を披露するということ。その意味の重さが、彼女の小さな肩にのしかかるようだった。リュカの獣耳が驚きと緊張で前後に揺れる。


「それに、この誘いはエドガー副厨房長からの推薦なのだ。もちろん私もエドガーと同意見だ」


 ヨハンの言葉に、リュカの獣耳がピクリと反応した。

「エドガー様が……?」


「ああ。あの頑固者が推薦するなんて珍しいことだ。『あの獣人の包丁さばきと火加減の調整は見事だ』と言っていた。特に最後に作った料理の時の集中力と手際の良さは、主厨房でも通用すると」


 ヨハンは微笑みながら春原の方をちらりと見た。


「そして、君の料理を食べた客人も絶賛していたようだな」


 春原は頬が熱くなるのを感じた。自分が「絶賛した客人」だと言われているのは明らかだった。彼は恥ずかしさを紛らわすように咳払いをした。


「実演料理舞台での披露だけでなく、黎明市の露店では一般の民衆に直接リュカ君の料理を届けることができる。これは自身の料理の味わいを、より多くの人々に体験してもらえる貴重な機会でもある」


 ヨハンは真剣な表情で続けた。

 リュカは俯き、小さく震える手を膝の上で握りしめた。


「そこまで評価していただいたのに申し訳ありません。……王宮の話も含めて二つとも、お断りさせてください」


 彼女の声は小さく、しかし断固としていた。


「人前に……立つなんて。ましてや大勢の前で料理なんて……」


 翡翠色の瞳に怯えの色が浮かび、獣耳が完全に倒れた。それは単なる恐怖ではなく、深い傷の痕のようだった。人間たちの冷たい視線。「獣が作った料理など食えるか」という侮蔑の言葉。数々の辛い経験が彼女の心に刻まれているのだろう。


 春原は彼女の表情から、その恐怖を汲み取ることができた。肌身で感じてきた差別と偏見。それは簡単に乗り越えられるものではない。

 春原は躊躇った。彼女の料理は確かに評価されるべきだと思うものの、自分のような異世界から来たばかりの者が口を挟んでいいものだろうか。

 しかしそれでも、リュカの才能と料理が多くの人に届いてほしいという思いが(まさ)った。


「リュカさん」


 春原は静かに、しかし確かな声で彼女の名を呼んだ。


「料理って、味わう人と作る人を繋ぐものだと思うんだ」

 リュカの獣耳がわずかに彼の方向へ向いた。


「僕はリュカさんの料理を初めて食べて、心を動かされた。料理人の姿は見えなくても、その思いは確かに伝わってきた」


 彼の声には真摯さが滲んでいた。思い返せば、彼はリュカに会う前から、彼女の料理に魅了されていたのだ。獣人の少女ではなく、彼女の料理そのものに。


「黎明市なら、その素晴らしい味わいをもっと多くの人に届けられる。それだけじゃなく、リュカさんの料理への真摯な姿勢も一緒に伝えられる。これは、リュカさんの料理が認められる機会なんじゃない……かな」


 春原は真っ直ぐにリュカを見つめ、言葉を選びながら続けた。


「僕は異国から来た。この王国では部外者だ。でも、その壁を越えて僕たちは今、こうして話ができている」


 リュカは考えるように俯いた。彼女の瞳には迷いの色が揺れていた。頭の中では相反する思いが激しくぶつかり合っている。「多くの人に料理を届けたい」という料理人としての願いと、「また傷つくかもしれない」というか恐怖が。何度も向けられた冷たい視線、投げかけられた侮蔑の言葉。


 「獣人が作った料理など食えるか」という言葉の刃が、今も彼女の心に傷を残している。せっかく静かに生きられるようになったのに、わざわざ自分から傷つきに行くことになるのではないか。


 それでも、春原が食べた時の表情が頭から離れなかった。あの純粋な感動、理由もなく流れた涙。それが偽りではなかったことを、彼女の獣人としての感覚が確かに捉えていた。もし、他の誰かにも同じように届けられるなら──。


 リュカの小さな体が、期待と不安の間で揺れていた。


 ヨハンは春原の言葉に頷き、話に加わった。


「それにエドガーも、君の技術なら必ず成功すると太鼓判を押していた」


 懐から小さな革袋を取り出し、テーブルに置いた。金属が触れ合う軽い音が店内に響く。


「実演料理の舞台に参加してくれるなら、露店の出店料も含め、こちらで負担しよう。準備金も用意されている」


 ヨハンは巾着を少し前に押し出し、それから春原の方を見た。


「それに、一人で露店を回すのも大変だろう。そういう意味でも、手伝ってくれる人がいると助かると思うんだが」


 リュカも春原を見た。彼女の獣耳が不思議そうに傾いている。

 春原は一瞬、「そういうことだったのか」と思った。ヨハンが自分を残るように促したのは、リュカの手伝いをしてほしいと考えていたからだと。


 リュカは静かに目を閉じた。王宮での一ヶ月の奉公代金はすべて税金に消え、明日の仕入れの資金もない「銀の厨房」の現状。徴税吏への支払いで店を守ることはできたが、その先はまだ見えていない。


 そして何より、彼女の心の中に芽生えた小さな希望の灯。もしかしたら、自分の料理が本当に誰かに受け入れられるかもしれない。初めて春原に料理を食べてもらったときのような、あの温かな繋がりを、もっと多くの人と──


 リュカは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。言葉を口にする前に、心の内に奇妙な決意が湧き上がってくるのを感じた。獣耳がわずかに前傾し、瞳に新たな光が灯る。これは単なる料理の披露ではない。長い間、彼女が隠れるように生きてきた殻から、一歩踏み出す選択だった。


「……わ、わかりました。ぜひ、やらせて下さい」


 彼女の声には、恐れと期待が混じり合っていた。春原は思わず笑みを浮かべた。リュカが一歩踏み出す勇気を見せたことに、心から嬉しさを感じていた。


「本当か?」

 ヨハンの顔に喜びの色が広がった。


「エドガーにも喜んでもらえる」

 リュカはまだ少し緊張していたが、頷いた。


「ただ、どんな料理を……」


「今年のテーマは『伝統と革新』だ。古い文化と新しい技術の融合を示す料理が望ましい」


 ヨハンは自信を持って付け加えた。


「エルベルトの娘なら、きっといい料理を考えてくれると期待してるよ」


 その言葉に、リュカの翡翠色の瞳が輝いた。養父の名前が彼女に勇気を与えていることを、春原ははっきりと感じとった。


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