表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/151

第20話:目覚めと邂逅(3)

 東区の古い石造りの家々に朝の光が差し込み始めた頃、「銀の厨房」では、すでに一人の獣人の少女が炉の火を起こしていた。


 暖炉から立ち上る樫の木の香りが、石造りの厨房の小さな空間を満たしていく。窓からは青みがかった朝の光が静かに忍び込み、調理台に置かれた銀色の包丁の刃を輝かせていた。その光は、古びた木製の棚に並ぶ調味料の瓶や、壁に掛けられた錆びかけた調理器具にも反射し、小さな空間に静かな生命力を与えていた。


 リュカは静かに包丁を握り、野菜を切り始めた。まな板に響く包丁の音だけが、この静けさを破る唯一の音だった。彼女の褐色の獣耳が細かな音の変化を捉え、刃が野菜の繊維を切り裂く感触を味わっている。


 人参の根元を握り、先端から均等な厚さで切り落としていく。刃が通るたびに「トン、トン、トン」と心地よいリズムを刻み、切り口から溢れる水滴が、朝の光に透けて一瞬宝石のように輝く。彼女は鋭敏な嗅覚で、切りたての野菜から立ち上る生命の香りを感じ取る。


 獣人特有の感覚は、他の誰も気づかないような微妙な香りの変化さえも捉える。次にセロリを手に取り、節目に注意しながら、繊維に沿って刃を走らせる。指先は野菜の質感を読み取り、刃の角度を微妙に調整していた。


 時折、彼女の耳が小刻みに震え、奥の部屋の様子を確かめるように動く。酔いつぶれた男を店に連れ帰るなど、彼女には珍しい行動だった。なぜそんな行動をとったのか、自分でも不思議だった。

 あの瞬間の直感があったからだろうか。彼が倒れていたときの眼差し、それはまるで自分を映すようだった―見捨てられ、忘れ去られた者の眼差し。


 リュカは小さく溜息をつきながら、鉄製の深鍋に湯を沸かし、切った野菜を丁寧に入れていく。まず最初に根菜類、続いて茎や葉物を。彼女の手つきには無駄がなく、長年の経験が滲み出ていた。


 鍋の中で水が震え始め、リュカは火加減に神経を集中させた。耳をそばだて、湯の音を聞き分ける。煮込み始めるには少し強すぎる、そう判断して火を弱め、完璧な温度を保つ。木製の長い匙で一度だけ静かにかき混ぜ、それから骨付き肉を慎重に沈めた。


 肉が湯の中に入ると、彼女は鼻孔を広げ、上がってくる香りを分析した。感覚で、肉の質や鮮度、油の含有量までもが手に取るように分かる。上質な肉ではなかったが、しっかりとした骨があり、出汁には十分だった。昨日の王宮での給金で買ってきた材料は決して豪華とは言えないが、香りの良いタイムとローリエ、それにわずかな塩と香辛料で、十分に旨みのあるスープが作れる。


 リュカは香草を手に取り、指先で香りを確かめた。乾燥したタイムの葉を一枚一枚丁寧に摘み、微かなほこりを吹き飛ばすように口元で息を吹きかけてから、鍋の中に振り入れる。そしてローリエの葉を手の平で軽く潰し、内側に閉じ込められた香りを解放させてから投入した。


 鍋からは次第に複雑な香りが立ち上り、小さな厨房全体を満たしていく。それは単なる食欲をそそる香りではなく、どこか懐かしさを呼び起こす安心感をもたらす匂いだった。


「養生スープ」と呼ばれるオルステリア王国の家庭料理。

 体調を崩した時、心が疲れた時に飲むスープ。


 リュカは獣人特有の鋭敏な嗅覚で、沸き始めた湯気の香りを嗅ぎながら、少し思い出に浸った。王宮での一ヶ月の奉公。人間たちの冷たい視線と過酷な仕事。だが、最後の日に彼女は料理を作ることを許された。ほんの一皿の、名前も知らない客人のための料理。


 スープの香りに包まれながら、彼女は何かに気づいた。日々を生きる中で忘れていた感覚──誰かのために料理をする喜び。単なる生存のための行為ではなく、自分の心を表現する行為としての料理。王宮の厨房では、彼女は黙々と命じられた仕事をこなすだけだった。雑用係、下働き、最下層の存在。だが、最後の一日だけは違った。彼女は自分の料理を通して、誰かに何かを届けることができた。その感覚が、今朝のスープにも込められつつあった。


 思い出から戻ると、リュカの胸に不安が広がる。王宮での一ヶ月の奉公は終わり、彼女はまた一人になった。今日には徴税吏がくるだろう。王宮での給金を渡さなければ。


 徴税吏の冷たい微笑みが脳裏に浮かび、彼女の獣耳が後ろに倒れ、緊張が体を走る。背筋が冷たくなり、手が少し震えた。リュカは思わず尻尾を巻きつけようとして、痛みに顔を歪めた。尻尾を隠すための紐が強く締め付けられていた。この店は彼女が唯一持つ、養父の記憶が詰まった場所。これを失えば、彼女には何も残らない。


 彼女は静かに鍋の淵を見下ろし、スープの表面に映る自分の姿に気づいた。顔の輪郭がゆらめく湯気に歪み、不確かな存在のように映っている。リュカはそっと輝くスープの表面に指を近づけ、一瞬だけ温かな湯気に触れた。


 リュカは強く目を閉じ、深呼吸をした。今はそれを考える時ではない。目の前のことに集中しなければ。彼女は小さく息を吐き、スープに塩を加えた。塩は少しだけ。香りが変わり、より深みが増す。野菜の甘みと肉の旨味が完璧なバランスで溶け合っていく。彼女は静かに鍋の蓋をし、火力を弱めて煮込み始めた。


 すると、スープの表面に小さな泡が踊るように現れ、スープ全体が金色に輝きはじめた。肉から溶け出す油分が表面に浮かび、朝日を反射して煌めいている。湯気は白い絹のようにうねりながら立ち上り、部屋全体に生命力を運ぶように広がっていく。リュカはその景色を見つめながら、世界に自分の居場所があるとしたら、それはこの瞬間なのかもしれないと思った。


「ん……」


 奥の部屋から微かな物音。男が目を覚ましたようだ。リュカの耳が瞬時に音の方向へと向き、彼女の体が一瞬緊張した。見知らぬ人間の男性。彼が目を覚ましたら、すぐに店を出ていくよう促そう。


 リュカは小さく呼吸を整えた。


 包丁を置くと、彼女は首元に結んだエプロンを両手で後ろから解き、古いフックに丁寧にかけた。その後、頭を覆っていた亜麻色の布を取り外す。束縛から解放された獣耳が自然と跳ね上がり、朝の空気を感じとるように小さく震えた。頭巾の下で押さえつけられていた耳は、本来の動きを取り戻すために何度か左右に揺れる。


 彼女は自分の尻尾も軽く緩め、腰に巻きつけた紐をほんの少しだけ解放した。完全に外すわけにはいかなかったが、少しでも楽になるように。褐色の毛並みが柔らかく揺れ、リュカは一瞬だけ安堵の表情を浮かべた。


 鏡の前で一度だけ自分の姿を確認し、薄い唇を噛みながら、慎重に部屋へと向かう。


 彼女はそっとドアを開け、薄暗い部屋の中を覗き込んだ。そこには、頭を抱え、困惑した表情で座り込む若い男性の姿があった。窓から差し込む朝の光が、彼の輪郭を柔らかく照らしている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