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第4章 間話:優しい嘘

2025/09/01:誤字を修正

 夜明け前の街は、まだ眠りの中にあった。しかし、銀の厨房には既に明かりが灯り、春原は早朝から包丁を握っていた。


 ──カンカンカン


 まな板を叩く包丁の音が静かな店内に響く。春原の目は真剣そのもので、眉間に皺を寄せながら、玉ねぎの微塵切りに挑戦していた。


「大きさが揃わない……」


 彼は溜息をつき、切った玉ねぎを見つめた。まだまだ不揃いで、料理の基準からは程遠い。リュカやアレクシスの切り方を思い出すと、自分の未熟さが痛いほどわかる。


「基本姿勢から見直そう」


 声に出して自分に言い聞かせながら、春原は再び手を動かす。

 彼が料理人を目指すと決意してから、既に数週間が経っていた。リュカは無理をして倒れ、春原はそれ以来、彼女の負担を少しでも減らそうと奮闘していた。調理師の資格を取れば、リュカを正式に手伝うことができる。そのために、毎朝基礎練習を繰り返していた。


 時計の針が五時を指す頃、二階から足音が聞こえてきた。


「おはようございます。また早くから起きていましたね」


 リュカの声が階段から響いてきた。彼女は褐色の獣耳を不思議そうに動かしながら、厨房に姿を現した。


「あ、おはよう、リュカさん。うん、切り方の練習を」


 春原は慌てて前掛けの汚れを拭った。リュカは翡翠色の瞳で春原の作業台を見つめ、小さく息をついた。


「もしかして春原さん、また徹夜ですか?」


 春原は黙って目を逸らした。確かに昨夜も遅くまで練習し、ほとんど眠っていなかった。リュカは彼の隣に立ち、まな板の上の食材を見た。


「春原さんの上達は早いです。でも、このまま無理を続けると体を壊してしまいますよ」

「ありがとう。でも大丈夫だよ。仮眠はとってるし。それに、リュカさんは一人でずっと頑張ってきたんだから、僕もせめて……」


 言葉の途中で、春原はリュカの心配そうな表情に気づく。彼女の獣耳が心配そうに下がっていた。

 その時、厨房の入り口から別の声が聞こえた。


「また無理してるの? 春原」


 クラリスが腕を組みながら立っていた。彼女は赤いリボンで髪を結び、既にしっかりとした身なりで整えられていた。


「クラリスも早いね」

「当然でしょ。こんな朝早くから厨房でカンカン音してたら嫌でも起きるわよ」


 クラリスは春原の目の下のクマを見て、眉を顰める。


「あんた、また徹夜したでしょ。そんなんじゃ体持たないわよ」

「少しだけだよ。それに、試験まであと一ヶ月しかないから」


 春原が言い訳するように答えると、リュカとクラリスは顔を見合わせる。二人の間で何かが通じ合い、クラリスが大きく息をついた。


「はぁ……リュカ、どうする?」

「はい……そうですね」


 二人の謎めいた会話に、春原は首を傾げた。


「何の話?」


 リュカの獣耳が前に傾いた。


「春原さん。今日一日、休んでください」

「え? でも、朝の仕込みもあるし……」

「あー!! 休みなさいって! 本当にぶっ倒れるわよ?」


 クラリスがきっぱりと言った。


「でも、まだ……」

「春原さん」


 リュカの声には珍しく強い調子が混じっていた。


「無理をし過ぎると、倒れてしまいます。それは……私が身をもって知っていることです」


 リュカの言葉に、春原は反論できない。確かに彼女は過労で倒れたことがあった。そのときの恐怖は、今でも春原の記憶に鮮明に残っている。


「あんたにはこうでもしないと休ませられないでしょ」


 春原は負けを認めるように首を振った。


「うん。わかった……どうしようかな」


 リュカとクラリスはまた顔を見合わせた。リュカの獣耳が少し動く。


「今日は春原さんの自由な日です。ゆっくり休んでください」

「そうそう、料理のことは無しよ。少し、王都でも散策してきたら?」


 クラリスの提案に、春原は考え込んだ。王都に来てからというもの、東区と銀の厨房以外の場所をゆっくり見る機会はなかった。


「……せっかくだし、少し市場でも見て回ろうかな」


 春原がそう言うと、リュカの表情が明るくなった。


「それは良い考えです。新しい発見があるかもしれませんね」


 彼女の獣耳が嬉しそうに動いた。

 春原は頭を少し上げ、天井を見つめる。調理師試験のことが頭から離れない。しかし、リュカとクラリスの心配そうな表情を見ると、少し休むことも必要かもしれないと思い始めた。


「ありがとう、二人とも」


 そう言うと、リュカとクラリスの顔に安堵の表情が広がった。



◆◆◆◆◆◆



 王都の市場は、朝から人々で賑わっていた。春原は人混みの中を歩きながら、久しぶりの自由な時間をどう過ごそうかと考えていた。

 また書庫で料理本でも探そうかと考えていたが、それではリュカたちの意図に反する。


「とりあえず、屋台でも見てみようかな」


 春原はそう呟きながら、東区の市場の中心へと向かった。そこでは様々な屋台が軒を連ね、香ばしい匂いが漂っていた。

 ふと前方に目をやると、人混みの中で必死に立ち止まり、通行人の顔を覗き込んでいる少女の姿が目に入った。年齢は十歳に満たないくらいだろうか。茶色の髪を二つに結び、小柄な体で必死に人々の顔を見上げている。


