第126話:救出の前奏曲(5)
——少し遡って、『各国大使歓迎饗宴』へと向かうため回廊を進んでいたリュカ。
夕暮れの空を染める最後の夕陽が地平線に沈み、王都に夜の闇が広がり始めた頃、王宮の大宴会場「極星の間」は眩い光に包まれていた。
「ハラナ・ファル大使、リーナ=トゥ=エンセリナ氏」
リュカはその掛け声と共に開かれた扉を前に、息を呑んだ。天井高は吹き抜けた作りとなっており、そこから吊り下げられた巨大なシャンデリアが、千個のクリスタルからなる幾何学模様を描いている。それぞれのクリスタルが黄金の光を反射し、まるで星空のように煌めいていた。
足元の大理石の床には、オルステリアの紋章が象嵌細工で描かれている。その精緻な細工は、まるで床そのものが絵画であるかのような錯覚を起こさせた。
「リーナ様、もうすぐ開宴です。どうぞこちらへ」
ガルヴァンの低い声に、リュカは我に返った。彼の導きに従い、ハラナ・ファル大使の席へと向かう。テーブルには季節の花々が活けられ、金銀の燭台が並び、王宮専用の最高級の食器が配置されていた。その豪華さは、東区の「銀の厨房」とは比べものにならなかった。
席に着くと、宴会場の一角に設置された小さな舞台上で、弦楽四重奏団が静かな調べを奏で始めた。第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの四つの楽器が織りなす音色は、この場の格式の高さを一層引き立てている。
深紅の儀礼服の重みが肩に食い込み、金の装飾品が冷たく肌に触れる感覚に、リュカは不自然な姿勢を保ったまま座っていた。
(こんな場所に……私なんかが)
彼女の心は不安に揺れていた。彼女にとって大使としての振る舞いなど到底できるはずがない。フェイスベールの内側で、彼女の頬は緊張で引きつっていた。
その時、大宴会場の扉が開き、軍楽隊の力強い音楽が響き渡った。金管楽器の華やかな音色と、打楽器の力強いリズムが部屋全体を震わせる。その演奏は、先ほどの弦楽四重奏とは対照的に、威厳と権力を象徴するような響きだった。
「ドワーヴィル連邦大使、ガンダルフ・ハンマーシールド氏」
豪華な軍服に身を包んだドワーフの男性が、堂々とした足取りで入場してきた。その髭は胸元まで伸び、編み込まれた装飾が施されている。
「エルフェリム王国大使、アマリリス・シルヴァーリーフ氏」
続いて、優雅な緑の衣装に身を包んだエルフの女性が、軽やかな足取りで入場した。長い銀髪が背中で揺れ、その凛とした佇まいは周囲の視線を集めていた。
「ノーム共和国大使、ギルバート・ブラスギア氏」
小柄ながらも知的な雰囲気を漂わせるノームの老人が入場する。彼の鋭い目は、部屋の隅々まで観察しているかのようだった。
さらに続けて、オルステリア王国各州の大使たちが次々と紹介され、それぞれが格式高い挨拶を交わしていく。表面上は友好的な交流を装いながらも、その視線の奥には政治的な思惑と緊張感が隠されていた。
リュカはフェイスベールの内側で唇を噛み、静かに自分自身を落ち着かせようとしていた。他の大使たちのように、外交の場での振る舞いに慣れていない彼女にとって、この状況は耐え難いほどの緊張を強いるものだった。
獣耳は完全に後ろに倒れ、尾は防衛本能から身体に巻きついている。心臓の鼓動が喉元まで聞こえるようで、呼吸を整えるのも一苦労だった。
