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第29話:揺れる心、見つける場所(2)


「ヨハン様……」


 リュカの声が小さく震えた。獣耳が驚きで一瞬立ち上がり、すぐに丁寧さを取り戻すように少し前に傾いた。

 ヨハンは店内に足を踏み入れ、春原の姿に少し驚いた様子を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「おや、お客人がいたのか。すまない、出直そうとしよう」

「あ、いえ……」

 春原は言葉に詰まった。自分の立場をどう説明すればいいのか分からなかった。


「知人です。今、帰られるところでした」

「なるほど」


 ヨハンは少し考えた後に"何か"に納得したように頷くと、リュカに向き直った。


「折り入って話があるんだ。この前の約束の返事を聞きに来たんだよ」


 彼の声には穏やかさの中にも期待が含まれていた。リュカの表情が複雑に揺れた。翡翠色の瞳には迷いと決意が交錯している。


「あ、あの……僕はそろそろ」

「いやいや、よければ君も聞いてくれ」


 ヨハンが春原を手招きした。

「リュカ君の友人なら、この話は聞いておいてもいいだろう」


 彼の声には穏やかさの中にも期待が含まれていた。リュカの表情が複雑に揺れた。翡翠色の瞳には迷いと決意が交錯している。


「手狭で申し訳ありませんが、ヨハン様こちらへどうぞ」

 リュカはヨハンをテーブルへと案内した。そして食堂の席へと案内し、リュカが振り返った。


「あの……春原さんも、どうぞ」

 彼女の小さな声には、どこか頼りになる存在として春原を見る気持ちが含まれていた。春原は少し戸惑いつつも、彼らと同じテーブルに座った。


「それで、お話とはどういったご要件でしょうか?」

 リュカが少し戸惑いながらも、ヨハンに問いかけた。


「リュカ君…先日君に主厨房で働かないかと誘ったが、その答えはどうだろう?」

 春原は思わず目を見開いた。主厨房—王宮の中で最も格式高い厨房だ。そこでリュカが働くチャンスがあるとは。彼は驚きを隠せなかったが、リュカの複雑な表情が目に入った。


「私には身に余る、光栄なお話...ありがとうございます」

 リュカはゆっくりと言葉を紡いだ。


「でも、申し訳ありません。やはり私にはこの店があります」

 彼女の視線は店内を巡り、壁に掛けられた古びた包丁に留まった。


「この店は...養父の形見です。ここを守ることが、私の使命なんです」

 ヨハンの目には失望の色が浮かんだが、同時に理解を示す優しさも感じられた。


「残念だ。君の腕前は本物だ。主厨房でも十分通用すると思うが」

 彼は窓から差し込む光を見つめながら続けた。


「エルベルトも、もし生きていれば、君の成長を誇りに思うだろう」


 その言葉にリュカの獣耳が小さく震えた。エルベルト—おそらくリュカの養父の名だろう。彼女の翡翠色の瞳に、一瞬だけ湿り気が浮かんだように見えた。


「ヨハン様は養父とお知り合い……だったんですよね?」

 リュカがヨハンに問う。


「ああ」

 ヨハンは懐かしむように微笑んだ。


「戦場で共に料理を作った戦友だ」

 彼の言葉には遠い記憶の痛みと温かさが混ざっていた。リュカは黙って聞いていた。彼女の獣耳が少しずつ前に傾き、興味を示している。静寂が一瞬店内を満たした後、ヨハンは小さくため息をついた。


「エルベルトとは若い頃から知り合いでな。彼の料理への情熱は誰にも負けなかった」

 リュカの瞳が輝く。養父の話を聞ける機会は稀だった。


「彼は最後まで自分の道を貫いた男だ。王宮での地位も名声も蹴って、自分の店を守り続けた」


 ヨハンは遠い目をしながら続けた。春原は、リュカの表情が次第に柔らかくなっていくのを見ていた。ヨハンの言葉が、リュカの心の奥深くに触れているようだった。


 しばらくの沈黙の後、リュカがゆっくりと口を開いた。


「ヨハン様、副厨房での一ヶ月で、私は多くのことを学びました」

 彼女は慎重に言葉を選んでいた。


「獣人として王宮で働くことの難しさも...感じました」

「つらい道だとは分かっている」

 ヨハンは続けた。


「だが、君の料理には特別な何かがある。それは種族を超える力を持っている。エルベルトの言葉を借りるなら『料理に種族の壁はない』だったかな。獣人の子供を引き取って育てるなど当時は奇異の目で見られていたが、彼に種族なんて関係なかったのだろう。それは私も同じだよ」


 春原は黙って聞いていた。彼自身、リュカの料理に心を動かされた一人として、ヨハンの言葉に強く共感していた。と同時に、自分の状況と重ね合わせずにはいられなかった。「種族の壁」という言葉が、彼の心に深く刺さった。異世界人として、半年間どこにも属せず、どこにも必要とされない存在だった自分。そんな彼にも、この世界での居場所があるのだろうか。


「私はここにいます」

 リュカはようやく顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべた。


「この店は、『銀の厨房』は養父が守ってきたお店です」


 彼女の声には、もはや迷いはなかった。


「誰かの下で働くのではなく、自分の思いを、自分の料理に込められます。ちゃんと誰かのために料理を作りたい…んです」


 春原はその言葉に、胸が熱くなるのを感じた。自分の居場所を堂々と主張するリュカの姿に、彼は何か大切なものを学んだような気がした。異世界に放り出され、半年もの間、ただ宮殿の一室に閉じこもり、自分の存在価値を見失っていた彼。そんな彼の目の前で、リュカという獣人の少女が、確かな自分の場所を守ると宣言している。その対比が、春原の心に深い衝撃を与えた。


「そうか……」


 ヨハンはゆっくりと頷いた。彼の鋭い目に、諦めと同時に尊敬の色が浮かんでいた。しかし、すぐに彼は前向きな表情を見せ大きく口を開けて笑い出した。


「ははは! 君は間違いなくエルベルトの娘だ。なに……疑ってたわけではないんだが。まさか、エルベルトと同じ理由で断られるとは思ってもいなかった。あいつにも『自分の料理は自分の思いで作りたい』と言われて断られたのを昨日のことのように思い出すよ」


 リュカは眼を見開いた。獣耳が驚きで立ち上がり、胸の内に温かなものが広がるのを感じた。養父エルベルトもまた、同じ言葉でヨハンの誘いを断ったことに、リュカは初めて自分の中に養父の意志が生き続けていることを実感した。血のつながりはなくとも、魂の系譜が確かに繋がっていることを。それは種族を超えた、深い絆の証だった。


「実に残念だが、なんとなく断られる気はしていたよ」

 ヨハンはゆっくりと言葉を紡いだ。諦めと理解が混ざった表情を浮かべながら、彼は急に思い出したように顔を上げた。


「ああ、そうだ。忘れるところだった。他にも一つ、大事な相談があるんだが」


 リュカと春原は顔を見合わせた。


「"王都黎明市(おうとれいめいいち)"への露店出展と、料理実演舞台に出てくれないだろうか?」



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