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第105話:帰るべき場所(1)

 夕暮れの空が茜色に染まる頃、春原は東区の石畳を歩いていた。王都調理師協会の試験場から『銀の厨房』まで、かなりの距離がある。しかし、ルドルフとの会話で心が軽くなった彼の足取りは、疲れを感じさせないほど軽やかだった。


 角を曲がると、見慣れた『銀の厨房』の看板が見えてきた。二階建ての小さな建物は、どこか懐かしいような温かみのある佇まい。窓からは明かりが漏れている。


 春原は自然と微笑んだ。この場所は、今や彼にとって「帰るべき場所」になっていた。異世界に来てからの数ヶ月間、ここで得たものは計り知れない。


 店の前まで来ると、中から慌ただしい物音が聞こえてきた。


「クラリスさん、それ違います! 砂糖じゃなくて塩です!」


 リュカの焦った声。


「え!? あ、ほんとだ!」


 クラリスの驚いた声に続いて、ガシャンという大きな音が響いた。


「あぁ、小麦粉がこんなに……」

 リュカの嘆息。


 春原は扉の前で立ち止まり、思わず笑みを浮かべた。

 二人がどんな騒動を起こしているのか、想像がつく。クラリスが商才はあっても家事には疎いことは、すでに身をもって経験済みだった。


 深呼吸をして、春原は扉に手をかけた。



「ただいま」



 優しく扉を開けると、そこには予想通りの光景が広がっていた。

 厨房は小麦粉の白い雲に包まれていた。まるで雪が降ったかのように、調理台も床も真っ白だ。そんな粉塵の中心に、リュカとクラリスが立っていた。


 リュカの獣耳には白い小麦粉が付着し、いつもの清潔に保たれている調理服も粉だらけになっている。翡翠色の瞳が驚きで見開かれていた。


 クラリスも同様だった。いつもの洗練された商人の出で立ちは消え、顔と服は小麦粉まみれ。髪も白く染まり、まるで別人のようだ。



「「あ……」」



 二人は同時に声を上げた。その表情には、驚きと困惑、そして少しの恥ずかしさが混ざっていた。

 一瞬の沈黙が流れる。


「な、なんでもないから! 見なかったことにして!」


 クラリスが慌てて叫んだ。彼女の頬は紅潮し、普段の冷静さはどこへやら。両手で粉まみれの服を払いながら、まるで犯行現場を見られた子供のような表情を浮かべている。


「す、春原さん、お帰りなさい。試験、お疲れ様でした」


 リュカは慌てて小麦粉を払いながらも、礼儀正しく挨拶した。

 しかし、彼女の獣耳は恥ずかしさからか、少し下がっている。


「ありがとう。二人とも何してたの?」


 春原は厨房の惨状を見回しながら尋ねた。調理器具が散乱し、ボウルや泡立て器が無造作に置かれている。普段のリュカなら考えられない光景だ。


「べ、別に、甘いものでも食べたいと思って! ただケーキ作ってただけ!」


 クラリスは強がりながらも、どこか挙動不審だった。


「その……クラリスさんが、試験お疲れ様でしたってケーキを作ろうと提案してくださって……あっ」


 リュカが静かに告白した。獣耳が恥ずかしそうに少し倒れている。

 彼女の表情には、秘密を明かしてしまった申し訳なさが浮かんでいた。


「ちょ! リュカ、それは言わないでって!!」


 クラリスの声が一段と高くなった。彼女の瞳には、焦りと恥ずかしさが交錯している。まるで自分の優しさを暴露されたことが、この上なく恥ずかしいかのように。


 春原は二人の姿を見て、温かい気持ちになった。

 試験で合格したことよりも、こうして帰る場所があることが、彼にとっては何よりの幸せだった。


「それで……結果はどうでしたか?」


 リュカが不安そうに尋ねた。彼女の瞳には、心配と期待が入り混じっている。


「……まさか落ちたとか言わないでしょうね」


 クラリスはわざと強がるような口調で言ったが、その声音には明らかな心配が滲んでいた。普段の鋭い視線も、今は柔らかさを帯びている。


 春原はポケットから合格通知を取り出し、二人に見せた。


「合格したよ!」


「よかった。本当に良かったです。……春原さんなら大丈夫だと信じてました」


 リュカの表情が明るく輝いた。彼女は思わず春原に駆け寄ろうとしたが、自分の手が小麦粉まみれであることに気づいて、急に立ち止まった。しかし、その獣耳は嬉しさから活発に動いている。