 その必死な様子に、春原は思わず足を止めた。

 少女の表情には不安と焦りが入り混じっている。単なる迷子ではなさそうだった。

 少女は人々に声をかけているようだが、誰も彼女に注意を払わない。人混みの中で彼女の小さな声は攪拌されてしまう。


 春原は少女に近づき、優しく声をかけた。


「どうしたの? 何か探してるの?」


 少女は驚いたように振り返った。灰色がかった瞳が、警戒心を含んで春原を見上げる。


「……いや」


 彼女は素っ気なく答えた。しかし、その目は何かを必死に求めているように見えた。


「それとも誰か探してる?」

 春原が再び問いかけると、少女は少し躊躇してから答えた。


「お姉ちゃんを……探してるの」

 その言葉に、春原は優しく微笑んだ。


「お姉ちゃん?」

「お姉ちゃんが……いなくなったから」


 春原は少女の表情の変化に気づいた。彼女の目には悲しみと強い決意が混じり合っている。これは単なる迷子の話ではないようだった。


「僕の名前は春原祐一。君は?」


 少女は一瞬迷った後、小さな声で答えた。


「……ルナです」

「ルナさん、お姉さんとはぐれたの?」


 ルナは視線を地面に落とし、服の裾を握りしめながら声を落とした。


「ちがう、家に帰ってこなくなって……それで探してるの」


 彼女の声が震えた。春原は人混みの中でこの話をするのは適切ではないと判断し、近くのベンチを指さした。


「そうなんだ……よかったら、少し座って話さない? もしかしたら力になれるかもしれないから」


 ルナは警戒心を崩さなかったが、小さく頷いた。二人はベンチに座り、春原はルナの話に耳を傾けた。


「お姉ちゃんの名前は『ミラリア』っていうの。……三ヶ月前から帰ってこなくなって」


 ルナの声は小さく、時折震えている。


「だから、いろんな人に聞いて回ってて……でも、みんな知らないって」


 彼女の目に涙が浮かんだ。


「そのミラリアさんの情報は? どこにいるかとか…」

「わからない。だから毎日探してるの」


 春原はルナの決意に感動した。幼い妹が、行方不明の姉を一人で探し続けているのだ。しかし同時に、この少女が毎日市場の中を一人で彷徨っていることに不安も感じた。


「誰か手伝ってくれる人は?」


 ルナは首を横に振った。


「孤児院の人たちは『そのうち帰ってくるよ』って言うだけで、お姉ちゃんのこと何も教えてくれない」


 その言葉に、春原の胸が痛んだ。彼自身も異世界に来てからの孤独を知っている。誰も頼れず、理解してくれる人がいない感覚を。


「そっか……」


 春原は深く考え込んだ。今日は休日。しかし、目の前のこの少女を放っておくことなど彼には到底できなかった。


「ルナさん、よかったら僕が手伝うよ。 今日一日だけになってしまうけど」


 ルナの目が大きく開いた。


「本当?」

「うん、今日は一日空いてるから」


 ルナは信じられないという表情を浮かべたが、すぐに不信感が戻ってきた。


