第4章 間話:呼び方のぎこちなさ
クラリスが『銀の厨房』の従業員として、初日の営業終わりを迎えた頃──
『銀の厨房』は、一日の喧騒が過ぎ去り、静かな余韻だけが残っている。
リュカと春原が翌日の仕込みと掃除を終え、クラリスは椅子に深く沈み込み、疲れた様子で横たわっていた。そして、リュカは丁寧に布巾を畳みながら、穏やかな声で言った。
「……今日はこれで終わりにしましょうか。クラリスさん、初めての日、本当にお疲れ様でした」
春原はエプロンを外しながら、同意するように頷いた。
「そうだね。お客さん多かったけど、クラリスのおかげで助かったよ。初日から大活躍だったね」
クラリスは椅子に全身を投げ出して、大げさに息をつく。
「だぁーー!! 疲れたわぁ……こんなに足が痛くなるなんて! 商会にいた時より動き回ったわ……」
彼女は頭を振り、髪を乱れさせながら、全身の疲労を訴えていた。その様子に、リュカは温かな微笑みを浮かべる。
「では、軽く晩ごはんを作りますので、そのままお待ちいただければ。今日の労をねぎらって」
リュカの言葉に、春原も立ち上がり、彼女の隣に立つ。
「僕も手伝うよ。クラリスはゆっくり休んでて」
小さな厨房で、リュカと春原が手際よく動く。クラリスはテーブルに移動し、二人の様子を興味深く観察していた。その息の合った様子には、確かな信頼関係が築かれていることが見て取れる。
「『春原さん』、この野菜達を一口大で切っていただけますか」
リュカの声は柔らかく、しかし丁寧だった。
「わかったよ。……この場合、『リュカさん』は野菜の面取りはする?」
春原は真剣な表情で尋ねる。
「煮込みでは基本的に面取りはするようにしています」
「煮込みの場合か……『リュカさん』は、焼きの場合でも面取りするようにしているよね?」
「はい。野菜は彩も兼ねますので、盛り付けの際の見た目の良さのために処理しています。ここは私のこだわりなので、『春原さん』はお好きなようにしていただければ」
その会話を聞いていたクラリスは、椅子から身を起こし、興味深そうに二人を見つめた。
「あんた達って、出会ってからどれくらい経つの?」
その質問に、春原はリュカの方を見た。
「えーと、確か王宮から離れてだから……」
「はい、私が王宮の奉公から帰ってきた時のですので、二ヶ月ほどですね」
「ふーん、それなのにまだお互い『さん』付けで呼び合ってるのね」
クラリスの放った言葉に、春原は少し戸惑ったように答える。
「え? 言われてみれば、出会った時からずっとそうだし……」
「なら、この機会にもっと親しくなる為に『さん』を付けるの辞めたらどう? 私たち三人、これから一緒に働くんだし」
クラリスの提案に、リュカは少し困ったように獣耳を動かした。
「そうです……ね。私は、どのように呼んでいただいても構いませんので」
クラリスは立ち上がり、親しげな様子で言った。
「じゃあ、試しに私から! リュカ!」
「はい。クラリスさん」
「って『さん』がついてるじゃない? ちょっと距離感じちゃうかも」
リュカは急いで言い訳するように答えた。
「いえ! 決してそういうわけではなく、私はこちらの方がしっくりきますので……」
クラリスは少し考えた後、納得したように頷く。
「……うん、まあいいか。リュカらしいといえば、リュカらしいし」
そして彼女は視線を春原に向けた。
「じゃあ次は春原! 私とはもう、大丈夫だし……というか、『春原祐一』の名前ってこの辺りじゃ珍しいわよね」
「そ、そうだね。遠いところからきてるから……だから、ちょっとこの国とは名前の形が違うんだよね」
春原は少し緊張した表情を見せる。異世界から来たことを隠しつつ、話題をそらそうとしてのことだった。
「名前の形? どういうこと?」
「僕の国では、苗字と名前が逆なんだよ。だから、この国だと『ユウイチ・スノハラ』が正しいかな」
クラリスは興味深そうに聞いていた。
「なるほどね。確か、東方の国だとそんなことがあるとか聞いたことあるわね……まあ、私は『春原』って呼ぶけど」
「え!? 今までの話の流れは?」
「春原は、春原よ。……それ以外の何者でもないわ」
「ええぇ……なんか釈然としない」
「細かいこと気にしないの! じゃあ、次は春原とリュカね! リュカは親しみを込めて『ユウイチ』呼びね! では、どうぞ!」
クラリスの突然の提案に、春原は戸惑いながら口を開いた。
「え? あ、えっと……リュ、リュカ……」
彼の頬が少し赤くなる。
