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第109話:歴史の影(1)

2025/06/24:誤字を修正

 早朝、春原は王宮書庫への道を急いでいた。青みがかった朝の光が、朝露で濡れた石畳を静かに照らしている。


 昨日の出来事——王宮からの突然の召喚依頼と、リュカが獣人料理を知らないという事実。その問題を解決するために、春原は王宮書庫で情報収集することを決意した。


 王宮書庫の重厚な扉を開くと、高く積み上げられた書架が整然と並ぶ静謐な空間が広がっていた。天井からは柔らかな魔導灯の光が差し込み、ところどころに学者や官吏たちが黙々と書物に向かう姿が見える。


 春原は書庫案内係に獣人国ハラナ・ファルに関する資料の場所を尋ね、歴史書が並ぶ一角へと向かった。


「よし、まずはハラナ・ファルの情報から」


 春原は小声で呟きながら、いくつかの書物を手に取る。『ハラナ・ファル王国史』『十年燃灰期戦記』……。

 そして静かな読書スペースに腰を下ろし、資料を広げた。しかし、書物には基本的な歴史や文化については書かれているが、肝心の料理文化についての記述はわずかしかない。


「獣人は肉食を好み……」

「狩猟の獲物を調理する技術が発達し……」

「もとは遊牧民だった獣人族たちは独特の発酵飲料を好んだ……」


 そして十年燃灰期——獣人国とオルステリア王国の戦争についての記述に辿り着いた。


「星暦五百一年、ハラナ・ファル部族連合が最終降伏し、大陸統一宣言……今からだと十七年前か」


 しかし、どの書物も表面的な歴史事実を淡々と述べるばかりで、実際の戦争の様子や、戦後の獣人社会や文化がどうなったのかについての具体的な記述は少ない。


「どれも戦争の結果は書いてあるけど……当時の獣人たちの生活や、彼らの伝統料理についての記述はほぼ見当たらないな……」


 春原はため息をつきながら、案内係の元へ戻った。


「もっと詳しい獣人の文化や料理に関する資料はありませんか?」


 白髪の老案内係は眉を寄せ、小さな声で答えた。


「そのような詳細な資料は特別書庫に保管されておりまして、閲覧には王宮の特別許可と申請書が必要になります。ただ、学者や官吏でなければ申請を行なっても、許可を得るのは難しいと思われますが、いかがされますか?」


