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第3部 間話:数値化できない研究者(2)

 料理を食べ終えたアシュレイの前に、リュカがそっと近づいてきた。彼女の翡翠色の瞳には、純粋な関心と少しの不安が宿っている。


「お味はいかがでしたでしょうか?」


 その瞬間、アシュレイの思考が完全に停止した。

 リュカの表情には打算も計算もない。


 ただ純粋に、お客様に満足してもらえたかを気にかける、料理人としての真摯な想いがあるだけだった。

 アシュレイは答えに窮した。「美味しい」という単純な言葉では、この複雑な感動を表現できない。かといって、科学的な分析結果を述べるのも適切ではないように思えた。


「……調理過程における熱量配分は適切で、栄養バランスも理想的数値に近く……」

「アシュレイ、素直に美味しいって言いなよ」


 春原が苦笑いしながら割り込んだ。


「……確かに美味しい、ということだろう」


 アシュレイが曖昧な表現で答えた瞬間、リュカの顔に天然の、心からの笑顔が浮かんだ。


「よかったです」



 その笑顔を見た瞬間、アシュレイの脳内で警報が鳴り響いた。


 ──あの表情……計算式に当てはめられない!


 心拍数が上昇し、体温も上がっている。これは一体何の反応なのか。魔力による影響は一切検出されないのに、なぜこれほどの威力があるのか。


 ──心拍数上昇……体温上昇……これは一体何の反応だ!?


