第1話:王宮への奉公(1)
2025/07/05:本文を調整。話に変更はありません。
オルステリア王国──かつては「非魔素種族」として魔法文明の辺境に追いやられていた人間たちが、今や五種族世界の頂点に立つ覇権国家。二十年前の魔導具戦争、血と炎の歴史に刻まれる〈十年燃灰期〉を経て、彼らは獣人・エルフ・ドワーフ・ノームといった多種族を次々と征服し、事実上の支配下に置いていた。
王都オリアーノの大通りには、煌びやかな魔導具の光が夜でも昼のように輝いている。街角の魔導灯は青白い魔力の灯りを放ち、商店の看板は幻影のように色を変えていた。魔道具の普及により、勝者である人間たちの生活は十年で一変した。
「魔導革命」と人間たちは誇らしげに呼ぶ。「収奪」と影で敗者たちは呟く。
王都の片隅、古い石造りの建物が密集する東区の裏通り。
昔ながらの路地は細く入り組み、魔導灯の光すらまばらだった。
ここは魔導具の輝きからも遠い場所。
小さな食堂「銀の厨房」の主人である獣人の少女”リュカ・ヴァレン”は薄い毛布にくるまりながら、暖炉の火を見つめていた。
「お父さん……このお店は絶対に守りますから」
暖炉の炎に向かって小さく呟いた獣人の少女は、十六歳とは思えない幼い顔立ちだった。
薄い翡翠色の瞳は大きく、頬は薄いクリーム色で、小さな鼻の下にはか細い唇がある。最も目立つのは、頭頂から生える獣人特有の耳だった──褐色の毛に覆われ、わずかに尖った先端は神経質そうにピクピクと動いている。
暖炉から漂う樫の木の香りが鼻腔をくすぐる。獣人特有の嗅覚は、燃える木の樹種さえ見分けられた。
彼女の瞳は暗闇でも明瞭に周囲を捉える。天井の隅に張られた蜘蛛の巣、床の上に散らばった古い領収書、壁に掛けられたままの養父の古い帽子──そのすべてが、彼女の現状を象徴しているようだった。
店は三ヶ月連続の赤字。今月の税金も滞納している。
リュカは膝に置いた帳簿を見つめながら、耳をわずかに後ろに倒した。徴税吏が最後に訪れた時の冷たい視線が、まだ背中に張り付いているようだった。
「獣人の店など閉めればいいのだ」
徴税吏はそう言わなかったが、リュカの鋭敏な耳は心の声を聞き取った気がした。
人間の声には、言葉以上のものが宿る。喉の奥、舌の動き、唾液の度合い、そのすべてが彼の内心を映し出していた。
その徴税吏がせめてでもと言うことで王宮厨房での奉公を紹介してくれた。
同情か、はたまた嫌がらせか、その真意は読めなかった。だが事実として、王宮厨房での一ヶ月の給金は、お店の借金をほぼ返済できるほどの額だった。
この明日から始まる王宮への奉公が、彼女の最後の望みだった。
リュカは暖炉の前で小さく体を丸め、長い尻尾で自分の足首を覆った。王宮という格式の高い場所での仕事ということ以上に、気後れする理由がリュカにはあった。
「全種族平等法」──戦後にオルステリア王国が公布した法律は、表向きにはすべての種族に平等な権利を保証していた。だが地上の法と、人の心の間には深い溝がある。
食材の仕入れでは常に他の店の二割増しの価格を要求される。
魚屋のオールドは、支払う瞬間だけ声を潜め、「獣には特別価格だ」と囁く。野菜商のジュリアンは、「獣の手で触られた野菜なんて売れないわ」と隣の店に漏らす。王国税務局からの査察は異常な頻度で訪れ、徴税吏の細い指は帳簿の端から端まで執拗に辿る。「規則だ」と徴税吏は言う。
かつて養父エルベルトが店先に立っていた頃は違った。戦争から戻った軍属料理兵という肩書が、店を守る見えない壁となっていた。「エルベルトの店の獣人は違う」と人々は言ったものだ。だが養父が病に倒れ、リュカが一人前に立つようになってから、客足は潮が引くように遠ざかった。
いつしか食堂の賑わいは記憶の中だけのものとなり、今では夕暮れ時ですら客はまばらだった。初めて訪れた客も店内に入り、料理人が獣人だと気づくと、表情が変わる。食べずに帰る者、「戦場で友を殺されたんだ」と罵声を浴びせる者、子供の目を覆って連れ出す母親。 それでも街の役人や商人たちは笑顔で言う。「今は平等な社会だ」と。
リュカは耳をピクリと動かし、暖炉の炎を見つめながら深いため息をついた。明日からの奉公は一ヶ月。その間、店は閉めることになる。戻ってきた時、常連客はまだいてくれるだろうか。食材を分けてくれる市場の商人たちは、彼女を覚えているだろうか。
うとうとする意識の中で、彼女の記憶は遠い日々へと漂っていった。
── ── ──
まだ幼かった頃のこと──小さな彼女は、寒い雨の日に通りで拾われた。
身体にはまだ見えない傷跡がいくつも残っていた。
だが、それ以上に彼女の中には、言葉では説明できない「空虚」があった。