「ふーん、まぁ私の対策が完璧だったからね」


 クラリスは顔を背けたが、その横顔には満面の笑みが浮かんでいた。彼女なりの喜びの表現だ。


「って、ちょっと! 泣いてないから! 目に小麦粉が入っただけ!」


 クラリスが突然言い訳をした。春原はそれを指摘していなかったが、彼女の瞳が潤んでいたことは確かだった。


「でしたら、もうこちらは合格祝いのケーキですね」


 リュカは嬉しそうに獣耳を動かしながら言った。彼女の表情には、純粋な喜びが溢れていた。


「そうよ! 最初から合格祝いのつもりだったんだから!」


 クラリスは胸を張った。彼女の自信に満ちた態度は、まるで最初から春原の合格を疑っていなかったかのようだ。


「でも、もし落ちてたら?」

 春原はからかうように尋ねた。


「……そ、その時は慰めのケーキよ」


 クラリスは少し恥ずかしそうに答えた。彼女の声には、普段の強気さより柔らかな響きがあった。


「ははは! ありがとう。……じゃあ、皆んなで作ろう。その方がきっと楽しいよ」


 春原は笑顔で提案した。今日ルドルフから学んだことを思い出しながら。料理は技術だけじゃない。誰かと一緒に作ること、誰かを喜ばせること、それが本当の料理なのじゃないかと。


「え? でも、これは私たちからのお祝いで……」

 クラリスは少し戸惑った様子で言った。


「僕にとっては、みんなで一緒に作ることが一番のお祝いだよ」

 春原の言葉に、リュカの獣耳が嬉しそうに前に傾いた。


「……そうですね。では三人で作りましょう」


 リュカの声には、温かな感情が溢れていた。

 瞳がわずかに潤んでいるのは、小麦粉のせいだけではないだろう。


 三人は顔を見合わせ、笑顔を交わした。

 外では夕暮れが深まり、星が一つ二つと輝き始めていた。『銀の厨房』の窓からは、温かな光が街へとこぼれ落ちていく。


 小麦粉の舞った厨房は、きれいに掃除し直された。

 調理台の上には、必要な材料と道具が整然と並べられている。


 三人はエプロンを着け、調理台の前に立っていた。春原は中央に、右にリュカ、左にクラリスという配置。それぞれの前には、担当する作業のための準備が整えられている。


「まず最初に、材料を計量しましょう」


 リュカが静かに言った。

 彼女は獣人特有の正確さで、小麦粉、砂糖、バターを手際よく量り始めた。


「任せて! この計量、私がやるわ!」


 クラリスが自信満々に言った。彼女は商人として数字に敏感だ。天秤を使うような精密さで、砂糖と塩を別々の小皿に分けていく。


「ありがとう、クラリス。計量は正確さが命だからね」

 春原は微笑みながら言った。


「ふふふ、当然でしょ。商会での仕事は、一銅貨の誤差も許されないのよ」


 クラリスは誇らしげに胸を張った。彼女の動きには、確かなプロの技が見て取れる。

 春原は卵を割る担当となった。丁寧に卵をボウルの縁に軽く叩き、中身を出していく。


「なんで卵ってこんなに割りにくいの!」


 クラリスが自分の卵に挑戦しようとするが、力が強すぎて殻が中に入ってしまった。


「ちょ! 卵が粉々になってる……こうやって、縁で軽く叩いて……」


 春原はゆっくりと動作を見せながら説明した。

 リュカもじっと見ている。三人の息が揃い始めているのが感じられた。


「では、クリームの泡立ては私がやりますね」


 リュカが言った。彼女は泡立て器を手に取り、獣人の腕力を活かして高速で泡立て始めた。シャカシャカシャカ!という音が厨房に響き渡る。その速さは尋常ではなく、あっという間に生クリームが角が立つほどに泡立った。