(大使の代わりなんて……誰かが気づいたら……)
暗い思考の渦の中で、突然、会場の雰囲気が変わった。軍楽隊が荘厳な行進曲を奏で始め、全ての視線が大きな扉の方へと向けられる。
「オルステリア王国第一公子、アルヴェリオ・レオナード=オルステリア殿下」
オルステリア王国第一公子——厳格な面持ちの壮年の男性が、威厳ある足取りで入場してきた。金髪に青い瞳、壮年とは思えない成熟した風格を持つアルヴェリオは、セシリアと似た美しさを備えながらも、より厳格で王族としての威厳に満ちていた。
彼が中央に立つと、軍楽隊の演奏が静まり、再び弦楽四重奏の優雅な調べだけが静かに流れる。
「陛下は本日、急遽重要な国政にお励みのため、私が代理を務めさせていただきます」
アルヴェリオの声は低く、しかし部屋の隅々まで届く力強さを持っていた。彼の青い瞳は、一瞬リュカの方を見たように感じられ、彼女の心臓が跳ねた。
「父王陛下に代わり、各国の友好と永続する平和への願いを込めて、この饗宴を開催いたします」
彼の言葉に、会場はより厳格で格式ある雰囲気に包まれる。各大使が順番に起立し、深々と礼を返す——国王代理への敬意を示すためだ。
リュカも慌てて立ち上がり、ぎこちない動作で頭を下げた。
「リーナ様、背筋をお伸ばしください」
ガルヴァンが小声で助言する。リュカは急いで姿勢を正し、できるだけ大使らしく振る舞おうと努めた。
席に戻る際、リュカは王族席に目をやると、そこにはセシリアの姿があった。セシリアと目が合った瞬間、彼女は優しく微笑みかけ、励ますような眼差しを送ってきた。
フェイスベール越しでも伝わる温かさに、リュカの心に少しだけ安らぎが宿る。昨日、共に料理を作った記憶が蘇り、この異質な環境の中で唯一の救いのように感じられた。
アルヴェリオが席に着くと、王宮料理長が前に進み出て、本日の献立説明を始めた。
「本日、ハラナ・ファル大使様のお料理は、特別に王都の優秀な料理専門家が心を込めて調理いたします」
その言葉に、リュカの心に複雑な感情が渦巻いた。本来なら自分が調理するはずだった料理。一ヶ月以上かけて試作を重ね、完成させてきたコース料理。それを振る舞えないという喪失感と不安が混ざり合う。
「獣人の味覚に合わせた特別なコースをご用意させていただきました」
料理長の言葉に、ガルヴァンの心配そうな視線がリュカの横顔を見守る。彼は彼女の内心の葛藤を察しているようだった。
弦楽四重奏団は曲調を変え、明るく洗練された音色は、饗宴の始まりを告げるようだった。第一ヴァイオリンの美しい旋律が、第二ヴァイオリンとヴィオラの和音に支えられ、チェロの低音が豊かな響きを加えている。
しかし、音楽の優雅さとは対照的に、周囲では小声の会話が交わされていた。
「まだ体調不良ですか...若い大使は大変ですな」
「外交の場でベールとは...何か隠したいことでも?」
「獣人国の事情は複雑ですからな」
政治的な駆け引きの視線と、表面的な社交辞令の下に隠された軽蔑——それらがリュカに重圧と孤独感をもたらす。居場所のない感覚が、彼女の心を蝕んでいた。
その時、給仕の制服に身を包んだ人々が、整然と料理を運び始めた。その中に見覚えのある顔を見つけ、リュカは思わず目を見開いた。
クラリスだった。
(クラリスさん……!!!)