「でも、どうして?」


 春原は空を見上げた。


「僕も……この街に来たばかりの頃、独りで困っていたから。誰も頼れなくてね。でも、助けてくれる人が現れたんだ」


 彼はリュカと初めて出会った時のことを思い出していた。異世界で途方に暮れていた彼を助け、居場所を与えてくれた彼女のことを。


「だから、僕も困ってる人がいれば力になりたいんだ」


 春原の言葉に、ルナの表情が少し和らいだ。


「……本当に、手伝ってくれる?」

「うん、約束するよ」


 春原が笑顔で答えると、ルナの目に小さな希望の光が灯った。



◆◆◆◆◆◆



 春原とルナは、二人が住んでいたという南区の市場街へと向かった。ルナの話によれば、彼女と姉のミラは南区のスラム街から少し離れた地域で暮らしていたという。以前春原が迷い込んだ倉庫街は違い、昼間であれば人通りも多いため南区の中でも比較的治安の良い場所だった。


「ここの人たちなら、みんなお姉ちゃんのことを知ってるはず……」


 ルナが少し古びた通りを指差す。通りには小さな商店や露店のテントが点在し、東区の市場のような活気はないが、質素ながらも生活の温かさが感じられる場所だった。

 春原はルナの表情を見た。彼女の目には強い決意と不安が交錯している。妹にとって姉の存在がどれほど大きいか、よく理解できた。


「ミラリアさんはどんな人なの?」


 春原が尋ねると、ルナの表情が少し明るくなる。


「お姉ちゃんは優しくて強い人。髪は私と同じ茶色だけど、もっと長くて綺麗なの」


 彼女の声に誇りが混じった。春原はルナの言葉から、ミラの姿を想像した。強くて優しい姉の姿が浮かんでくる。

 そして二人は小さなパン屋の前で立ち止まる。店先では粗暴そうな見た目の男性が働いていた。腕には刺青が見え、顔には古い傷跡がある。一見すると怖そうな印象だが、彼は丁寧に商品を並べていた。


「あのおじさん、パンをよくくれたの」


 ルナが小さな声で言った。春原は彼女に頷き、一緒に店に近づいた。


「すみません、お話を聞いてもいいですか?」


 春原が声をかけると、店主は彼らに気づき、一瞬驚いた表情を見せた。そして、ルナを見た途端、その表情が複雑に変化し店主の荒々しい顔に、思いがけない優しさが浮かんだ。


「私、お姉ちゃんを探してるの。……あ、お姉ちゃんの名前は、ミラリアっていいます」


 ルナが真っ直ぐに店主を見つめた。


「……ああ、君はミラの……」


 店主の言葉に、物悲しさと温かさが同居していた。彼はルナを見つめ、深いため息をついた。


「すまない。俺は知らないんだ。お姉ちゃん、早く見つかるといいな」


 その言葉に、春原は微かな違和感を覚えた。店主の目は何かを隠しているようだった。悲しみと同情、そして何か……罪悪感のようなものが。


 他の店でも同様だった。ミラリアの名を出すと、店の人々は一様に複雑な表情を見せた。誰もが「早く見つかるといいね」と言いながらも、その目には何か言葉にできない感情が浮かんでいた。


