第121話:入れ替わった運命(3)
王宮の回廊は午後の陽光を受けて、黄金色に輝いていた。セシリアは軽やかな足取りで前を歩き、時折振り返ってはリュカに嬉しそうに微笑みかける。
「こっちよ、リーナ! 私のお気に入りの場所があるの」
セシリアの青銀色の瞳が楽しげに輝いている。彼女の金髪は廊下を歩くたびに優雅に揺れ、まるで陽光そのもののようだった。
「あの……セシリア様」
リュカは恐る恐る声をかけた。獣耳が不安そうに動いている。
「もうっ! 『様』はいらないって言ったでしょ?」
セシリアは頬を膨らませて振り返った。その仕草には、年相応の可愛らしさがあった。
「で、でも……」
「いいから! 私たち友達でしょ?」
その言葉に、リュカの心が温かくなる。友達──その響きが、彼女の胸に優しく染み込んでいった。
「では……セシリアさんで、どうでしょうか?」
「うん。それでいいわ!」
セシリアは苦笑しながらも、その妥協を受け入れた。彼女の表情には、リュカの真面目さを可愛らしく思う気持ちが表れていた。
二人は幾つもの廊下を抜け、やがて王宮の広い中庭に出た。
そこには美しく整えられた薬草園が広がり、様々な香草が午後の陽光を浴びて輝いている。
「ここが王宮の薬草園。料理にも使われる香草がたくさん植えられているの」
セシリアは誇らしげに説明した。
「すごい……こんなにたくさんの種類が」
リュカの獣耳が興味深そうに前を向いた。彼女の鼻が小刻みに動き、様々な香りを嗅ぎ分けている。
「ローズマリー、タイム、セージ、バジル……東方の珍しい香草もあるんですね」
「あら、詳しいのね! やっぱり料理が好きなんだ」
セシリアの言葉に、リュカは慌てて口を押さえた。
つい料理人としての知識を口にしてしまった。
「あ、えっと……」
「素敵よ! 私も料理が大好きなの。……特に、誰かと一緒に作るのが」
セシリアの表情に、少し寂しそうな色が浮かんだ。
「セシリアさんが料理ですか?」
「ふふっ! なんで王族が料理なんてって思ったでしょ? 私、お母様──正妃の四人目の末っ子で兄様が三人いるんだけど、お兄様の一人が料理人なの」
セシリアの言葉に、リュカは驚きを隠せなかった。
王族が料理人になるなんて、普通であれば考えられない。
「王族の方が料理人に……ですか?」
「そうよ。周りは大反対だったけど、お兄様は自分の道を貫いたの。まあ……もともと変わってたけど、不器用なのよお兄様は」
セシリアの声には、兄への深い尊敬と愛情があることが読み取れる。
「だから、昔はよくお兄様と一緒に作ったわ。厨房に忍び込んでは、こっそりお菓子を作ったりして」
彼女の声には懐かしさと、どこか切ない響きが含まれていた。
「お兄様は料理がとても上手なの。まるで魔法みたいに、どんな食材も美味しくしてしまう」
リュカは静かに聞いていた。
セシリアの話す「お兄様」への愛情が、言葉の端々から感じられた。
「でも最近は、お兄様も忙しくて……もう一緒に料理することもなくなっちゃった。でも、その代わり、他に好きなものができたみたいだけど」
そう言いながら、セシリアはニヤけた表情でリュカをじっと見つめた。その視線には、何か確信めいたものが含まれている。
「え?」
──その瞬間、強い風が中庭を吹き抜けた。
薬草園の香りが一斉に舞い上がり、リュカのフェイスベールを激しく揺らす。
「あっ……!」
リュカが手を伸ばす前に、ベールはひらりと舞い上がり、彼女の顔が完全に露わになった。
翡翠色の瞳──リーナとは明らかに違う特徴が、午後の陽光の下にさらされる。
「やっぱり、あなたは……」
セシリアの表情に、何かを察したような色が浮かんだ。彼女の青銀色の瞳が大きく見開かれる。
リュカは慌ててベールを整えようとしたが、もう遅かった。心臓が恐怖で高鳴り、彼女の身体が震え始める。
しかし、セシリアの次の言葉は予想外のものだった。
「もしリーナさんがよければ、一緒に料理を作らない?」
その提案に、リュカは困惑した。
セシリアは何かに気づいているようだったが、そのことに対して何も言及しようとはしてこなかった。
「いえ、私は……」
この場でこれ以上、料理人として振る舞うべきではないとリュカは理解していた。
「お願い! 久しぶりに誰かと一緒に料理がしたいの……ダメかしら?」
その表情には、純粋な期待が満ちている。
「そう……ですね。私も……誰かと一緒に料理するのは好きですから」
断るべきだと分かっていながらも、リュカの本心が口から出ていた。
『銀の厨房』で春原やクラリスと一緒に料理する時間は、彼女にとってかけがえのないものだった。その、一緒に料理を作るという楽しさを知っているからこそ、料理を通してセシリアと真摯に向き合いたいという思いが勝った。
