第4章 間話:心配性の仲間たち(1)
2025/08/26:誤字修正
晴れ渡った陽光が屋根裏を淡く照らし、埃の舞う空気の中で、三人の姿が忙しなく動いていた。クラリスが『銀の厨房』の従業員として住み込みを始めてから数日が過ぎ、本格的な引っ越しのため屋根裏部屋の清掃を行っていた。
「ふう……思った以上に時間がかかりそうね」
クラリスは額の汗を拭いながら、窓から差し込む光に浮かぶ埃を見つめた。屋根裏部屋は意外と広く、長い間使われていなかったのか、様々な物が無造作に積まれていた。
「これを全部片付けるのは大変そうですね……少し整理して端に寄せましょうか。それで、クラリスさんの寝泊まりする場所は確保できそうです」
リュカは埃をかぶった古い箱を丁寧に持ち上げながら言った。彼女の獣耳はピクリと動き、箱の中の物音に反応している。
「ああ、僕が持つよ」
春原が手を伸ばすと、リュカが箱を差し出した。
「はい、春原さん。気をつけてください、少し重いので」
「わかっ……うっ!?」
箱を受け取った瞬間、予想以上の重さに春原は腰を抜かしそうになる。慌てて体勢を立て直したが、彼の顔は一瞬で真っ赤になっていた。
「だ、大丈夫? そんなに重かったの?」
クラリスが驚いた表情で春原を見る。リュカは少し困ったように獣耳を動かした。
「すみません、……私にはそれほど重く感じなかったので」
「い、いや、大丈夫だよ……僕の方こそ、鍛えないと」
その言葉にリュカは少し申し訳なさそうな、恥ずかしそうな表情を浮かべ、獣耳は垂れ下がっていた。
「はぁ……春原、あんた、もう少し気を使いなさいよ」
「いや、違うくて! 最近、試験に向けて机に向かってたから鈍ってるのかな! ははは……は」
春原の無理な笑いに、クラリスは呆れたように首を振った。リュカは春原の言葉に少し照れた様子で、獣耳がピクピクと動いていた。
そして箱を置いた場所の近くで、クラリスが別の小さな木箱を見つけた。他の家具や箱と違い、埃のかぶっていない木箱を開けると、中には何冊もの古い帳簿が整然と並んでいた。
「ねえ、これってもしかして」
クラリスが一冊取り出し、ページをめくる。そこには美しい文字で記された数字の羅列と、日々の収支が丁寧に記録されていた。
「それは『銀の厨房』の過去の帳簿ですね。そこの箱にまとめているんです」
リュカが答えながら、別の箱を持ち上げる。彼女の動きは軽やかで、獣人としての身体能力の高さが伺える。
「へえ……」
クラリスは商人の目で帳簿を興味深く眺めていた。
「ねえ、リュカ。この帳簿、時間がある時に見て構わない?」
「はい、もちろんです。特に秘密にするようなものではありませんので」
リュカは微笑みながら答えた。
「ありがとう。ちょっと経営状況を把握しておきたくて」
クラリスは満足そうに頷く。商会で培った商人としての感覚が刺激されているようだった。
「そろそろ開店の準備をしないといけませんね。私は先に下へ行っておきますでの、お二人はそのまま続けてください」
リュカは時計を確認し、埃で汚れた手を拭いながら言った。
「うん、ごめんね。私の都合なのに付き合わせちゃって」
「いえ、頑張ってくださいね。春原さんもお願いします」
リュカは二人に笑顔を向け、階段を降りていった。彼女の姿が見えなくなると、部屋には春原とクラリスだけが残された。
時間が経つにつれ、部屋は少しずつ片付いていき、クラリスの荷物を置くスペースが確保されてきた。春原はホコリまみれになりながらも、棚を組み立て、古い家具を移動させていた。