 古い八百屋では、年配の女性が涙ぐみながらルナの頭を撫でた。


「ごめんよ。私も彼女がどこに行ってしまったか知らないんだ。でも、本当にいい子だったよ……」


 過去形で語られる言葉に、春原は眉をひそめた。しかし、ルナはそれに気づかず、希望を持って次の店へと向かう。


 靴屋の主人は、ルナに小さな飴玉を渡した。


「そうか、この子はミラの……」


 言葉を途切れさせる店主の目には、深い悲しみが宿っていた。

 春原は次第に理解し始めた。この南区の人々は皆、ミラリアのことを知っている。しかし、彼らは何か重要なことをルナに隠しているようだった。それは単なる無関心ではなく、むしろ深い配慮から来るものに思えた。


 ──そして、ミラリアのことを『ミラ』と呼ぶ南区の人たち。春原はその人物に心当たりがあった。


 日が傾き始め、オレンジ色の光が街を照らし始めた頃、ルナの肩が少し落ち始めた。

 疲れと失望が彼女を包んでいる。


「今日も見つからなかった……」


 彼女はもう耐えられなくなったように、その場にしゃがみこんだ。小さな肩が震える。春原は彼女の横にしゃがみ、優しく背中をさすった。


「ルナさん……」


 彼は何と声をかければいいのか分からなかった。約束も希望も、この少女の悲しみを癒すには力不足だ。

 しかし、彼にできることが一つあった。異世界にきて、無力だと現実を付けつけられた彼にとって、誰かと気持ちを通わせる手段。


「ルナさん、僕の働いてる店に行かない? そこで何か一緒に食べよう」


 ルナは涙で濡れた顔を上げた。


「……お店?」

「うん、『銀の厨房』っていうんだ。とっても美味しい料理が食べられるんだ」


 春原は立ち上がり、ルナに手を差し出した。


「今日はもう遅いし、疲れたでしょ? 明日また探そう」


 ルナは少し迷った後、春原の手を取った。彼女の小さな手は冷たく、少し震えていた。



◆◆◆◆◆◆



 銀の厨房に戻ると、リュカとクラリスは驚いた表情を浮かべた。春原が見知らぬ少女を連れて帰ってきたからだ。


「春原さん、この子は?」


 リュカが優しく尋ねた。彼女の獣耳が前に傾き、好奇心を示している。


「彼女はルナさん。今日市場で出会ったんだ」


 春原は簡単にルナの状況を説明した。行方不明の姉を探す孤児の少女の話に、リュカの翡翠色の瞳が深い理解を示した。


「そうだったんですね……」

「事案ね。あんた、痛いけな少女を連れ回して、あまつさえ『お店に来ませんか』って、側から見れば誘拐じゃない」


 クラリスが腕を組み、鋭い目で春原を見つめた。


「いや! 違う違う! 一緒に探してたんだって!」


 春原は慌てて両手を振った。頬が赤く染まっている。


「よかったわね、警備隊に見つからなくて。そういう趣味の男だと思われて豚箱送りよ」


 クラリスの言葉に、春原は更に慌てる。

 ルナは少し困惑した表情で二人のやり取りを見ていた。


「お兄ちゃんは……悪い人じゃないよ。お姉ちゃんを探すの、手伝ってくれた」


 ルナの純粋な言葉に、クラリスは微笑んだ。


「冗談よ。春原がそんな人じゃないことくらい分かってるって。まあ、ちょっとお人好しすぎて心配だけど」

「それが春原さんのいいところですから。……ルナちゃん、何か食べたいものはありますか?」


 リュカはルナに優しく微笑みかけた。

 ルナは恥ずかしそうに首を振った。しかし、彼女の目はリュカの獣耳を不思議そうに見つめていた。


「獣人さん……」


 その言葉に、リュカの獣耳が少し動いた。彼女は優しく笑った。


「はい、そうです。獣人のリュカです」


 ルナは少し緊張した様子だったが、リュカの翡翠色の瞳を興味深そうに眺めると、すぐに表情が和らいだ。


