第4章 間話:セシリア王女
「ここからは皆さんの出番ですね」
セシリアは微笑みながらそう言い、春原とクラリス、リーナを外部厨房へと送り出した。彼らが深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べながら厨房の扉をくぐると、セシリアは一人廊下に佇んだ。
彼女の青銀色の瞳には、これから始まる調理披露への期待と、何か企てているような光が宿っていた。外部厨房の扉が閉まる音が静かに響き、王宮の廊下には再び静けさが戻る。
セシリアは窓辺に近づき、先日の出来事を振り返った。
フェイスベールの向こうに見えた翡翠色の瞳。
──あの子は獣人国ハラナ・ファルの大使ではない。
セシリアは即座にそう気づいていた。大使席でリーナの代わりに座っていたのが本物のリュカだと分かったのは、その独特の瞳を忘れられなかったからだった。
一度見たら忘れられない、あの純粋な光を湛えた瞳。
セシリアは軽やかな足取りで廊下に沿って歩き始めた。このまま自室に戻るべきか、それとも別の場所へ行くべきか、少し迷いながら。彼女の心には、これから始まる饗宴への期待が膨らんでいた。
窓から差し込む陽光が、廊下の大理石の床に美しい模様を描き出す。セシリアはその光の帯を踏まないよう、子供のような遊び心で歩を進めた。そんな彼女の姿からは、王女としての威厳よりも、年相応の少女らしさが垣間見えた。
「あの子の料理には、魔法がある。だから、お兄様も……」
セシリアは小さく呟いた。「本当の魔法」。それは驚異的な技巧でも、希少な食材でもない。心を動かす、純粋な想いそのものだった。
セシリアは王宮の回廊を進み、裏廊下へと足を進める。その間、彼女の脳裏にはリュカを初めて見た日の記憶が蘇っていた。
それは黎明市での「銀の炎」。
市場の近くで開かれた料理披露会。調理台の上に立ち上がった銀色の炎の美しさは、セシリアの心を強く打った。
「その日、私は変装して行っていたんだっけ」
セシリアは自分の冒険心を思い出し、くすりと笑った。王女という立場でありながら、彼女は時折、護衛を振り切って市井の暮らしを覗きに行くことがあった。当時は単なる好奇心からだったが、今思えばそれは、閉ざされた宮廷生活の中で失われていく何かを、無意識に求めていたのかもしれない。
そして記憶は数ヶ月前、クラリス商会の調理披露で、兄であるアレクシスが『銀の炎』の少女を壇上に呼び上げた場面。
その時の兄の目に宿る光、その表情に浮かんだ柔らかな微笑みは、彼女が久しく見ていなかったものだった。
「お兄様があんな風に誰かを見つめるなんて……」
セシリアは思い出しながら小さく微笑む。彼女はその時、アレクシスとリュカの間に何か特別なものを感じていた。そして、その直感こそが今回の一連の行動の始まりだった。
アレクシスお兄様——セシリアの記憶の中で一番昔の印象は、無愛想というよりも、とても空虚という言葉が似合っていた。冷たいわけでも、残酷なわけでもない。ただ、何かが欠けているような、心の奥底が空っぽだった。
それでも、セシリアにとって正妃の子で一番年の近い兄として、よく彼の後に付いて回っていた。
セシリアは懐かしく思い出す。
幼いセシリアにとって、厳格な宮廷生活の中で唯一の冒険だったあの時間。厨房へ忍び込み、見つからないようにこっそり作った料理。アレクシスが初めて見せた笑顔は、そんな時だった。
彼がよく笑うようになったのはいつからだろう。
彼が料理を始めた頃からだろうか。
兄が調理台に立つ姿がセシリアは好きだった。でも、今ではその機会も減っていた。
セシリアも王女としての立場上、公の場に出る機会が増え、兄は宮中からも離れてしまい、顔を合わせない時間の方が多くなってしまった。
セシリアは小さく笑う。
「ふふっ! お兄様が料理人を目指すと言った時、宮中は大騒ぎだったわ」
他の親族や官吏たちは「王族の品位を汚す」だの「伝統への冒涜」だのと散々言ったものだ。
しかし、十六歳ながら宮廷政治の複雑さを薄々と感じ取っていたセシリアは、本当は違う目的があったのではないかと気づいていた。
「お兄様を政治の中枢から遠ざけたい勢力もいたのではないかしら」
そして、第十四公子である自分も、いずれは同じ道を歩むことになるのかもしれないという不安。政治的な駆け引きの中で、自分の役割はどうなるのか。
しかし、もっと気になっていたのは、三年前からのアレクシスの変化だった。
「確か調理師の上級試験を受けられた後だったかしら?」
セシリアはそう思い返す。その頃から、アレクシスは何か取り憑かれたように料理以外のことに打ち込むようになった。それは単なる情熱というよりも、何か別の目的があるかのようだった。
前にも増して宮中に姿を見せなくなり、噂では新興貴族の邸宅やソラリスのような商会の集まりに頻繁に顔を出すようになったという。
その裏で何が起きているのか、セシリアにはわからなかった。ただ、兄の目に宿る光が、以前とは違うものになっていることだけは感じていた。
そして、その違いを最も鮮明に感じたのが、兄がリュカと向き合っていた時だった。
◆◆◆◆◆◆
廊下の先に、調理服姿のアレクシスが佇んでいるのを見つける。セシリアは彼に近づき、柔らかく声をかけた。
「アレクシスお兄様! こんな所で何をなさっているのですか?」
アレクシスは妹の姿に少し驚いたような表情を見せるが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべる。