「ふぅ……だいぶ片付いてきたね」
春原は額の汗を拭いながら、満足げに部屋を見回した。しかし、彼の視線の先にあったのは、床に広げられた複数の帳簿と、その前で真剣な表情で何かを調べているクラリスの姿だった。
「えぇ……クラリス、片付けてないじゃん。むしろ散らかってる……」
春原の言葉にも反応せず、クラリスは複数の帳簿を並べ、何かを比較するように指で行を追っていた。その真剣な表情に、春原は声をかけることをためらった。
「おかしいわね……この収入の出所は一体……」
クラリスは帳簿を並べ、額に皺を寄せながら呟いた。春原が彼女の横にしゃがみ込む。
「どうしたの、クラリス? 難しい顔して」
「ちょっとこれ見て。二年前くらいから不定期に収入があるの」
クラリスは指で帳簿の一行を指す。そこには確かに、「その他収入」という項目で収入の記録がされてあった。
「収入? ほんとだ、それも結構な額のものもあるね。単に店の売り上げとかじゃなくて?」
春原が興味を持って帳簿を覗き込む。
「その可能性もあるけど、『その他収入』としか書かれてなくて、詳細が全くないの……最近も何度かあるみたいだし」
クラリスは商人らしい鋭い目で帳簿の数字を追っていた。
「あれ? そういや、この日って確か深夜にリュカさんが出かけていたような」
春原がふと思い出したように言う。クラリスは驚いて顔を上げた。
「ちょっと待って、それどういうこと? 詳しく」
「たまに深夜、こっそりと抜け出すことがあって……隠れながら裏口から出ていくもんだから何か隠したいことがあるのかと思って、何か聞いたりはしてないけど」
春原は少し気まずそうに答える。リュカのプライバシーに踏み込むことに後ろめたさを感じているようだった。
「あわわわ……それって」
クラリスの顔が突然青ざめる。
「そんな狼狽えてどうしたの? 直接、リュカさんに聞いてみたら?」
春原は肩をすくめながら提案した。しかし、クラリスは慌てた様子で首を横に振る。
「聞けるわけないじゃない!! もしかしたら……よくない商会とか組織の危ない仕事させられてるんじゃ! それか貴族たちに……」
「ど、どういうこと?」
春原はクラリスの深刻な表情に驚き、不安を感じ始めた。
「ちょっと耳かしなさい!」
クラリスは春原の耳元に顔を近づけ、小声で何かを囁いた。
「ゴニョゴニョ……」
春原の顔色が一瞬で変わる。
「え!! そんな! リュカさんがそんな目に……」
春原は驚愕と心配で声を上げた。
「このことは絶対リュカに聞いちゃダメよ! 次、深夜に裏口からこっそり出た時があったら尾行しましょう!」
クラリスは決意に満ちた表情で言った。
「でも、それってリュカさんの個人的な事情じゃ……」
「あんた、もしもリュカが危険な目に遭っていたら、助けないわけ?」
クラリスの鋭い言葉に、春原は言い返せなくなる。
「いや……絶対にそんなことはしないよ」
「なら決まりね。私たちの大切な友達を守るんだから」
クラリスは立ち上がり、床に散らばった帳簿を集め始めた。彼女の表情には決意と心配が混ざり合っていた。
春原もため息をつきながら立ち上がる。リュカの秘密を探ることに後ろめたさを感じつつも、彼女が本当に危険な状況にあるなら、何としても助けなければならない。その葛藤が彼の表情に表れていた。
二人は黙って掃除を続けたが、その間も互いの心には一つの疑問が渦巻いていた。 ──深夜、リュカは一体どこへ行き、何をしているのか?