「おい、そこで何をしている?」
大きな男の声に、幼いリュカは恐怖で身を縮めた。
雨に濡れた獣耳が、頭に張り付いている。
男は料理人らしく、白い服に、首には汗を拭うための布を巻いていた。
「親はどこだ? どこから来たんだ?」
リュカは黙ったまま、石畳を見つめた。
親──その言葉が胸に刺さる。
彼女には親など呼べる存在はもういない。背後の森の中で、最後に見た母の姿が瞬く間に脳裏に浮かび、そして消えた。しかし、それを説明する言葉も力も、幼い彼女にはなかった。
男はしばらく立ち尽くし、獣人の孤児に何をすべきか迷っているようだった。
やがて彼は大きくため息をつくと、リュカに向かって手を差し伸べた。
「腹は減ってるか?」
その言葉に、リュカの耳がぴくりと動いた。
彼女は恐る恐る顔を上げた。男の表情には、彼女の想像していた嫌悪や軽蔑ではなく、単純な困惑と、どこか優しいものが混ざっていた。ただ、料理人らしく、食べ物に関することへの関心だけは真剣だった。
男はリュカを連れて小さな食堂に戻った。
「銀の厨房」という、今彼女が住む場所だった。
薪火で炊かれたストーブの前に彼女を座らせ、自分は調理場へと消えた。
カツカツと包丁が鍋に当たる音、水が沸騰する音、油が弾ける音。
リュカはじっと座ったまま、その音に耳を澄ませていた。音は混ざり合い、やがて一つのメロディとなった。彼女が生まれて初めて聞いた、料理の奏でる音楽だった。
鼻孔が微かに広がり、胃の中で鳴るような音がする。
男が持ってきたのは、シンプルなスープだった。具材は僅かな野菜と少量の肉。だが、湯気とともに立ち上る香りは、リュカの空腹を強く刺激した。彼女は差し出されたスプーンを恐る恐る手に取り、スープを一口啜った。
──その瞬間、彼女の世界が変わった。
温かなスープが身体の芯まで染み渡る。
旨味と塩味のバランスが絶妙で、具材の甘みが後から優しく広がった。
獣人の鋭敏な味覚が、スープに込められた素材の一つ一つを識別していく。玉ねぎの甘み、ニンジンの土の香り、豚肉の旨味、そして何よりも、それらを包み込む「温かさ」のようなものを感じた。
「どうだ? うまいか?」
男は少し緊張した様子で尋ねた。リュカは言葉を持たなかったが、涙が頬を伝い落ちていた。それが答えだった。
── ── ──
──バチッ、という薪の弾ける音に、回想の中で眠るリュカの耳が本能的にぴくりと動き、彼女の意識は現実に引き戻される。
窓の外は深い闇に包まれていた。
魔道具による町の光は姿を潜め、窓の外はすでに真の闇に閉ざされている。
そして同時に、彼女の胸の内にある不安も濃くなっていた。明日の奉公で失敗すれば、この店は終わる。養父の思い出が詰まったこの場所は、彼女の手から離れていく。
リュカは毛布をきつく体に巻きつけた。外からの冷気を防ぐためでもあり、内側から湧き上がる恐怖を封じ込めるためでもあった。彼女は小さく縮こまり、まるで子供の頃のように自分を抱きしめた。
半分だけ開いた目で、彼女は店の棚に立てかけてある招聘状を見た。「王宮厨房補助員募集」の文字が、月明かりに照らされて浮かんでいる。金色の文字で書かれたその状は、この小さな店とは明らかに不釣り合いだった。
リュカは毛布の中で小さな包丁さばきの練習をするように指を動かした。肉の筋を切る角度、野菜の繊維に逆らわない切り方、魚の鱗を剥がす力加減。すべてが彼女の指先に刻み込まれている。そしてその手には、養父の技術と、彼女自身の繊細な感覚が宿っていた。
彼女の意識が次第に遠のいていく中で、最後に浮かんだのは、明日のことだった。
王宮の厨房では、どんな食材が使われているのだろう。どんな匂いが、どんな音が、そこには満ちているのだろう。
その決意と好奇心を胸に、リュカは目を閉じた。眠れなくても、休まなければならない。明日、彼女を待ち受けているのは、獣人である彼女にとって最も厳しい環境──人間中心の王宮だった。
「お父さんのように……誰かに喜んでもらえる料理を……」
暖炉の火が小さく爆ぜ、闇が静かに部屋を包み込んでいく。
灰の香りが満ちる空気の中で、誰にも気づかれず、ひとつのささやかな奇跡が芽吹き始めていた。
やがて──
小さな厨房から放たれた一皿の料理が、凍りついた心を溶かし、閉ざされた運命に、微かな風穴を穿つ。
彼女の作る「ただのまかない」は、まだ誰も知らない。
それが、王国をも揺らす火種となることを。
これは──
料理を通じて静かに心を通わせた二人が、それぞれの居場所と未来を見つけていく。
ただ“美味しいって言ってもらいたかった心優しい少女”と、“その隣に並びたいと願った異世界の青年”が紡ぐ、火を絶やさぬ物語
──その夜、運命は、そっと火を灯す。