第27話:アシュレイ・ノイマーの憂鬱
王立魔導研究所の特別研究室は、日中だというのに暗闇と青白い魔導光の静寂に包まれていた。部屋の中央に据えられた巨大な実験装置からは、ルネタイトを触媒とした魔力回路の微かな振動音が響いている。新たに開発された魔導増幅器の試作品が、天井から吊り下げられた複数の水晶球と共鳴し、周囲に淡い青の光を投げかけていた。
「この魔力の共振パターンは……いや、まだ不安定だな」
アシュレイ・ノイマーは、厚い革製の魔力耐性手袋を着用した手で繊細な調整機構を操作した。彼の鋭い青い瞳が、実験装置の数値を示す複数の魔導計器に走る。数字の羅列が、彼の頭の中では優美な方程式へと変換されていく。
「魔導回路の第三層に、わずかな歪みが発生している。これでは効率が二割も低下してしまう」
研究室の扉に掲げられた金属板には、『王立魔導研究所主任研究官アシュレイ・ノイマー』の文字が刻まれている。弱冠二十六歳にして獲得した栄誉は、彼の天才的な頭脳の証でもあり、同時に周囲の嫉妬の的でもあった。
「ふん、また失敗か」
彼は苛立ちまぎれに、魔導増幅器の動力を落とした。実験室に満ちていた魔力の緊張が一瞬にして弛緩し、水晶球の光が静かに消えていく。
静寂の中、アシュレイは椅子に深く腰を下ろし、天井を見上げた。あの愚か者が去ってから、ようやく自分の研究に集中できる平穏が戻ってきた。春原を召喚してからというもの、彼の監視と研究という名目で、自分の貴重な時間を奪われ続けていたのだ。
「あいつの『異世界の知識』とやらを引き出そうと、どれだけの時間を無駄にしたことか……」
アシュレイは苦笑いを浮かべた。延々と続く面談、意味不明な用語の羅列、そして期待外れの結果。それらすべてが、半年前から彼の肩に重くのしかかっていた。今思えば、異世界人の監視役という面倒な仕事を押し付けられただけだったのだ。
「やっと解放されたというのに……」
アシュレイの研究は行き詰まっていた。
白衣の腰ポケットから懐中時計を取り出す。精巧な文字盤に光る細かな魔力紋様が、現在の時刻を示している。彼の細い指が、時計のふたを閉じる音が静かな研究室に響いた。
「魔導具技術の発展こそが、オルステリア王国に更なる繁栄をもたらす唯一の道だ」
彼は窓際に歩み寄り、王都の景色を見下ろした。複雑な魔導管が建物と建物を繋ぎ、青白い魔力の光が都市全体を照らしている。かつて魔法を持たなかった人間種族が、今や他種族を凌駕する存在となったのは、すべてこの技術のおかげだった。
アシュレイの脳裏に、半年前の出来事が蘇る。異世界召喚の儀式。それは彼の研究人生における最大の挑戦であり、最大の失敗でもあった。
── ── ──
「準備はいいか?」
円形の魔法陣の中央に立つアシュレイは、周囲の研究員たちに声をかけた。七つの輝く魔導石が正確な配置で設置され、古代の呪文が記された巻物が祭壇に置かれている。王太傅クラウス・アルデンブルグも、玉座に腰を下ろして儀式を見守っていた。
「異界への門を開く古代魔法を、我々の魔導技術で再現する。これが成功すれば、王国は新たな知識と力を手に入れることができる」
アシュレイの指示で、研究員たちが一斉に魔導石に魔力を注入し始めた。空気が震え、次元の歪みが発生する。やがて青白い光の渦が現れ、その中心から一人の青年が現れた。
「成功…したのか?」
だが、その喜びは長くは続かなかった。召喚された春原祐一という青年には、魔素も魔導具への適性も、そして期待された異世界の知識も、何一つ備わっていなかったのだ。
「まさか、こんな無能な存在を召喚してしまうとは…」
アシュレイは失望を隠しきれなかった。しかし、同時に学者としての好奇心も抑えきれなかった。異世界人という存在そのものは、研究対象として興味深かったのだ。