「じゃあ、外部厨房に行きましょう! 今の時間なら空いてるはずよ」
セシリアはリュカの手を取って、嬉しそうに歩き始めた。
◆◆◆◆◆◆
王宮の外部厨房は、主厨房や副厨房とは離れた場所にあった。
特別行事や外部からの訪問者のための料理を作る場所で、明日の饗宴の準備もここで行われることになっている。
厨房に入ると、午後の穏やかな光が窓から差し込んでいた。調理台は清潔に磨き上げられ、壁には銅製の鍋やフライパンが整然と並んでいる。大きな石造りのかまどには、まだ温かい灰が残っていた。
「誰もいないわね。よかった!」
セシリアは嬉しそうに厨房を見回した。
「勝手に厨房を使ってもいいんですか?」
リュカが心配そうに言うと、セシリアは悪戯っぽく笑った。
「大丈夫よ。綺麗にして戻しておけば!……多分!」
「多分……ですか」
彼女は慣れた様子で食材庫を開けた。冷気と共に、新鮮な食材の香りが漂ってくる。
「何を作ろうかしら……あっ!」
セシリアが嬉しそうに声を上げた。
彼女が取り出したのは、皮がきれいな飴色をした若鶏だった。
「今朝締めたばかりの地鶏よ。これでお兄様がよく作ってくれた『薬草園風若鶏のロースト』を作りましょう!」
「薬草園風……?」
「そう! 王宮の薬草園で摘んだハーブをたっぷり使うの。まずはハーブバターを作って、それを鶏の皮と身の間に忍ばせるのよ」
セシリアの説明に、リュカの獣耳が興味深そうに動いた。
二人はエプロンを身に着け、まずはハーブバター作りから始めた。セシリアは無塩バターを大きめのボウルに入れ、木べらで練り始める。
リュカは薬草園で見た香草を思い出しながら、ハーブを選び始めた。
「ローズマリー、タイム、セージ……あ、パセリとディルもありますね」
「全部使いましょう! あと、これも」
セシリアが取り出したのは、小さな黄色い実をつけた枝だった。
「レモンバーベナよ。柑橘系の爽やかな香りがするの」
リュカは鼻を近づけて香りを確かめた。
確かに、レモンのような爽やかさの中に、独特の甘い香りが混じっている。
「素敵な香りです……これなら鶏肉の臭みも消してくれますね」
二人は丁寧にハーブを刻み始めた。包丁がまな板に当たる軽快な音が、リズミカルに厨房に響く。
「ハーブを刻む時は、あまり細かくしすぎないのがポイントです」
リュカが説明しながら、手本を見せる。
「へぇ……リーナ、器用なのね」
「細かすぎると香りが飛んでしまうし、焼いた時に焦げやすくなります。このくらいの粗みじんがちょうどいいんです」
刻んだハーブの山から、複雑で豊かな香りが立ち上る。
ローズマリーの力強さ、タイムの優しさ、セージの深み、パセリの爽やかさ、そしてレモンバーベナの華やかさ──それぞれの香りが絶妙に混ざり合っていく。
「いい香り……もうこれだけで幸せな気分!」
セシリアがうっとりとした表情で言った。
刻んだハーブを柔らかくなったバターに加え、さらににんにくのみじん切りと、レモンの皮のすりおろしも加える。
「塩は……岩塩がいいですね」
リュカは小さな器から岩塩をひとつまみ取り、バターに加えた。
黒胡椒も挽きたてを使う。スパイスミルを回すと、ピリッとした刺激的な香りが鼻をくすぐる。
「全部混ぜ合わせて……」
二人で交代しながら、木べらでバターを練り混ぜていく。最初はバラバラだった材料が、次第に一体化していき、美しい緑色のハーブバターが完成した。
「できた! 次は鶏の下準備ね」
セシリアが嬉しそうに声を上げる。
そしてリュカは若鶏を水で軽く洗い、清潔な布で水気を丁寧に拭き取った。
「水分が残っていると、皮がパリッと焼けないんです」
そして、鶏の表面と内側に塩と胡椒をまんべんなく振る。
「下味をしっかりつけることで、肉の旨味が引き出されます。でも、ハーブバターにも塩分があるので、控えめに」
次に、リュカは慎重に鶏の皮と身の間に指を入れ始めた。
「こうやって、皮を破らないように気をつけながら、少しずつ剥がしていきます」
「難しそう……」
「コツは、優しく、でも大胆に。恐る恐るやると、かえって皮が破れやすいんです」
リュカの手つきは確かで、みるみるうちに皮と身の間に空間ができていく。
「そこにハーブバターを……」
二人で協力しながら、作ったハーブバターを鶏の皮の下に詰めていく。胸肉の部分には特にたっぷりと。残ったバターは鶏の表面全体に塗り広げた。
「お腹の中にも香草を詰めましょう」
セシリアがレモンを半分に切り、それと一緒にローズマリーの枝を数本、鶏の腹腔に詰めた。
「これで中からも香りが広がるのね」
「はい。それに、レモンの酸味が肉を柔らかくしてくれます」
下準備が整った鶏を、大きめのロースト用の鉄鍋に入れる。