「は、はい……なんでしょうか、祐一さん……」
リュカは目を合わせられず、獣耳がぴくりと動いた。二人の間に甘い沈黙が流れる。
「「…………………」」
その様子を見ていたクラリスは、突然立ち上がった。
「だあぁあああ!! ちょっと今のなし! なんなのよ、このもったいぶった空気! 私には耐えられないわ!!」
彼女は頭を振り、髪を乱れさせながら叫んだ。
「だめ! だめよ絶対! もう二人は『さん』呼びのままでいいから! 私、なんか余計な物を見てしまった気分!」
春原は笑いながら肩をすくめた。
「えぇ……クラリスが言い出したことなのに……」
「は、はい。……私もできれば、その……ちょっと恥ずかしいので……」
リュカはほっとしたように答え、獣耳が下がった。
「そうだね。僕も『リュカさん』の方が、しっくりくるよ」
春原も優しく微笑んだ。クラリスは二人の様子を見て、小さく溜息をついた。初めての夜、三人の間にはまだ微妙な距離感があったが、それは決して悪いものではなかった。
◆◆◆◆◆◆
夕食の準備が整い、三人は小さなテーブルを囲む。リュカと春原が作った温かな料理の香りが店内に広がり、一日の疲れを癒やす夕食の時間が流れていた。クラリスは大きく息を吐き、最後の一口を口に運んだ。
「美味しかったわ。私はそろそろ帰ろうかしら……そういえば、春原。あんた、どこに住んでるの?」
「どこって……ここだけど」
春原は当たり前のように答え、クラリスは目を見開き驚いた様子で聞き返した。
「え!? ここ? この店に!? リュカと一緒に!?」
彼女はリュカに向き直り、心配そうな表情で尋ねた。
「リュカ! 大丈夫!? なんか春原に変なことされてない!? 男女二人きりで住むなんて!」
リュカはきょとんとした表情を見せ、獣耳が不思議そうに動いた。
「え? ……いえ、別にそのようなことは。いつも、朝食の準備や買い出しへお手伝いいただいてますし、助かっています」
クラリスは少し考え込むように黙った後、肩をすくめた。
「あ……えっと、そういうことではなかったんだけど。……まあ、いいや、腑抜けの春原にそんなことできるわけないし」
「あ! また言った! この前、もう言わないって言ったばっかなのに!」
春原は抗議するように声を上げた。
「変な疑いかけた私がバカね……名前呼び合うだけであんな空気になる二人がそんなわけないのに」
クラリスは二人を交互に見ながら、何かを考えているようだった。そして突然思いついたように言った。
「じゃあ、私もここに寝泊まりさせてもらってもいいかしら?」
「え?」
リュカは驚いて獣耳を動かした。
「前いた西区の宿舎は、もう引き払うことになるだろうし……それに……」
クラリスの声には、少し悲しげな色が混じっていた。
「それに?」
春原が促すように尋ねた。
「なんか、私だけ外で仲間はずれも……いや、だから……」
彼女の言葉に、リュカは優しく微笑んだ。
「はい、もちろん構いませんよ。ですが……今、空いている部屋がなくてですね」
リュカは少し困った表情を見せる。
「そっか……」
クラリスは肩を落とした。
「でも、屋根裏の物置なら……少し片付ければ住めるかもしれません。小さいですが、窓もあって風通しはいいんですよ。クラリスさんがよろしければですが」
「本当!? それでいいわ! やった!!」
クラリスは目を輝かせ、立ち上がって嬉しそうに手を叩いた。
「今日は一旦帰って荷物をまとめてくるわ。明日から本格的に住み込むわね!」
彼女の声には、新しい冒険を始める喜びが溢れていた。
「これからにぎやかになりそうだね……」
春原は苦笑いしながらも、嬉しそうな表情を見せた。
「はい。これも全部、春原さんのおかげです」
リュカは温かな表情で答え、獣耳が嬉しそうに、でも少し照れくさそうに前に向いた。春原は、その言葉の意味が分からず、きょとんとした顔で彼女を見つめる。
「僕? 僕は何もしてないよ。あれは、クラリスが勝手に転がり込んでるだけで」
「いえ、違うんです。春原さんがここにいてくれたから、全部始まったんです」
リュカの瞳が、まっすぐに春原を捉える。その翡翠色の光には、言葉にならない感謝が宿っていた。
「大袈裟だよ……でも、そうだと嬉しい……かな」
彼の声は小さく、でもどこか嬉しそうだった。
窓の外に広がる星空の下、『銀の厨房』の灯りは、これまで以上に温かな光を放ち、三人で紡ぐ新しい物語の始まりを、優しく照らしていた。