── ── ──
「あの愚か者め……」
アシュレイは苦笑いを浮かべながら、机に戻った。春原に対する失望は今も変わらないが、彼が召喚されてからの扱いを思い返すと、少し強く当たりすぎたかもしれないという後悔も浮かんでいた。
「次に会ったら、もう少し優しく接してやるか」
その時、研究室の扉がノックされた。
「入れ」
助手の若い女性が、少し困惑した表情で入ってきた。
「アシュレイ様、春原様がお見えになっています」
「なに!?」
アシュレイは驚いて顔を上げた。春原を王都に放ったのは昨日のことだ。
「昨日今日だぞ……一体何の用だ?」
彼は呆れながら立ち上がった。
扉が開き、春原が姿を現した。その姿を見て、アシュレイは一瞬言葉を失った。服はくたびれ、顔には疲労の色が濃い。まるで路上生活者のような有様だった。
「ど、どうしたんだ……その姿は?」
アシュレイの表情には、呆れと、わずかな同情が混じっていた。
「実は……」
春原は気まずそうに口を開いた。
「東区で酒に酔って、財布を盗まれてしまって……」
アシュレイは深いため息をついた。
「まったく、聞くに耐えん話だな…」
彼は春原を椅子に座らせ、詳しい話を聞き始めた。東区の食堂街での出来事、「ミラ」という女性との出会い、そして財布を盗まれた経緯。春原の話は情けないものだったが、その中で一つだけ、アシュレイの興味を引く言葉があった。
「待て」
アシュレイは身を乗り出した。
「今、グレンデル商会と言ったか?」
「え、うん。徴税吏と一緒に現れた商人が、確かグレンデル商会? の者だと名乗っていたはず」
アシュレイの目が鋭く光った。
「それは……興味深いな」
彼は机の引き出しを開け、一冊の分厚い帳簿を取り出した。表紙には『王国治安諮問委員会報告書』と記されている。ページをめくりながら、アシュレイは春原に説明を始めた。
「グレンデル商会……ここ数年、王都での不自然な取引が目立つ商会だ。表向きは輸入業と不動産業を営んでいるが、その資金の流れが不透明なんだ」
アシュレイは帳簿の一節を指した。数字の羅列と、複雑な取引の記録が記されている。
「土地を次々と買収しているが、その資金源が判明しない」
「それに……」
アシュレイは声を潜めた。
「獣人や貧困層の住む地域を狙い撃ちしているという報告もある。合法的な手段とは言い難い方法で立ち退きを迫っているという噂も」
アシュレイは帳簿を閉じ、春原を見据えた。
「だが、証拠がない。彼らは狡猾だ。書類上は完璧に合法的な手続きを踏んでいる。表面的には何の問題もない……。そうだな。春原、お前に正式な任務を与えよう」
春原は驚いて顔を上げた。
「任務?」
「文化観察官としての、な。表向きは社会調査だ。人々の生活、習慣、そして商業活動の実態を調べてもらう」
「特に、グレンデル商会の動きについて、詳しく調査してほしい。彼らの不審な活動の証拠を掴むまで、帰ってくる必要はない」
アシュレイは意味ありげに微笑んだ。
「でも、お金が……」
春原は期待を込めて尋ねた。
「やらん」
アシュレイは一蹴した。
「昨日渡した金を盗まれたのはお前の不注意だ。自分で何とかしろ」
春原の肩が落ちるのを見ながら、アシュレイは内心で呟いた。
(期待なんてしていないがな……だが、愚か者でも何か役に立つかもしれん)
「行け。そして、何か掴んだら報告しろ」
春原が部屋を出ていくのを見送りながら、アシュレイは一人研究室に残った。
だが、その瞳には微かな期待の光が宿っていた。時として、予期せぬ結果をもたらすのが実験の面白さだ。春原という「失敗」が、思わぬ化学反応を起こすかもしれない。失敗は成功の母だと。
アシュレイは再び実験装置に向かい、魔導増幅器の調整を再開した。研究室には再び、魔力の微かな振動音が響き渡る。