「ずるい! そんなの私たちじゃ無理じゃない」


 クラリスが抗議の声を上げた。彼女の頬は少し膨らみ、子供のような不満顔が可愛らしい。


「クラリスは計量が正確だよ。さすが商会仕込み」


 春原の言葉に、クラリスの表情が明るくなった。


「ふふふ、当然でしょ」


 彼女の自信に満ちた笑顔に、春原とリュカも思わず笑みを返した。


「あ、クラリスさん、卵白が少し残ってます」

 リュカが優しく指摘した。彼女の視線は鋭く、調理台の隅々まで見逃さない。


「難しい……」


 クラリスは少し困った表情を見せたが、諦めずに取り組んでいる。彼女の表情には、料理への新鮮な好奇心が宿っていた。


 春原は二人の様子を見ながら、生地を混ぜていく。試験でのことが頭をよぎった。あの時は効率と技術を追求するあまり、料理の本質を見失いそうになった。でも、今はどうだろう。

 三人の動きには無駄があるかもしれない。完璧な連携ではないかもしれない。しかし、そこには確かな温かさがある。笑い声がある。楽しさがある。


「小麦粉を振るいにかけますね」


 リュカの声が春原の思考を中断させた。彼女は丁寧に小麦粉を振るい、ふわりと空気を含ませていく。その所作には、料理への深い愛情が感じられる。


「春原さん、次はどうしますか?」


 リュカの問いかけに、春原は笑顔で答えた。


「生地を混ぜながら、空気を含ませていく。ふわふわのケーキにするためには、この工程が大切みたいだよ」


 春原は木べらを使って、優しく生地を底から持ち上げるように混ぜていく。


「あ、そうやって混ぜる方法があるんですね」

「前に王宮書庫でみた料理本に書いてあったんだ。とはいっても、知識だけだけどね」


 リュカが興味深そうに見つめる。彼女の料理の知識は広いが、ケーキ作りの経験はそれほど多くないのだろう。


「私にもやらせて」


 クラリスが手を伸ばした。彼女の瞳には、挑戦する意欲が宿っている。


「どうぞ」


 春原は微笑みながら木べらを渡した。クラリスは慎重に生地を混ぜ始める。最初はぎこちなかったが、次第に動きが滑らかになっていく。


「そう、その調子」

 春原の励ましに、クラリスは誇らしげに笑った。


 時間が経つにつれ、厨房に甘い香りが立ち込め始めた。

 オーブンからは温かな熱気が漂い、窓ガラスが少し曇るほどだ。


 三人の動きはより自然に、より一体感を持って進んでいく。リュカが材料を渡すと、クラリスが計量し、春原が混ぜる。まるで長年一緒に料理してきたかのような、滑らかな連携が生まれていた。


 しかし、それは試験での機械的な効率性とは全く違う。

 そこには笑顔があり、時に失敗もあり、そして何より、三人の心がある。


「あ、クラリスさん、それは……」


 リュカの警告が遅れ、クラリスは小麦粉の袋を誤って倒してしまった。

 白い粉が再び調理台に広がる。


「あ、ごめん! また、やってしまった……」


 クラリスが慌てた様子で謝った。彼女の頬は恥ずかしさで赤く染まっている。


「大丈夫、大丈夫」

 春原は笑いながら、小麦粉を払った。


「料理は失敗もセットだよ」

「まさか私が二回も同じ失敗するなんて……」


 クラリスは呆れたような表情を見せたが、その目には笑みが宿っていた。


「それが料理の面白いところですね」


 リュカも静かに微笑んだ。獣耳が嬉しそうに揺れている。


 三人はお互い小麦粉に塗れた姿を見つめ、思わず笑顔を交わした。


 春原の心は温かな感情で満たされていた。

 試験合格の喜びより、今この瞬間の幸せの方が大きい。リュカとクラリスと一緒に料理をする、この何気ない日常が、彼にとっては何より大切なものになっていた。


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