◆◆◆◆◆◆
それから数日後の深夜、春原は自室のベッドで目を閉じたまま横になっていた。しかし、彼の意識は完全に冴えている。耳を澄まし、廊下から聞こえる物音に集中していた。
「……」
微かな足音、下の厨房で何やら準備をしている物音、そして静かに閉まるドアの音。リュカが動き始めたのだ。春原はそっと起き上がり、窓から外を覗いた。
月明かりの下、黒いフードを深く被った人影が『銀の厨房』の裏口から出ていくのが見える。間違いなくリュカだ。彼女の獣耳は完全にフードに隠されていた。
「行った……」
春原は急いで部屋を出て、階段を上り、屋根裏のクラリスの部屋をノックした。しかし、返事はない。
「クラリス、起きて。リュカさんが出かけたよ」
小声で呼びかけるが、返事はない。仕方なく、春原はドアを開けた。
「クラリス! 入るよ」
クラリスはベッドで完全に熟睡していた。春原は肩を揺すって起こそうとするが、まったく反応がない。彼女の寝顔は、日中の鋭い表情からは想像もつかないほど穏やかで、時折「むにゃむにゃ」と寝言を漏らしている。
「クラリス! ほら、約束したでしょ! いくよ!」
何度か強く揺すると、ようやくクラリスがうっすらと目を開けた。しかし、その瞳はまだ現実を捉えていない。
「んん……何よ……契約は取れなかったからって夢にまで出てこないでよ春原……まだ夜中じゃない……まだ寝る」
そう言うと、クラリスは再び目を閉じ、毛布を頭までかぶろうとした。
「もう! リュカさんが出かけたんだって。ほら、早く!」
春原は毛布を引っぺがし、寝ぼけた表情のクラリスを強引に起こすと、彼女の手を引いて部屋から連れ出した。クラリスはふらふらと、まるで操り人形のように春原に引かれる。
「え? ちょっと……寝巻きのままじゃ……靴も……髪も……」
クラリスは片手で顔をこすりながら、もう片方の手を春原に引っ張られ、階段をよろよろと降りていく。彼女の足元はおぼつかなく、何度か転びそうになった。
「見失っちゃう! 靴はこれ履いて、髪はそのままで大丈夫だから!」
春原は焦って、クラリスの腕を引っ張る力を強めた。クラリスは羽織るものも持たず、白い寝巻き姿のまま、素足に簡易的な服装で外へと連れ出された。
外に出ると、夜の冷気が二人の体を包み、クラリスの意識も少しずつ冴えてきた。彼女は急に状況を理解し、両腕で身体を抱きしめた。
「ひゃっ! 寒っ! ちょっと春原! こんな姿で外に出すなんて! あんた女の子の扱い方知らないの!?」
クラリスの叫び声に、春原は慌てて彼女の口を手で塞いだ。
「しーっ! リュカさんに気づかれるよ!」
春原は自分の上着を脱いで、クラリスに羽織らせた。リュカの姿は遠くに小さく見える程度になっていた。
「あれは確かにリュカね……って、あれ? 私、なんでここにいるの?」
クラリスは寝ぼけまなこで辺りを見回し、徐々に状況を把握し始めた。
「このまま、こっそり追いかけよう」
二人は物陰に隠れながら、リュカの後を追った。魔導灯よりも月明かりが強く照らす静かな東区の通りを、リュカは幽霊のように音もなく進んでいく。
「やっぱり何か隠してるような感じね」
クラリスはひそひそ声で言った。
「でも、こんな夜中に一体どこへ……」
春原が心配そうに答える。リュカは時折振り返るので、二人は慌てて物陰に身を隠さなければならなかった。東区の街道を抜け、彼女は次第に中央区の方向へと向かっていった。その道筋に、春原とクラリスは顔を見合わせる。
「待って、この方向って……」
クラリスが小声で言った。
「中央区?」
春原が答える。二人はますます緊張感を高めながら追跡を続けた。
やがてリュカは東区と中央区の境界近くにある古い建物の前で立ち止まった。少し迷うようにその場に佇んだ後、彼女は扉に向かって歩いていく。
「あれは……」
春原が遠くの看板を指差した。薄暗い街灯の下でかろうじて読める文字。
「冒険者協会!?」
クラリスが驚いて声を上げそうになるのを、春原が慌てて手で口を抑えた。
二人は物陰から見守る中、リュカが冒険者協会の中に入っていくのを見た。
「冒険者協会って、今は需要が少なくてひっそりやってるって聞いたけど……」
クラリスは不思議そうに呟いた。
「冒険者協会って、傭兵だったり魔物退治するあれのこと?」
春原はクラリスに疑問を投げかける。彼にとって、この異世界の知識は、自分の目で見たものと、王宮の書庫で見たものしか持ち合わせていなかった。
「そうよ。でも戦争が終わってから、傭兵の仕事もめっきり減ったし、王都近隣は王国の警備隊が管理してるから、魔物退治の仕事も今は全然らしいわ」
