第125話:救出の前奏曲(4)
春原は舌平目を手に取ったまま、彼は眉を寄せ、慎重に魚の匂いを嗅いでいた。その表情から、何か問題が生じたことが明らかだった。
「どうしたの?」
リーナが心配そうに近づいてきた。
「この魚……僅かに臭みがある」
春原の声は落ち着いていたが、その瞳には焦りの色が浮かんでいた。
彼はすぐに舌平目を隅々まで確認する。
「仕入れてから時間が経ちすぎたのかも……いい魚なのは間違い無いんだけど、微妙な臭みが」
クラリスが不安そうに近づいてきた。
「今更、魚を取り替えることはできないわね。どうするの?」
春原は深く考え込んだ。「舌平目のヴァプール、二色のソース」は、魚の蒸し料理であり、魚本来の風味を強く押し出した料理になる予定だった。しかし、微妙な臭みがある状態では、蒸し料理として提供すれば、その臭みが際立ってしまう。
彼はしばらく黙考した後、決断を下した。
「調理法は変えずに、ソースを工夫しよう」
彼の声には確かな自信があった。これはもはや単なる対応策ではなく、新たな創造への挑戦だった。
春原は素早く材料を集め始める。新鮮なハーブ、白ワイン、レモン──彼の頭の中では、新たなレシピが形作られていた。
「本来は二種類の柑橘系の爽やかなソースだけを添える予定だけど、今回は別のソースを用意する。白ワインベースとハーブベース」
彼は説明しながら、手を止めることなく材料を準備していった。リーナとクラリスは言葉少なに春原の動きを見守る。彼の集中力は、まるで目に見えるオーラのように感じられた。
春原はまず、蒸し器を準備した。
水を注ぎ、ハーブとスパイスを加え、香りを付けた湯気で魚を蒸し上げる。
湯気が立ち始めると、春原は魚を蒸し器に静かに置き、少量の白ワインを蒸し器に注いだ。
「蒸し器に白ワイン? ソースじゃなかったの?」
クラリスが問いかける。
「白ワインに含まれる酸が、魚の臭み成分を中和してくれるんだ。それに、アルコールが蒸発する時の共沸効果で、臭みも一緒に飛ばしてくれる」
春原の言葉には科学的な知識が込められていた。これはリュカから学んだものではなく、自分自身が文献や経験から得た知識だった。
そして、ソースの準備に取り掛かる。まず白ワインベースのソース。彼はエシャロットをバターで炒め、香りが立ったところに白ワインを注ぎ入れる。シュワッという音と共に、アルコールが蒸発していく。
白ワインが半量になったところで、魚のブイヨンを加え、さらに煮詰めていく。最後に冷たいバターを少しずつ加え、なめらかな質感に仕上げた。
同時に進行していたハーブベースのソースも完成に近づいていた。
新鮮なハーブを刻み、オリーブオイルと塩、そして少量のレモン汁で和えたシンプルなソース。その爽やかな香りは、厨房全体に広がる。
蒸し器から立ち上る湯気の様子が変わった瞬間、春原は直感的に魚が完成したことを悟った。彼は蓋を開け、蒸し上がった舌平目を取り出す。魚は半透明の美しい白さを保ち、しっとりとした質感を保っていた。
最終工程、盛り付けは芸術的な作業だった。
皿の上に舌平目を丁寧に置き、魚の部位によって使い分けたソースを注ぎ入れる。臭みがやや強い部分には白ワインソース、淡白な部分にはハーブソースを。そして、仕上げに少量のハーブを散らした。
「完成です」
春原の声には、静かな自信が込められていた。
リーナは慎重に一切れを口に運んだ。
彼女の表情に、一瞬の緊張が走る。しかし、次の瞬間、彼女の茜色の瞳が驚きで大きく開いた。
「臭みが全くない……! それどころか、すごく深い味がする……!」
彼女の反応に、春原はようやく安堵の息をついた。
「本当に美味しい! ワインベースのソースは風味が強いけれど、魚のもつ旨味の強さがきちんと際立つように緻密に計算されてる……この芳醇なソースが、舌平目の繊細な甘みを何倍にも膨らませているみたい。それにハーブソースは……とても清々しい。 ひとつの魚で、ふたつの物語がある……!」
クラリスも味見をして、感嘆の声を上げた。
「完全に春原のオリジナルね。リュカの料理ではなくなったけど、素晴らしい一皿だと思うわ」
その言葉に、春原は初めて自分がしたことの意味を実感したようだった。これはもはやリュカの代役として作った料理ではない。彼自身が一人の料理人として、問題を「見抜き」、解決策を「創造」した証だった。