 春原の表情が曇った。


「そうですか……わかりました。ありがとうございます」


 春原は短く会釈して、その場を後にした。学者でも官吏でもない彼にとって、これ以上、王宮にある書物から情報を得ることは難しいと判断した。


「他に何か方法は……」


 すると書架の向こうに、春原が王宮で良く知る人物を見かけた。


「あ、エドモンドさん!」

「春原さん、ご無沙汰しております。お元気でしたか?」


 エドモンドは手元の書物から顔を上げ、優しく微笑んだ。王宮書庫の司書としての風格を漂わせる中年の男性は、いつも春原に親切にしてくれた人物だった。


「はい、おかげさまで。実は先日、王都調理師協会の二級試験に合格したんです」

 春原は少し照れくさそうに報告した。


「それは素晴らしい!  おめでとうございます」

 エドモンドは心から喜ぶような表情を見せた。


「王宮を離れられてから、着実に自分の道を歩まれているのですね。東区の『銀の厨房』で腕を振るっていると聞いていましたが、正式な資格まで取得されたとは」


「ありがとうございます。エドモンドさんが書物を紹介してくださったおかげです」


「いえ、全ては春原さんの日々の努力と姿勢の賜物ですよ……おや? 今度は歴史書をお読みになっているのですか?」


 エドモンドは春原の手に抱えられた書物に目を落とした。


「はい、実は……獣人の国ハラナ・ファルのことについて調べてまして」


 エドモンドの表情がわずかに曇った。彼は静かに首を傾げた。


「ハラナ・ファル……ですか。なぜ興味をお持ちに?」

「えっと……単純に『獣人国ハラナ・ファル』の歴史と料理文化に興味がありまして。でも書物だけでは……当時のことがよく見えず」


 春原は獣人国の大使への料理を依頼されたことは、あまり公にするべきことではないと判断し、濁すようにして答えた。


 エドモンドはしばらく黙って春原の表情を探るように見つめた後、小さくため息をついた。


「なるほど……確かに公に公開されている歴史書では、表面的な記述しか見つからないでしょう」

「やはりそうでしたか」


「実を言えば、書物に書かれていることと実際に起こったことには大きな違いがあるのです。私は当時、王宮医療団の一員として前線で救護活動をしていました。戦争末期から戦後にかけて、あの地で多くのことを目撃しました」


 エドモンドの目には、遠い記憶を辿るような曇りが浮かんでいた。


「実際に起こったこと…ですか?」


 春原の心臓が早鐘を打ち始めた。これは書物には記されていない、生の証言だ。


「もしよろしければ……教えていただけませんか?」


 エドモンドは周囲を慎重に見回し、声を潜めて言った。


「ええ、構いませんよ。でしたら、私の司書室でお話しましょうか。ここでは耳障りな話題もあります」


 二人は書架の奥にある小さな司書室に移動した。エドモンドが扉を閉め、慎重に魔導灯の明かりを調整する。部屋は小さいながらも整然と整理され、壁には様々な地図や図表が貼られていた。窓からは王宮の中庭が見渡せる。


 エドモンドは重厚な木製の椅子に腰掛け、春原にも座るよう促した。


「今から二十年ほど前になりますね……私は医療部隊として前線に従軍していました」


 エドモンドの声は静かだったが、その一言一言に重みがあった。


「獣人たちの戦いぶりは……壮絶の一言で言い表すには難しいほどです。最後の一兵まで、故郷を守ろうとして戦い抜いておりました」


 春原は息を飲んだ。


「そんなに激しい戦いだったんですか……」

「ええ。しかし、オルステリア王国の魔導兵器の前では…伝統的な戦術では太刀打ちできませんでした」


 エドモンドの目が遠くを見つめる。その瞳には、今も消えない戦場の記憶が宿っているようだった。


「ですが、十年燃灰期と呼ばれた戦争が終わった後こそが、本当の悲劇の始まりでした」


 春原はじっと耳を傾けた。エドモンドの声は次第に重く、沈痛なものになっていく。


「あれは単なる戦後処理などではありませんでした。オルステリア王国による、ハラナ・ファルへの一方的な報復とでも言えるでしょう」


「報復? オルステリアは戦争に勝ったのにもかかわらずですか?」


 春原の声には驚きが滲んでいた。エドモンドはゆっくりと頷いた。


「はい……戦争戦犯としてハラナ・ファルの王族や戦争に加担した特権貴族、軍事的指導者の集団処刑がなされ、『我々に反抗すればこうなる』という……他の国々への警告。国際社会に向けて、我が国の弾圧的な力を示すための……」


 エドモンドの言葉は途切れがちだった。彼の手は震え、額に薄い汗が浮かんでいる。


「そして、反発した一部特権階級や民衆による復権を叫ぶ者たちによる武装蜂起が、ハラナ・ファルの内部紛争へと発展しました。一般の民も多く犠牲になる悲惨な内乱として」


 春原は固唾を呑んで聞いていた。彼がこれまで読んできた歴史書には、このような詳細は一切記されていなかった。


「絶望的な抵抗でした。最終的には鎮圧されましたが、その過程で更なる悲劇が生まれました。オルステリアも紛争解決のため『反乱分子の掃討』という名目で出兵していたのです。ですが、その実態ですら対外的な見せしめだったと思われますが」