「そうなんだ、じゃあリュカさんはなんでそんなところに……」
「まさか、リュカ……野蛮人たちに……」
クラリスの声は震えていた。
「野蛮って……冒険者は確かに荒っぽい印象だけど……そうと決まったわけじゃ」
春原は彼女の不安を和らげようとした。しかし、クラリスはさらに顔色を悪くする。
「違うわよ! 獣人の女の子を……その、えーと……ああ!!」
クラリスの言葉に、春原も顔を強張らせた。
「クラリス、落ち着いてって! まだ何も分からないよ」
春原は冷静さを保とうとしたが、内心では同じ不安を感じていた。
「でも、深夜にこっそり冒険者協会なんて……普通じゃないわ。あわわ」
クラリスは落ち着きなく手を動かした。
二人は顔を見合わせ、無言のうちに意思を確認した後、恐る恐る冒険者協会の扉へと向かった。
◆◆◆◆◆◆
冒険者協会の中は薄暗く、薄暗い魔導灯だけが空間を照らしていた。カウンターには一人の若い女性が座り、何やら書類を整理している。彼女は二人が入ってきた気配に気づき、顔を上げた。
「あら? こんな時間に珍しいですね」
受付嬢の声は意外と明るく、春原とクラリスは少し緊張を解いた。
「あの、さっき獣人の女の子が……」
春原が恐る恐る尋ねる。
「ああ、リュカちゃんのこと? それなら先ほど城壁外に向かいましたよ」
受付嬢は何の疑問も持たずに答えた。しかし、その言葉に二人は凍りついた。
「城壁外!?」
クラリスは驚きのあまり叫んだ。
「ええ、いつものことですから。本当に頼りになる子で……それで、あなた方は?」
受付嬢は温かな笑顔を浮かべながら言った。その表情には悪意や裏表は全く感じられない。
「えっと、彼女の友人です……それで、いつものとは?」
春原が戸惑いながら聞き返す。
「月に何度か、依頼を引き受けてくれるんです。他の冒険者が嫌がる深夜の仕事も……」
「リュカが冒険者の仕事を!?」
クラリスの驚きの声に、受付嬢は首をかしげた。
「ええ、もう二年くらいになりますかね……ご存知なかったですか?」
春原とクラリスは顔を見合わせた。二年前からということは、帳簿に記録されていた不思議な収入の始まりとちょうど一致する。
「ああ、そうそう。リュカちゃんにいつもありがとうって伝えてください。先日の差し入れのお弁当、みんな喜んでましたから」
受付嬢の言葉に、クラリスは目を丸くした。
「お弁当?」
「ええ、たまに作ってきてくれるんです。『みんな夜遅くまでお疲れ様です』って」
受付嬢は嬉しそうに笑う。クラリスの顔から疑念の色が少しずつ消えていく。そこにあったのは、リュカの優しさを示す別の証拠だった。
「え、じゃあリュカは別に……えっと……変なことをさせられてるわけじゃ……」
クラリスは言葉を選びながら尋ねる。
「変なこと? いいえ、リュカちゃんは立派な冒険者ですよ。最近は魔物退治の依頼が少ないですが、彼女は腕が立つので、難しい依頼も任せられるんです」
受付嬢の説明に、二人はほっと安堵の息をついた。少なくとも、クラリスが心配していたような恐ろしい状況ではなさそうだ。
「城壁外って、どの辺りですか?」
春原が心配そうに尋ねる。
「東区の城門から出た先にある街道脇の森付近です。最近ジャイアント・ベアが出没してましてそれの退治ですね……」
受付嬢の言葉に、クラリスと春原の顔から血の気が引いた。心配の内容が変わっただけで、状況はさらに深刻かもしれない。
「ジャイアント・ベア!?」
クラリスの声は震えていた。
「そうなんですよ。行商人がたびたび被害にあってるようでして、それで王都から協会へ依頼があったんです」
受付嬢は淡々と説明するが、それを聞いた二人の表情は恐怖に変わっていた。
「リュカさんは一人で?」
春原が心配そうに尋ねる。
「ええ。協会としても、ちゃんと実力を見て依頼していますから、今回はリュカさんであれば問題ないと判断しています」
「どうする?」
春原が小声でクラリスに尋ねる。
「決まってるじゃない。追いかけるわよ!」
クラリスの目には決意の光が宿っていた。彼女はもはや眠気なんてものは忘れ、友人を心配する気持ちだけでいっぱいだった。
「東区の城門って、この先をまっすぐですよね?」
春原が受付嬢に確認する。
「ええ、ですが——」
「ありがとうございました!」
クラリスは春原の手を引き、二人は協会の扉へと駆け出した。
「あ! ちょっと! 危ないですので街道脇の森の中には入らないようお願いします! それになぜ寝巻き……」
受付嬢の声は、閉まりかけの扉の向こうに置き去りにされた。二人はすでに月明かりの下、東区の城門へと急いでいた。その先に待つ真実と危険に、心臓が高鳴っていた。