周りには皮付きのじゃがいも、人参、玉ねぎを並べた。
「野菜は大きめに切るのがコツです。長時間焼いても形が崩れないし、鶏から出る肉汁を吸って、とても美味しくなるんです」
リュカは鉄鍋にオリーブオイルを回しかけ、野菜にも軽く塩胡椒を振った。
「さあ、オーブンへ!」
セシリアが張り切って言った。
「最初は高温で皮をパリッとさせて、その後温度を下げてじっくり中まで火を通します」
鉄鍋をオーブンに入れると、すぐにジュージューという音が聞こえ始めた。
「あとは待つだけね」
「はい、焼き上がりまで約一時間程度ですね。その間に……」
焼いている間、二人は付け合わせのサラダを作ることにした。新鮮な葉物野菜に、くるみとドライクランベリーを加え、シンプルなビネグレットドレッシングで和える。
リュカが言いかけた時、オーブンから素晴らしい香りが漂い始めた。
ハーブバターが溶けて鶏肉に染み込み、皮がパリパリと音を立てている。
「もう、たまらない香り!」
セシリアが鼻をひくつかせた。
三十分ほど経った頃、リュカはオーブンを開けて鶏の様子を確認した。黄金色に輝く皮から、肉汁がじゅわじゅわと滴っている。
「一度取り出して、溜まった肉汁を野菜にかけ回します」
リュカはスプーンで丁寧に肉汁をすくい、野菜の上にかけていく。野菜が肉汁を吸って、艶やかに輝いた。
「肉汁を回しかける『アロゼ』を野菜にやってあげるんです。そうすると、全体に旨味が行き渡るんです」
再びオーブンに戻し、さらに三十分。厨房中が食欲をそそる香りで満たされていく。ローストチキンの香ばしい匂い、ハーブの爽やかな香り、レモンの柑橘の香り──それらが複雑に絡み合い、まるで香りの交響楽のようだった。
ついに焼き上がりの時間。
オーブンから取り出された鶏は、まるで芸術品のような美しさだった。皮は完璧な黄金色で、パリパリに焼き上がっている。切り分けると、中から透明な肉汁があふれ出し、ハーブバターの緑と混ざり合う。
「わぁ……!」
セシリアが感嘆の声を上げた。
「中まで完璧に火が通ってる。それなのに、しっとりで柔らかいわ」
リュカはにっこりと微笑んだ。
「ハーブバターが肉を包み込んで、水分を逃がさないんです。だから、柔らかに仕上がるんです」
二人の前には、見事な『薬草園風若鶏のロースト』が並んだ。黄金色の皮、ジューシーな肉、香り高いハーブ、そして野菜の彩り──すべてが完璧なハーモニーを奏でている。
「じゃあ! いただきましょう!」
「はい、いただきましょうか」
ナイフを入れると、皮がパリッと音を立て、中から肉汁があふれる。口に運ぶと──
「わあぁ! なんて美味しいのかしら……!」
セシリアの表情が至福に包まれた。
「皮のパリパリ感と、中のジューシーさ。ハーブの香りが鼻から抜けて……これ、お兄様のより美味しいかも」
リュカも一口食べて、満足そうに頷いた。
獣人のリュカにとって塩加減は過剰に感じられるが、それ以上にハーブが肉の旨味を最大限に引き出していることで、香りを好む獣人の舌が美味しいと告げていた。
「よかったです。それと……セシリアさん一緒に作れて楽しかったです」
「本当!? 料理って、誰かと一緒だと本当に楽しい、作るのも、食べるのも」
窓の外では、夕陽が王宮の尖塔を赤く染め始めていた。
外部厨房に差し込む柔らかな光が、二人の作った料理を黄金色に輝かせている。
明日への不安はまだ消えていない。しかし、この瞬間だけは、すべてを忘れて料理の喜びに浸ることができた。
「……ねぇ、リーナさん」
セシリアが突然、真剣な表情になった。
「私、あなたが本当は誰なのか、聞かないわ」
その言葉に、リュカの手が止まった。
「でも、一つだけ言わせて。今日は本当に楽しかった! あなたが誰であっても、私たちは友達!」
セシリアの青銀色の瞳には、優しさと理解が満ちていた。
「セシリアさん……」
「明日の饗宴、きっと大変でしょう。でも、あなたならきっと大丈夫。……だけど、私にも何かできることがあれば協力させて。私とあなたは『友達』なんだから」
セシリアは励ますように微笑んだ。
「だって、あなたの料理には心がこもってるもの……それは誰にでも伝わるわ。黎明市も、ソラリス商会の披露会も、全て素晴らしかったもの」
窓の外では、夕陽が王宮の尖塔を赤く染め始めていた。外部厨房に差し込む柔らかな光が、二人の作った料理を黄金色に輝かせている。
明日への不安と、今日得た新しい友情──リュカの心には、複雑な感情が渦巻いていた。しかし、セシリアと過ごしたこの時間は、彼女にとって忘れられない宝物となった。
二人は夕暮れの厨房で、静かに料理を味わいながら、言葉にならない絆を深めていった。