「見せしめ……」


 春原の声は震えていた。彼の脳裏には、東区で見てきた獣人たちの暮らしが蘇る。彼らが肩身の狭い思いをしながら生きていることの背景が、今ようやく理解できた気がした。


「そして、圧力的な外交を続けていたオルステリアは、国際的な非難が高まることを危惧し、『全種族平等法』を公布したというのが、ことの顛末です」


「全種族平等法……でも実際のところは」


 春原の言葉にエドモンドは苦い表情を浮かべた。


「はい。法律は作られましたが……ご存知の通り、現実の差別や偏見はそう簡単には消えませんでした」


 静寂が二人を包む。外からは書庫の静かな物音だけが聞こえる。


「春原さん、なぜこのようなことをお聞きになるのですか?」


 春原はエドモンドの真摯な眼差しに応えるように、真実を話すことにした。


「実は……獣人国の大使の方に料理をお出しすることになりまして」

 エドモンドの目が見開かれた。


「リーナ=ティ=エンセリナ大使に?……それは重要な任務ですね」


 エドモンドの声には、どこか緊張感が混じっていた。


「彼女は……複雑な立場にある方ですので」

「複雑な立場ですか?」


 春原の問いかけに、エドモンドは静かに椅子から立ち上がり、窓の外を見やった。彼の姿は窓から差し込む光に照らされ、影が長く伸びていた。


「リーナ=ティ=エンセリナ大使は……かつてのハラナ・ファル王族の血を引く方です」


 その言葉に、春原は息を飲んだ。


「王族の……血筋?」

「ええ。かつての獣人王レオニード=ヴァル=エンセリナの孫娘にあたります。彼女が幼い頃、戦後の混乱期に母親ソフィアがオルステリアに協力的な姿勢を示したため、粛清を免れたのです。リーナ大使は幼い頃から『管理された王族』として育てられ、わずか十四歳という若さで獣人国の大使に任命されました」


「でも、それはあまりにも…」


 春原の言葉を、エドモンドは静かに遮った。


「政治とはそういうものなのです」


 春原は眉をひそめた。彼の心には様々な感情が渦巻いていた。リュカも獣人として、この歴史の重荷を背負っているのだろうか。


「つまり、今回の料理の依頼は……」

「単なる饗宴ではなく、政治的な意味合いを持つ儀式なのでしょう」


 エドモンドは静かに答えた。彼の目には、長年の経験から来る冷静な分析が宿っていた。


「では、どうすれば……」

 春原の問いかけは途中で途切れた。どうすればリュカを助けられるのか、どうすれば獣人大使に相応しい料理を提供できるのか、彼の心は混乱していた。


 エドモンドは穏やかな微笑みを浮かべた。


「あなたの優しさは理解できます。しかし、この状況で最も大切なのは……真実を知ることです」


 彼は書架に向かい、ひとつの古い書物を取り出した。表紙には「北方草原の風土と民俗」と書かれている。


「この書物には、獣人たちの日常生活や伝統行事、そして…料理について詳しく書かれています」


 春原は驚いて本を受け取った。


「でも、なぜこんな詳しい本が……」

「これは私が個人的に集めていた学術書です。草原地方に実際に暮らした学者の研究記録です。料理の章は特に詳しい。獣人国の伝統文化や歴史など、この書物を見ていただければ何かお力添えできるかもしれません」


 春原の目が輝きを取り戻した。これはリュカの助けになるかもしれない。


「エドモンドさん、ありがとうございます!」

「いえ……」


 エドモンドは少し俯き、静かに続けた。


「私も医療部隊として多くの獣人を治療しました。彼らの中には子供も老人もいました。戦争とは関係のない普通の人々……」


 彼の声は次第に小さくなっていった。


「その記憶は今も私の中に生きています。オルステリア王国の民としてではなく一人の人間として、少しでも和解への一歩になることを祈っています」


 春原は重々しく頷いた。

「大切に使わせていただきます」


 エドモンドは静かに微笑んだ。

「お力になれれば幸いです。歴史の真実を知ることは、未来を守るために重要なことですから」


 エドモンドの言葉に、春原は静かに頷いた。

 窓の外では、太陽が高く昇り、王宮の庭園を明るく照らしていた。


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