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第3部 間話:酔いどれ商人と深夜の騒動

 東区の酒場で泥酔したクラリスを背負い、春原は夜道をゆっくりと歩いていた。彼女の重みに肩が痛むが、放っておくわけにはいかない。契約の件で複雑な関係にあるとはいえ、女性一人で酔い潰れているのを見捨てることはできなかった。


 春原がクラリスを肩で支えながら『銀の厨房』の扉を開けると、リュカが振り返った。彼女の獣耳がぴくりと動き、次の瞬間、瞳が大きく見開かれる。


「え……春原さん? それに、クラリスさん?」


 リュカの獣耳が警戒と困惑で小刻みに震えた。なぜソラリス商会の契約担当者が、こんな時間にこんな状態で……?


「あ、えっと……説明すると長くなるんだけど」


 春原は苦笑いを浮かべながら、ふらつくクラリスを支え直した。


「偶然、東区で会って……それで、結構酔ってたから放っておけなくて」

「そ、そうですか……」


 リュカは戸惑いながらも、クラリスの様子を心配そうに見つめた。契約相手とはいえ、困っている人を見捨てることはできない。


「とりあえず、中に入ってください」

 春原の肩にもたれかかったクラリスは、薄っすらと目を開けて辺りを見回した。


「あれー? ここは……『銀の厨房』? なんで私……」

「クラリスさん、大丈夫ですか?」


 リュカが心配そうに声をかける。彼女の鋭敏な嗅覚が、クラリスから立ち上るお酒の強い匂いを捉えていた。


「あ! リュカちゃん! 綺麗ねー、あなた。私より綺麗。ずるいわー」


 クラリスはリュカの頬をぺたぺたと触り始める。リュカの獣耳が困惑で後ろに倒れ、瞳が戸惑いの色を浮かべた。


「あ、ありがとうございます……とりあえず、私の部屋で休んでいただきましょうか」

「えー、まだ飲み足りないのよー! 春原も付き合いなさいよー!」


 クラリスは春原の袖を引っ張った。


「もう十分飲んだでしょ。水でも飲んで少し休もう」

「やだー! まだ楽しい話してないもの! 私の武勇伝聞く? 上司に怒鳴られた時に泣かなかった話とか……いつも一人でお昼食べてる話とか……」


 クラリスの声が次第に切なくなっていく。春原とリュカは顔を見合わせた。


「……クラリス、それ武勇伝じゃないよ」


 三人でなんとか二階に上がると、クラリスはリュカの寝室のベッドに腰掛けた。しかし、じっとしていられない様子で、すぐに立ち上がってふらつく。


「あー、この服窮屈! スーツって嫌いなのよー。毎日毎日、堅苦しくて……みんな私のこと『契約マシーン』って呼んでるのよ。機械じゃないのに……」


 クラリスは自分の服のボタンを外し始めた。


「あ、あの、クラリスさん!」


 リュカが慌てて声をかける。獣耳が慌てふためいて立ち上がった。


「着替えが必要でしたら、私がお手伝いしますので……春原さんは一度お部屋に」


「え? あ、うん。分かったよ」


 春原は慌てて自分の部屋へと向かった。



◆◆◆◆◆◆



 しばらくすると、廊下に春原の足音が聞こえてきた。何やらリュカが慌てたような声を出している。


「あの、クラリスさん、こちらに袖を通して……」

「やだ! 暑いのよー! 商会はいつも寒くて、でも今日は暖かいの! みんな優しいから!」


 そのとき、クラリスの大きな声が響いた。


「春原――! どこいったのよー! まだ付き合いなさいよ!」

「ちょ、ちょっと待ってください! 上着が……」

「春原――!」


 扉が勢いよく開き、上着がはだけたままのクラリスが部屋に入ってきた。慌てたリュカが後を追う。


「クラリスさん! 危ないです!」

「あ、いた! 春原! 逃げちゃダメー!」


 クラリスは春原に抱きついた。春原は顔を真っ赤にして目を逸らす。


「ちょ、クラリス! 服! 服着て!」

「あら、私の服どうかした? 可愛い?」

「可愛いけど! いや、そうじゃなくて!」


 リュカが慌ててブランケットを持ってきて、クラリスに羽織らせた。彼女の獣耳は心配と困惑で小刻みに震えている。


「もう、クラリスさんったら……」



◆◆◆◆◆◆



 なんとかクラリスに部屋着を着せ、三人はリュカの部屋に座っていた。クラリスはベッドの端に、リュカと春原は椅子に座り、まだほろ酔い状態のクラリスの話を聞いている。


「ねー、二人とも仲良しねー。羨ましいわー」