リュカは必死の目配せをしたが、声に出すことはできない。フェイスベール越しの目で必死に感情を伝えようとした。
クラリスは自然な給仕を装いながら、ハラナ・ファル大使席に近づいてきた。
「ハラナ・ファル大使様、本日の一品目をお持ちいたしました」
完璧な給仕の作法で皿を置きながら、クラリスは小声で囁いた。
「どうにかして外部厨房まで来て! リーナさんもいるから」
その言葉に、リュカの心臓が高鳴った。リーナさんがいるということは、春原さんも——この料理を作ったのは……
目の前に置かれた一品目「森の恵みの小さなタルト」を見て、リュカは確信した。これは間違いなく、この一ヶ月、獣人国の大使のために作ってきた料理だった。そして、王都の料理人ではなく、春原が担当していることを、料理の盛り付け方や香りから感じ取った。
弦楽四重奏団は曲を変え、第一ヴァイオリンの高音域での軽やかな旋律が、まるで小鳥のさえずりのように会場に響き渡る。リュカの獣耳がその音色に反応して小さく動いた。
次々と運び込まれる春原が作った料理たち。
二品目「海の幸のカルパッチョ、宝石のソース」では、新鮮な魚の透明感と、色とりどりのソースが宝石のように輝いていた。三品目「黄金色のコンソメ、季節の香りを乗せて」では、澄み切った琥珀色のスープから立ち上る芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
しかし、四品目「舌平目のヴァプール、二色のソース」が運ばれてきた時、リュカは思わず息を呑んだ。
(これは……調理法が変えられている? 魚の臭みを消すために白ワインとハーブの二重処理……)
一口味わった瞬間、彼女の瞳が驚きで見開かれる。春原の成長と、彼女への想いが料理を通して伝わってくる。臭みは完全に消え、代わりに深い風味と繊細な味わいが口いっぱいに広がった。
(春原さん……こんなにも上達してらしたんですね)
料理人として、彼女は誇らしさで胸が満たされる。単にレシピを再現するだけでなく、問題を見抜き、独自の解決策を見出す——それは料理人としての真の成長を示していた。
周囲の大使たちも、ハラナ・ファル大使の料理の美しさと香りに注目し始めていた。
「ハラナ・ファル大使の料理、素晴らしい香りですな。我々の料理とは趣が異なる」
「獣人の料理、侮れませんな」
弦楽四重奏団は再び曲調を変え、郷愁を誘う穏やかな旋律が、リュカの心の奥底に触れるようだった。
口直しのソルベが提供された頃、思いがけない動きがあった。セシリアが王族席から優雅に立ち上がったのだ。アルヴェリオが厳格に饗宴を進行する中、セシリアは大使の席の方へと歩を進めた。
「リーナ大使、お化粧室へご一緒しませんか? 饗宴の途中ではございますが、少しお話ししたいことがございまして」
自然で完璧な口実。周囲には「王女様と大使の親しい交流」として映る提案だった。
「はい……ありがとうございます」
リュカは小さく頷いた。アルヴェリオが一瞬こちらを見たが、外交的配慮として理解を示す様子だった。
席を立つ際、侍女が近づいてきた。
「セシリア王女様、護衛の者が……」
「リーナ大使と二人で大丈夫ですので。それに、護衛でしたらガルヴァンさんにお付き添いをお願いできるかしら?」
セシリアの提案に、ガルヴァンは一瞬躊躇するが、王女の言葉には逆らえない。
「……畏まりました、王女様」
三人で会場を抜け出し、王宮の静かな廊下を歩き始めた。遠くから聞こえる弦楽四重奏の調べが、廊下の静寂にかすかに溶け込んでいる。
◆◆◆◆◆◆
人気のない場所まで来ると、セシリアが振り返り、リュカをじっと見つめた。
「急に連れ出してごめんなさい! このまま外部厨房まで案内いたしますね! ……時間はあまりないけれど、皆さんが待ってらっしゃるから」
その言葉に、リュカは息を呑んだ。セシリアの口調は、完全に彼女の正体を見抜いているものだった。
「セシリアさん……どうして……」
「すごく困ってらしたご様子だったから。饗宴中あんな可愛らしい困り顔してたら、それは連れ出したくなりますもの!」
くすくすと笑いながら、セシリアは何か企んでいる微笑みをリュカに向ける。
「……恐れ入ります、セシリア王女。私たちは……」
ガルヴァンが言葉を継ごうとしたが、セシリアは優雅な仕草で彼の言葉を遮った。
「ガルヴァン様、『野暮は申しますまい』です。それに友達が困っているのに、見過ごせませんもの」
セシリアの青銀色の瞳には、決意と優しさが混じり合っていた。彼女はリュカの手を取り、廊下の奥へと導き始めた。その手は暖かく、リュカの冷えた指に生命の温もりを与えるようだった。
「さあ! このお話はこの辺にしておいて、外部厨房まで案内いたしますね! ……この後の調理披露はきっと素晴らしいものになりますから!」
振り返り先導しようとする彼女の背中を見つめながら、リュカは深く息を吸い込んだ。廊下の向こうから、かすかに厨房らしき場所からの匂いが漂ってくる。春原とリーナがいる場所へと向かっているのだろう。不安と期待が入り混じる中、リュカの心は少しずつ軽くなっていくのを感じた。
遠くから聞こえる弦楽四重奏の調べが、彼女の足取りを優しく導くかのようだった。