 アシュレイの内心は完全にパニック状態だった。十八年間の研究人生で培った知識と理論では、この現象を説明することができない。


「魔力反応はゼロなのに、なぜこれほどの衝撃が……危険だ……これは非常に危険な現象だ」


 リュカは彼の様子を見て、心配そうに首をかしげた。


「お口に合わなかったでしょうか? 何か足りないものがあれば……」


 不安そうに動く獣耳、心配そうにまっすぐアシュレイを見つめる翡翠色の瞳——その仕草一つ一つが、アシュレイの理性を完全に破綻させていく。


「い、いや……問題ない」


 アシュレイの声が裏返った。自分でも驚くほど動揺していることが、声に表れてしまっている。


「でしたらよかったです」



 リュカがまた微笑んだ瞬間──、



 ──アシュレイの脳内回路はダウン寸前になった。



 春原は状況を見て、内心で大いに楽しんでいた。普段冷静で理論的なアシュレイが、これほどまでに動揺する姿は滅多に見られない。


「アシュレイ、顔真っ赤だけど大丈夫?」

「な、何を言っている、私は冷静だ」


 アシュレイは必死に反論したが、明らかに動揺しまくっている。ノートを落としそうになったり、ペンを取り落としそうになったり、普段の冷静さは完全に失われていた。


「か、会計を……会計を頼む」

 アシュレイは慌てて財布を取り出そうとしたが、手が震えて上手くいかない。これ以上この店にいると、自分の理性が完全に崩壊してしまいそうだった。


「ありがとうございました。またお越しください」


 リュカの最後の笑顔で──、



 ──アシュレイは完全にトドメを刺された。



「あ、ああ……」

 もはや言葉にならない状態で、足取りもおぼつかず彼はお金を置いて立ち上がった。


「もう帰るの?」

「春原! こっちに来い!!」


 アシュレイは店まで、春原を引き摺り出した。東区の路地で、普段の冷静さを完全に失った研究者が、必死に平静を装おうとしている姿は愉快だった。


「春原! 緊急事態だ!」

「え? どうしたのアシュレイ、顔真っ赤だよ?」


 春原の指摘に、アシュレイは必死に否定した。


「赤くない! 冷静だ! 私はいたって完全に冷静だ!」

 しかし、その言葉とは裏腹に、彼の表情は明らかに動揺を示していた。


「あの少女は何なのだ!! 春原!」


 アシュレイの突然の叫びに、春原は困惑した。


「あの少女って……リュカさんのこと?」

「そうだ!『リュカサン』さんというのか! あの微笑みのパーセプション指数を測定したことはあるか!?」


「リュカ・ヴァレンって名前なんだよ……微笑みのパーセプション指数ってなに?」

 春原の冷静な突っ込みに、アシュレイはさらに混乱した。


「当然だろう! あれは明らかに何かの力を発している! 私の十八年間の研究成果では説明がつかない現象だ!」

「十八年って……アシュレイまだ二十六歳だよね?」

「八歳から研究を始めている! 問題はそこではない!」


 アシュレイは必死に弁解したが、春原の冷静さが彼をさらに追い詰めていく。


「えっと……愛情、とか?」

「愛情!? そんな非科学的な……」


 アシュレイは言葉に詰まった。愛情という概念を科学的に説明することができない。


「待て、春原。落ち着いて分析するんだ」

「僕はいたって冷静だよ」


 彼はノートを取り出し、震える手で数式を書き始めた。


「微笑み角度30度、眼の輝き係数……瞳孔の収縮率……」

「それで説明つくの?」

「つかない! 全くつかないではないか! ぐわあああ! 私の理論が! 私の数式が!」


 アシュレイは路地で叫び、ノートを振り回した。通りがかりの人々が驚いて振り返るが、彼にはもはやそんなことは気にならなかった。


「私は魔導現象の全てを理解していると思っていた。魔素、ルネタイト鉱石、魔道具……すべて数値化できる現象だった」


 彼の声には、深い絶望が込められていた。


「なのに、あの笑顔は……あの温かさは……」

「ねえ、アシュレイ。それって、もしかして恋なんじゃない?」


 春原の何気ない一言が、アシュレイに決定的な衝撃を与えた。


「恋!? 恋とは何だ? 数式で表現してみろ! 」

「いや、普通に可愛い子だなって思っただけでしょ?」

「『可愛い』だと? 貴様は『可愛い』という概念を定量化したことがあるか!?」

「しないよ、普通……」


「だからダメなんだ! すべてを定量化しなければ真理には到達できない!」

「でも今回は定量化できなかったんでしょ?」


 春原の冷静な指摘に、アシュレイは言葉を失った。


「ぐぬぬ……」


 彼の十八年間の研究人生で築き上げた理論体系が、一人の獣人少女の笑顔によって完全に瓦解した瞬間だった。

 アシュレイの混乱を見かねて、春原は優しく説明を始めた。


「リュカさんは、いつも『誰かのために』って気持ちで料理してるんだ」

「誰かのために……?」

「それが伝わってくるから、心が温かくなるんじゃないかな」


 春原の言葉に、アシュレイは困惑した表情を浮かべた。


「心が……温かく……? 心の温度測定は可能なのか?」

「いや、そういうことじゃなくて……」


「つまり……感情というデータが料理に影響を与えている?」

 アシュレイの研究者としての本能が働き始めた。


「まあ、そんな感じじゃないかな」

「感情の数値化……これまで考えたことがなかった」


 彼の目に、久しぶりに研究者としての輝きが戻ってきた。


「もしかすると、新たな研究分野かもしれない」

「感情が物質に与える影響……料理という媒体を通じた感情の伝達……これは……これは革命的な発見になるかもしれない」


 アシュレイの興奮が高まっていく。混乱から立ち直った彼は、新たな研究テーマを見つけた喜びに満ちていた。


「……よし、私はまた来るとしよう。この現象を詳しく調べ理論的に説明する義務がある」

「研究目的で?」


「……ああ、実に研究しがいのあるテーマではないか」


 アシュレイの声には確信が満ちていたが、春原には彼の本当の動機が透けて見えていた。


「あぁ……頑張ってね(面倒臭いことになったな……)」


 研究所への帰り道、アシュレイは空を見上げながら呟いた。


「あの店には……確かに特別な力がある」


 星空の下、彼は初めて「心」というものを意識し始めていた。


「料理とは……もしかすると私が思っていたよりも深いものなのかもしれない」


 数値化できない衝撃は、厳格な研究者の心に新たな扉を開いたのだった。そして、その扉の向こうには、翡翠色の瞳と温かな笑顔が待っているような気がしていた。


 アシュレイ・ノイマーの料理への探究は、この夜から始まったのである。


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