「綺麗なおめ目……」

 彼女の素直な言葉に、リュカの頬がほんのり赤くなった。


「え、あ、はい……ありがとう……ございます」


 クラリスも前に出て、ルナに自己紹介した。少女は最初こそ緊張していたが、三人の優しい態度に少しずつ打ち解けていった。


「とりあえず、何か食べましょうか」


 リュカが厨房に立ち、炉に火にかけた。春原は彼女の隣に立ち、手伝いを申し出る。


「何か作る?」

「はい、黎明市で作った『羊肉の香生地巻き』にしようかと」


 リュカの言葉に、春原の目が輝いた。


「『羊肉の香生地巻き』は久しぶりだね。僕も手伝うよ」


 二人は協力して調理を始めた。春原は包丁を持ち、材料を切り分ける。その動きはまだ不慣れだが、以前よりずっと上達していた。リュカはそんな春原を横目で見ながら、優しく微笑んだ。

 ルナはテーブルに座り、クラリスと話をしていた。彼女の表情は、ここに来てから少し明るくなったように見える。


「本当に、いい子ね」

 クラリスが小声で厨房にいる二人に言った。


「ええ、ルナちゃん。とても強い子です」

 リュカも頷いた。


 羊肉の香生地巻きが完成すると、香ばしい匂いが店内に広がった。リュカが丁寧に盛り付け、ルナの前に置いた。


「どうぞ、召し上がってください」


 ルナは目を丸くして料理を見つめた。美しく盛り付けられた料理に、彼女は戸惑いを見せた。


「いいの?」

「もちろん。ルナさんのために作ったんだよ」


 春原が優しく答えた。

 ルナは恐る恐る箸を取り、一口食べた。途端に、彼女の目に涙が浮かんだ。


「わぁ! 美味しい……」

 二口目を急いで口に運び、頬を膨らませた。彼女の小さな体が熱い料理の温もりを受け入れるように、わずかに震えている。


「あのね! お姉ちゃん、帰ってきたら一緒にご飯を食べる約束してるの!」


 ルナは料理を味わいながら、少しずつ話し始めた。


「お姉ちゃんはね、いつも私のために料理を作ってくれたの。帰りが遅い時が多かったけど、ちゃんといつもご飯を作ってくれるの!」


 彼女の言葉に、春原は静かに耳を傾ける。


「いつも『食べ物は心も体も温めるんだよ』って言ってたの。だから、ちゃんとご飯は食べなさいって!」


 ルナの目に懐かしさが浮かんだ。


「お姉ちゃんに早くかえってこないかなぁ」


 彼女の声が震えた。しかし、それは絶望的な震えではなく、決意を秘めた震えだった。

 春原はルナの強さに感動した。どんなに辛くても、希望を捨てない彼女の姿に。


 しかし同時に、胸の奥に広がる不安な予感を払拭できずにいた。南区で出会った人々の複雑な眼差し、言葉の端々に滲む何か、そして何よりも「ミラリア」の名を口にした時に一瞬だけ彼らの顔に浮かぶ影のような感情。それらが春原の心の中で重なり、形にならない不安となって渦巻いていた。まるで皆が知っていて、ただ口にしたくない真実があるかのように。


 食事が終わり、春原がルナに声をかけた。


「ルナさん、孤児院まで一緒に帰ろうか。多分、みんなも心配してるから」


 ルナは小さく頷いた。


「うん! ありがとう、お兄ちゃん。美味しかった!」


 準備を整え、春原がルナを送ることになった。店の前で、クラリスとリュカが二人を見送る。


「また来てね、ルナちゃん」

 リュカが優しく言った。


「うん!」


 ルナの表情には、少し明るさが戻っているようだった。



◆◆◆◆◆◆



 夕闇が街を包み始める頃、春原とルナは孤児院に到着した。「エマニュエル孤児院」と書かれた古びた看板が、薄暗い門の上に掛かっている。建物は質素ながらも清潔に保たれていた。