◆◆◆◆◆◆
四品目の後は、口直しのソルベが提供される番だった。このソルベはメインディッシュの前に味覚をリセットするための重要な一皿。
あらかじめ用意しておいたレモンとミントのソルベを、小さなグラスに美しく盛り付けていく。
ソルベが会場へと運ばれると、厨房には一瞬の静寂が訪れた。
メインディッシュ「風の贈り物」の準備までの、短い休息の時間だ。
春原は厨房の隅に座り、少し目を閉じた。これまでの緊張から、一時的に解放されたかのような安堵の表情を浮かべている。
一方、リーナの茜色の瞳には、不安と期待が交錯している。
「……あの! 私のせいでリュカさんがこんな状況になってしまったのに、ここまで助けてくれて……」
彼女の中で、自分が犯した過ちへの罪悪感と、それを償いたいという思いが強まっていく。
「こんなにも迷惑をかけることになるとは思っていなくて……」
言葉に詰まるリーナ。彼女の獣耳が感情を隠せず、小刻みに震えていた。
「リーナさん、もう自分を責めるのはやめよう」
春原は静かに言った。彼の目は優しく、理解に満ちていた。
春原はそっと目を伏せ、一度息をついた。そして、決意を固めたようにリーナを真っ直ぐに見つめる。
「……この一ヶ月、僕たちはただ料理を作っていたわけじゃないんだ」
その声は静かだったが、厨房の空気まで震わせるような、確かな熱を帯びていた。
「僕も、リュカさんも、ただ『獣人国の大使』のための料理を作っていたんじゃない。あなたに……リーナさんに、たった一人のあなたに、心から喜んでもらえる一皿を届けたい。それだけを考えて、毎日厨房に立ってたんだ」
「え……?」
リーナの茜色の瞳が、信じられないというように大きく見開かれる。彼女の獣耳が驚きと困惑で微かに震え、春原の言葉の意味を必死に探っているようだった。これまで彼女に向けられる言葉は、常に「大使」という肩書きを通してのものだったから。
春原は少し言いにくそうに視線を落とすと、自分の手のひらを見つめながら続けた。
「だから……ごめん。君のことを、少しだけ調べさせてもらった。ハラナ・ファルのこと、君がどんな想いで、その重い役目を背負っているのか……僕たちなりに、少しでも理解したかったんだ。そうしないと、本当の意味で君のための料理は作れないって、リュカさんと話したから」
春原は少し微笑んだ。
「だから料理人として、リーナさんがこうして美味しく食べてくれること……こんなにも、嬉しいことはないよ」
リーナは自分の手を見つめた。幼い頃から大使という役割を背負わされ、常に国の顔として振る舞うことを求められてきた彼女。
しかし今、この厨房で彼女は何か新しいものを感じていた。春原の真摯に料理と向き合う姿──自分の役割に誇りを持ち、全力で取り組んでいた。それは形式や外交辞令ではなく、心からの情熱だった。
(これが、本当の「役割」なのかもしれない……)
リーナの心に、新たな感情が芽生えていた。単に「大使」という役職を果たすのではなく、獣人国の人々のために本当の意味で働くこと。それは彼女がこれまで感じてきた義務感とは違う、もっと深く、もっと真実に近いものだった。
彼女は静かに決意を固めた。リュカを助け、そして自分自身も変わる。もう逃げない。真摯に向き合う。それが、今の彼女にできる償いだった。
彼女の小さな声に、クラリスは優しく肩に手を置いた。
「大丈夫。きっと来るわ。リュカなら、必ず」
春原は静かに「風の贈り物」の仕込みに取りかかり始めた。一ヶ月以上かけて試作を重ねてきた特別なメインディッシュ。「銀の炎」の伝承から得たインスピレーションを元に、リュカと共に作り上げてきた集大成だった。
彼は材料を一つ一つ確認し、調理器具を整えていく。
「できることは、全部した……あとは……」
春原の言葉は、厨房の空気に溶け込むように消えていった。
他の料理人達も大使に提供する料理の準備を終え、外部厨房には静かな緊張感が漂っている。
厨房の外から、遠く聞こえてくる楽団の華やかな演奏が、逆に三人の心臓の鼓動を大きくしているようだった。リュカが戻ってくるか、それとも春原が「風の贈り物」を調理するか──運命の分かれ道は、刻一刻と近づいていた。