「やあ、セシリア。……儀典局の調整官から連絡があってね、急遽獣人国大使への料理を依頼されたんだが……着いてみれば、既に料理人が到着していると言われてね」
アレクシスの声には、少しだけ困惑の色が混じっていた。セシリアは彼の言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。兄が実は『各国大使歓迎饗宴』の料理人として呼ばれていたという事実。
セシリアは少し申し訳なさそうに笑う。
「えっと……まさかお兄様が呼ばれていたなんて、ごめんなさい。私が『銀の厨房』の方達を招き入れましたので、それで……」
アレクシスの表情が複雑に変化する。驚きと困惑、そして何か別の感情——それは期待、あるいは喜びのようにも見えた。
「ああ、そうだったんだね。……いや、むしろありがとう。セシリアも色々と動いてくれたみたいで」
アレクシスは意外にも穏やかに応じた。その様子に、セシリアは少し拍子抜けしたような表情を見せる。
「もちろんです。お兄様が珍しく『面白い店がある』と私に教えてくださったのですから。……そのお店を儀典局に推薦する代わりに、まさか私が饗宴の席に出るはめになるとは思いもしませんでしたが……この埋め合わせは、期待しても? アレクシスお兄様」
セシリアの表情には、茶目っ気が宿っていた。アレクシスは苦笑いを浮かべる。
「埋め合わせかい? 僕にできることは多くはないけれど……お手柔らかに頼むよ」
「ふふっ、冗談ですよ。私自身、リュカさんと直接話してみたかったので。それに...」
セシリアは言葉を切り、兄の表情を見つめた。
「それに?」
アレクシスが小首を傾げる。
「『野暮は申しますまい』……です。アレクシスお兄様」
セシリアの青銀色の瞳は兄の心の内を察していた。その様子に、アレクシスは少し困惑した表情を見せる。
「どういうことだい?」
アレクシスの困惑した表情に微笑みかけながら、セシリアはあえて話題を変えた。
「お兄様、最近はどうですか? 前のように一緒に料理する機会も減ってしまって……」
「懐かしいね。まさか、そんなことを覚えているなんて」
アレクシスの目が遠い記憶を辿るように細められた。
「もちろんです! 一番楽しかった思い出ですもの」
セシリアの声には真摯な温かさが込められていた。
彼女の心の中で、過去の情景が鮮やかによみがえる。幼かった自分とアレクシスが宮殿の厨房に忍び込み、見つからないよう小声で笑いながらお菓子を作った日々。当時の兄は、料理をしている時だけ本当に生き生きとしていた。
「あの頃が、私には宝物のような思い出なんです」
セシリアは静かに付け加えた。
アレクシスは少し戸惑ったような、しかし温かな表情を見せる。彼の瞳の奥に、何か懐かしさや安らぎの色が宿っていた。
すると、遠くから鐘の音が響いてきた。時を告げる重厚な音色が、王宮の回廊に満ちていく。
「あ! そろそろ戻らないと。私はこれで……アレクシスお兄様はこの後どうされるのですか?」
「少し話をしたい人がいてね。夜までは王宮にいるよ」
「分かりました……たまには帰ってきた時に私に会いにきてくださいね。今日はお話できて嬉しかったです」
「僕もだよ、セシリア。ああ、今度またゆっくり話をしよう」
アレクシスの言葉には、久しぶりに感じる温かみがあった。セシリアはそれを嬉しく思いながら、別れの挨拶を交わした。
そして、セシリアはアレクシスと別れる前に、振り返りながら突然思い立ったように言った。
「あ、そうだ! お兄様、『埋め合わせ』ですが……」
「ん?」
セシリアは回廊に差し込む夕暮れの光に、金色の髪を煌めかせながら満面の笑みを浮かべる。
「また一緒に料理をしてください! 前みたいに!」
アレクシスは少し意外そうな表情を見せるが、静かに頷く。
「そんなことでいいのなら構わないよ」
「約束ですよ! リュカさんも誘ってみましょうか?」
アレクシスの表情が一瞬こわばるのを見て、セシリアは小さく笑う。彼の反応を面白そうに観察するような、意地悪な妹の表情が浮かんでいた。
「ふふっ! あと、お兄様。不器用なのは程々になさってくださいね?」
少し意地悪そうに言うセシリア。アレクシスは困惑した表情を見せる。
「不器用? 僕がかい?」
「ちゃんと、言葉にしなければ伝わらないことはいっぱいあるんですよ。特に大切な気持ちは」
セシリアはそう言い残し、饗宴が開かれる『極星の間』へと足を向ける。彼女の頭の中には、既に一つの計画が浮かんでいた。料理と音楽を融合させた、前代未聞の調理披露。それは兄の心にも何かを届けるものになるはずだった。
「料理が人の心を繋ぐなら……音楽も同じよね」
セシリアはそう言い残し、未来へと続く決意の一歩を踏み出した。彼女の瞳には、これから始まるであろう、『宮廷に響く銀の調べ』への期待と決意が宿っていた。
王宮の廊下に差し込む陽光の中、少女の姿が遠ざかっていく。
その背中には、兄を想う妹の、そして友を想う一人の少女の、純粋な願いが満ちていた。
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▶︎ 「灰かぶりの厨房」第4章を終えて:これからと謝辞?今回はちゃんと謝辞です(※イラストあり)
※イラストありますので、自分のイメージ崩したくないって方は見ないことをお勧めします。