 門の前には、白い服を着た女性が立っている。彼女は不安げに周囲を見回し、誰かの帰りを待っているような様子だった。


「ルナ!」

「シレネ先生……」


 女性はルナを見つけるとすぐに駆け寄り、安堵の表情を浮かべた。彼女の顔には疲労の色が見えたが、優しさに満ちた目がルナを見つめていた。


「心配したのよ。こんな時間まで何していたの……」


 シレネと呼ばれた女性は厳しさの中にも安堵を滲ませながら言った。そして、彼女の視線が春原に向けられた。


「……ごめんなさい。お姉ちゃんを探してて、それで……」


 ルナは小さく頭を下げた。彼女の表情には、少しの罪悪感が浮かんでいる。


「ひとまず安心したわ……ところであなたは?」

「春原祐一と申します。ルナさんを市場で見かけて、少し手伝ったんです」


 春原が頭を下げると、シレネは複雑な表情を浮かべた。


「ご親切にありがとうございます。すみません、私一人しかおらず、ほかの子達もいるため、ここを離れるわけにもいかず……」

「いえ、そんな……お役に立てて良かったです」


 春原が答えると、シレネはルナの肩に手を置いた。


「ルナ、先に中に入りなさい。他の子たちも心配しているわ」


 ルナは一瞬躊躇したが、小さく頷いた。しかし、孤児院の中に入る前に、彼女は春原の方に振り返った。


「お兄ちゃん、また会える?」


 その問いかけに、春原は優しく微笑んだ。


「もちろん」


 ルナの表情が少し明るくなり、彼女は小さく手を振ると、孤児院の中へと消えていった。ルナが見えなくなると、シレネの表情が一変した。疲れと悲しみが、彼女の顔に浮かび上がる。


「春原さん、でしたね。あの子……ルナについて、少しお話してもよろしいでしょうか」


 シレネの声には、何か重要なことを伝えたいという意志が感じられた。春原は頷き、孤児院の門近くにあるベンチに彼女と共に腰を下ろした。


「あの子は……何かあったのですか?」


 春原が静かに尋ねると、シレネは一瞬思い詰めたような表情を見せ、決意した面持ちで口を開いた。


「彼女の姉、ミラリア……皆からは『ミラ』と呼ばれていた女性のことを、ルナが話しましたでしょうか?」

「はい。三ヶ月前から行方不明になったと……」


 シレネの目に悲しみが浮かんだ。彼女はしばらく沈黙した後、静かに語り始めた。


「ミラリアとルナは、二人だけで南区で生きてきました。五年ほど前に両親を亡くしてから、ミラリアが必死に妹を守ってきたのです」


 シレネの声は、思い出を辿るように柔らかくなった。


「ミラリアは聡明で、強い子でした。南区で困っている人がいれば薬代を渡したり、この孤児院にも支援を続けてくれていました」


 春原は黙って聞いていた。南区の人々の反応が、少しずつ理解できるような気がしていた。


「しかし、そのお金が……どこから来ているのか、皆は気づいていました。それが公にはできないところのお金だということも。それでも私たちは誰一人、彼女を責めることはできませんでした」


 シレネの声が少し震えた。


「南区で生きていく私たちは、互いを助け合って生きていくしかありません。彼女が私たちを支えてくれていたこと、その尊い想いを、否定などできましょうか」


 春原の胸に、重い感情が広がっていく。


「そして、三ヶ月前……」


 シレネの言葉が途切れた。彼女の目に涙が浮かんでいる。


「ミラリアは……旅立ってしまいました」


 「旅立つ」という言葉の意味を、春原は理解した。ルナの姉はもういない。そして、彼の脳裏に一つの可能性が閃いた。酒場で金貨を盗んだ女性、倉庫で春原を庇った『ミラ』という人物。彼女がルナの姉だったのではないかという思いが、春原の胸を締め付けた。


「ルナさんには……?」

「伝えられなかったのです。伝えれるはずもありません……」


 シレネの声は絞り出すように小さかった。


「あの子は姉を本当に慕っていました。ルナにとって、もう家族はミラリアだけです。姉がいなくなった世界で、この幼い子がどうやって希望を持って生きていけるでしょう。彼女の心を守ることが、私たちに残された唯一の恩返しなのです」


