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第18話:目覚めと邂逅(1)


 朝の光が王都の石畳に広がり始めた頃、リュカは宮殿の労働者用の門を抜け、一ヶ月の奉公を終えた足取りで歩いていた。朝は暗いうちから始まり、夜遅くまで続く労働。途切れることのない命令と、休む間もない雑用。そのすべてが、ようやく終わった。


「やっと……これで」


 腰には給金袋が結び付けられ、その重みが彼女の小さな体に安堵をもたらした。


 これで徴税吏に支払うことができる。養父の形見である「銀の厨房」を守れる。そう思うと、疲れきった体にも力が湧いてきた。


 頭巾を深く被り、リュカは目立たないように中央区から東区へと向かう大通りを歩いた。

 

 獣人が一人で歩くのは、特に王都の繁華な地域では視線を集めることだった。彼女は通りを行き交う馬車や商人たちを避けながら、徐々に慣れ親しんだ東区へと近づいていく。石畳の上を歩く靴の音だけが、彼女の存在を主張しているようだった。


 駆け抜ける馬車の音。

 露店で呼び込みをする商人の声。

 物を運ぶ荷車の重い音。


 ──彼女の獣耳はすべてを捉えていた。

 王宮の静寂とは違う、生活の喧騒。それがリュカにとっては心地よい音楽のように感じられた。


 奉公での最後の日に彼女は料理を作ることを許された。

 名前も知らない客人のための一品を任された。あの時の感覚が、まだ彼女の指先に残っていた。それが誰かに届いたかどうかは知る由もなかったが、久しぶりに何かを作り出す喜びを感じた瞬間だった。


 東区の入口に差し掛かると、石畳の通りは次第に狭く、建物は古く小さくなっていった。

 王宮の華やかさとは対照的な、素朴で親しみやすい風景。リュカの足取りは自然と軽くなる。彼女はゆっくりと呼吸を整え、一ヶ月ぶりに故郷の匂いを感じようとした。


 通りを商人たちが行き来し、半分開いた窓からは朝食の準備をする音や香りが漏れ出していた。王宮とは違う、生きた人間の暮らしの匂い。リュカはそれを胸いっぱいに吸い込んだ。


 奉公の記憶が駆け巡る。

 エドガー副厨房長の厳しくも時折見せる理解ある表情。嫌がらせをする若い見習いたち。最後の日に彼女の料理を見守ったヨハンという老料理人の穏やかな目。一ヶ月という短い期間に、これほど多くの出会いと別れがあったことが不思議だった。


 そして「銀の厨房」の前まで帰ってきたとき、リュカの胸に温かいものが広がった。

 小さく古びた店だが、ここだけが彼女の居場所だった。



「ただいま帰りました」



 鍵を開け、中に入ると、埃の積もった暗い空間が彼女を迎えた。

 もう「おかえり」といってくれる存在は『銀の厨房』にはいない。


 一ヶ月の不在で店内はすっかり埃に覆われ、調理台の上には薄い灰色の層ができ、棚の隅には蜘蛛の巣が張っていた。


「掃除しないと」


 リュカは頭巾を取り、獣耳を開放させると、まずは店内の掃除に取りかかった。休む間もなく、帰ってきたばかりの体で雑巾を手に取り、一つ一つの調理器具を丁寧に拭き上げる。

 

 よく手入れされた包丁、使い込まれた木製のまな板、大切な鍋や鉄板──すべてが彼女の手で輝きを取り戻していく。床を掃き、壁を拭き、窓ガラスの汚れを落とす作業は、王宮での労働とは違う、懐かしい疲労感を彼女にもたらした。


 窓から差し込む光が次第に橙色に変わり、日が傾き始めると、厨房内の温度も急速に下がってきた。

 冷たい空気が石の床から立ち上り、リュカの足先を冷やし始める。


 夕暮れの気配を感じ、彼女は薪を手に取り、長い間火の入っていなかった暖炉を覗き込んだ。灰を掻き出し、新しい薪を並べると、火打石でゆっくりと火種を起こした。


 暖炉に火が灯る頃、リュカは古い椅子に深く腰掛けた。

 初めて一ヶ月ぶりに緊張の糸が解けるのを感じた。暖炉の炎のように揺らめく思考が、次第に一つの決意に変わっていく。明日からまた店を開く。


 彼女はふと棚に目をやり、養父の古い調理帳を手に取った。ぼろぼろになった表紙には、エルベルトの几帳面な字で「銀の厨房」と書かれている。それを胸に抱きながら、リュカは暖炉の前でうつらうつらと居眠りを始めた。


「明日から……また……料理を…………」


 疲労が一気に押し寄せ、彼女はその場で深い眠りに落ちていった。


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