第21話:目覚めと邂逅(4)
春原は夢を見ていた。
── ── ──
桜の花が舞い落ちる小さな団地の中庭。四月の風が窓を通り抜け、カーテンを揺らす。少し青白い蛍光灯の光が照らすキッチン。その明かりの中で、母親が料理をする姿。刻むまな板の音と、湯気の立ち上る匂いが懐かしい。
「祐一、今日は肉じゃがよ。お父さんの好物だったから」
母の声は柔らかく、少し疲れを含んでいた。彼女は病院の事務員として働きながら、一人で息子を育ててきた。その細い背中を見るたび、春原は胸が締め付けられる思いがしていた。
一枚のテーブルを囲み、母と二人で食事をする光景。父は春原が小学校に上がる前に亡くなった。それからずっと、母子二人の生活だった。父の命日には、いつも決まって母が肉じゃがを作っていたのを覚えている。
「大学行って、自分の道を見つけなさい」
母の願いを叶えるため、彼は勉強に励み、難関大学に合格した。奨学金とアルバイトで生計を立て、母に迷惑をかけないよう努めた。故郷を離れ、一人暮らしを始めた春原の部屋には、写真すら飾られていなかった。何も持たなければ、何も失わないという無意識の防衛本能だった。だがその生活は、人との関わりを避ける孤独なものだった。
「祐一、たまには友達と遊びなさいよ」
電話越しの母の心配そうな声。彼は微笑んで大丈夫だと答えていたが、本当は友達なんて呼べる存在もなかった。ただ勉強とバイトの日々。帰省するたび、母の髪の白さが増していることに気づき、自分は何のために頑張っているのだろうと考え込むことがあった。
母の作る肉じゃがの味。ジャガイモがほろほろと崩れるその食感。甘辛い味付けが、どこか故郷を思わせる安心感。決して裕福だったわけではなかった。けれど、女で一つで春原雄一を育て上げてくれた。しかし、春原はそれを言葉にして母に伝えることはできなかった。
最後に母の料理を食べたのはいつだったか。大学生活が忙しくなり、帰省する機会も減っていた。
この異世界に来てから、春原はずっと故郷を思い出さないようにしていた。帰れない場所を思えば、ただ胸が痛むだけだから。
その記憶が、次第に霞んでいく。桜の花びらが風に舞い、青白い光が暗闇に溶けていく。そして、別の香りが彼の意識を現実へと引き戻していった。
── ── ──
春原は鈍い頭痛と共に目を覚ました。目蓋が重く、口の中はカラカラに乾き、舌が砂を噛んでいるようだった。彼は痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと上体を起こした。
「ここは……?」
見知らぬ天井。粗くも清潔なシーツに、どこか懐かしい香り。王宮の煌びやかさとは対極だった。記憶が断片的に戻ってくる—東区での徘徊、「青の涙」という酒、ミラという女性、そして……
春原は頭痛に顔をしかめ、昨夜の記憶を懸命に呼び戻そうとした。断片的な映像が浮かんでは消える。彼は起き上がろうとしたが、急な動きに頭痛が増し、呻き声が漏れた。
その時、ドアがゆっくりと開いた。入ってきたのは小柄な獣人の少女だった。褐色の獣耳を持ち、繊細な体つきに肩下ほどの黄土色の髪。翡翠色の瞳には警戒心が宿り、彼をじっと見つめていた。
「目が覚めましたか」
彼女の静かな声に、春原は再び周囲を見回した。簡素だが清潔な部屋。厨房から漂う料理の香り。どうやら食堂か何かの奥部屋にいるようだ。
「ここは……?」
彼は尋ねた。獣人の少女は一歩退き、安全な距離を保っている。
「私の店です。昨夜、路地で倒れているあなたを見つけましたので……。その、運び込みました」
彼女の声は小さいが、はっきりとしていた。
「あなたが助けてくれたんだ……ありがとう。なにか、お礼を……」
「気になさらないでください……大丈夫ですか? 酷くうなされていたようでしたので」
彼女は微笑むように言った。
「もう大丈夫だよ。昨日散々な一日だったからかな」
春原は苦々しく笑い、深くため息をついた。異世界に来て半年、ようやく王宮から出てきた初日にこんな目に遭うとは。彼は頭痛を抑えながら、ゆっくりと靴を履こうとした。
「もう行くの……ですか?」
獣人の少女が静かに尋ねた。春原は立ち上がりながら苦笑した。
「あんまり長居するのも申し訳ないから、もう行くよ。このお礼もいつか必ず……」
春原自身、どこに行くのかもわからなかった。行く宛などないのに、と心の中で自嘲する。
彼女の耳がピクリと動いた。それから彼女はドアの方を指さした。
「あ、あの! 良かったら……朝食を食べていきませんか。スープができているので」
春原は驚いて彼女を見た。彼女の表情は相変わらず警戒心を隠していないが、その言葉には確かな優しさがあった。彼は獣人の少女を改めて見つめた。ふと、”まさか”という期待が胸をよぎった。
「ありがとう」
彼は素直に答えた。このまま何も食べずに街をさまようより、何か暖かいものを口にする方がいい。特に頭痛に悩まされている今は。
獣人の少女はドアを開けて春原を促した。彼は彼女に続いて部屋を出ると、小さな食堂に足を踏み入れた。古い木のテーブルと椅子が並ぶ質素な店内。壁には色あせた王国の地図が飾られ、窓辺には小さな花が活けられていた。厨房からは湯気と共に、心地よい料理の香りが漂ってきた。
「座ってください」
獣人の少女は厨房へと戻り、鍋の蓋を開けた。立ち上る湯気が彼女の細い顔を包み込む。彼女は丁寧にスープをよそい、小さなパンと共に春原の前に置いた。
「どうぞ」
彼女は静かに言って、少し距離を取った。
春原はスープを見つめた。透明感のある琥珀色のスープには、薄切りの野菜と少量の肉片が浮かんでいる。シンプルだが、立ち上る香りは豊かで、彼の空腹を刺激した。
一口すすると、彼の舌に温かな旨味が広がった。野菜の自然な甘みと、肉のコク、そしてそれらを引き立てる絶妙な塩加減。その味わいは、王宮の豪華な料理とは明らかに異なっていた。宮廷の料理は技術的には完璧だが、どこか魂が欠けているように感じられた。しかし、この素朴なスープには、どこか"温かさ"がある。
そして、その瞬間、春原の期待が確信へと変わった。この味、この感覚──先日、王宮で食べた料理と同じだ。いや、料理そのものは異なるのに、そこに宿る温かさがまったく同じだった。