 春原は静かに目を閉じた。南区の人々の複雑な表情、過去形での語り、そして「早く見つかるといいね」という言葉。すべてが繋がった。


「南区の皆が、あの子のために……」


 春原の言葉に、シレネは悲しげに頷いた。


「はい。皆、ルナの前では『ミラが見つかりますように』と言いながら、彼女を見守っているのです」


 春原の心に深い悲しみが広がった。ルナの願いが叶わないことを知りながら、それでも彼女の希望を守ろうとする人々の優しさに、胸が締め付けられる。

 シレネとの会話を終え、春原は孤児院の広場に佇むルナの姿を見つけた。彼女は空を見上げ、星に何かを語りかけているようだった。


 その姿を見て、春原の胸に熱いものが込み上げてきた。


 異世界に来たばかりの頃、彼自身も孤独だった。何もかもが分からず、不安と恐怖の中で過ごした日々。しかし、彼の孤独とルナの孤独は根本的に違う。彼には少なくとも真実があった。現実を知り、それに向き合う選択肢があった。


 けれどルナは違う。彼女の孤独は、戻らない姉を待ち続ける、果てしない希望の中にある。その希望は嘘に支えられている。


 春原は固く唇を噛んだ。

 この世界で彼は様々な嘘に触れてきた。しかし、今日知った「嘘」は、彼の心を深く揺さぶった。誰かを傷つけるための嘘ではなく、彼女を守るための嘘。深い愛情から生まれた「優しい嘘」だった。


 そして今、彼もその一人になろうとしていた。

 彼女にはいつか真実を知る時が来るだろう。


 ──しかし今はまだ、その時ではなかった。


 春原はそっと深呼吸し、ルナへと歩み寄った。


「ルナさん」


 彼の声に、ルナは振り返った。夜の闇の中でも、彼女の目は星のように輝いていた。


「あれ? お兄ちゃん……もしかして、シレネ先生怒ってた?」

「ううん、違うよ。帰る前に約束しておきたくて」


 春原はルナの前にしゃがみ、彼女と目線を合わせた。



「また一緒にお姉ちゃんを探そう。次は僕の休みの日に、もっとたくさんの場所を回ろう」



 その言葉にルナの目が希望で輝いた。


「本当に?」

「約束する」


 春原は微笑んだ。それは悲しみを含んだ笑顔だったが、同時に強い決意も宿っていた。

 彼はルナの頭を優しく撫でた。


「だから、一人で出歩くのはやめてね。その時は僕も一緒に探すから」


 ルナは小さく頷いた。


「うん……約束する」


 彼女の言葉に、春原は安堵のため息をついた。そして、もう一つ大切なことを思い出した。


「そうだ、またお店にも来てね。リュカさんもクラリスも待ってるから」


 ルナの表情が明るくなった。


「うん、絶対! お姉ちゃんも帰ってきたら一緒にいくね!」


 その言葉に、春原は胸が痛んだ。彼女の無邪気な希望を前に、真実を知る者としての切なさが彼の胸を締め付けた。しかし、彼は笑顔を保ったまま頷いた。


「……じゃあ、またね」

 春原が立ち上がると、ルナは何度も手を振った。


「バイバイ、お兄ちゃん!」


 孤児院を後にする春原の胸には、複雑な感情が渦巻いていた。悲しみ、無力感、そして微かな罪悪感。彼にできることは限られている。しかし、少しでもルナの支えになれるのなら。

 空を見上げながら、春原は決意を新たにした。調理師試験のために学ぶこと。リュカの隣に立つと誓った決意。そして、ルナの希望を守ること。


 星空の下、彼の胸に新たな約束が静かに刻まれていく。誰かに言葉で誓ったわけではないが、彼の心にはもう、確かな重みとして存在していた。この異世界で、彼がこれから守っていくべきもの、守らなくてはいけないもの──その数が、また一つ増えたのだった。



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