「仲良し?」


 春原とリュカが顔を見合わせる。


「そうよ! 見てるとほっこりするのよー。職場にはこんな関係の人いないもの。みんなライバルで、足の引っ張り合いで……」


 クラリスは大きくため息をついた。リュカの獣耳が、彼女の声に宿る深い疲労と孤独を敏感に察知していた。


「アレクシスは表面だけ優しくて、カーク当主は私を駒としか思ってないし……毎朝起きるのが辛いのよ」

「お仕事、本当に大変なんですね」


 リュカが優しく声をかける。春原も心配そうにクラリスを見つめていた。彼女の普段の強がりの裏に隠されていた本音に、二人は胸を痛めていた。


「うん、大変よー。毎日数字ばっかり見て、利益がどうとか、効率がどうとか……契約書ばっかり作って、人を縛り付けるようなことばっかりして……本当はそんなことしたくないのにー」


 クラリスの目に涙が浮かんだ。


「私だって、本当はもっと人の役に立つことがしたいのよー。友達と仲良く過ごしたいし、美味しいものを食べて笑っていたいし……でも、もう友達なんていないの。みんな私のこと怖がって……」


 その言葉に、リュカの翡翠色の瞳が悲しみの色を湛えた。


「クラリス……」


 春原が心配そうに声をかけると、クラリスは突然立ち上がった。



「そうだ! もう決めた! もう今の仕事嫌! 私もここで働く!」



「「え!?」」

 リュカと春原は驚いて声を上げた。


「だって、ここの方が楽しそうじゃない! リュカちゃんの料理は美味しいし、春原は優しいし、お客さんもみんないい人そうだし! 誰も私を怖がらないし!」


 クラリスは二人の手を握った。その手は小刻みに震えている。


「私、契約とか得意だから、お店の経営も手伝えるわよ! 仕入れ先の交渉とか、会計とか! お掃除でも、皿洗いでも、何でもするから!」


 その必死な表情に、リュカと春原は言葉を失った。彼女の瞳に浮かぶ涙は、単なる酔いのせいではなく、積もり積もった孤独感と絶望からのものだった。


「でも、クラリスさんはソラリス商会の……」

「商会なんてどうでもいいの! 私はここがいい! ここにいたい!」


 クラリスは涙を流しながら言った。その切実さに、リュカの獣耳が悲しみで後ろに倒れる。


「お願い! 私をここに置いて! 私、本当に頑張るから! 料理も一から覚えるし、お客様にも優しくするし……もう一人ぼっちは嫌なの!」


 クラリスの声は嗚咽に変わっていた。リュカと春原は戸惑いながらも、彼女の必死な表情を見て心を動かされた。


「クラリスさん……」


 リュカが優しく彼女の手を握り返した。その温かさに、クラリスはさらに涙を流す。


「今は酔っていらっしゃるから、明日になってもう一度考えてみてください。でも……もしも本当にお困りのことがあったら、いつでも相談してくださいね」

「リュカちゃん……優しい……こんなに優しくしてもらったの、本当に久しぶり……」


 クラリスは再び涙を流した。


 春原も口を開いた。

「僕たちも、クラリスのことを知ることができて……きっと色々大変なこともあると思うけど、一人で抱え込まないで」


「春原も……ありがとう……」


 クラリスは次第に疲れが出てきたのか、ベッドに横になった。


「少し……眠らせて……」


 しばらくすると、クラリスの寝息が聞こえ始めた。しかし、眠りながらも時々うわ言を漏らす。


「ナナ……ごめんね……約束、守れなくて……」

「カーク当主……怖い……」

「一人は……嫌……」


 リュカと春原は毛布をかけてあげながら、小さく話した。


「本当に辛い思いをされてるんですね、クラリスさん」

 リュカの獣耳が悲しみで垂れ下がる。


「うん。きっと色んなことを一人で背負ってるんだろうね。僕も……王宮にいた時、似たようなことがあったから分かる」


 春原の表情にも、かつての自分を重ね合わせるような痛みが浮かんでいた。


「明日の朝は覚えていらっしゃらないかもしれませんが……」

「でも、今日の気持ちは本物だったと思う。だから……」


 春原は振り返り、リュカと目を合わせた。


「僕たちにできることがあるなら、力になってあげたいよね」

「はい。きっと、クラリスさんは本当は優しい方です。商会のお仕事が辛いだけで……」


 リュカの瞳に、決意の光が宿った。


「契約のことも含めて、もう一度考え直してみましょう。クラリスさんの立場も考えて……」


 二人は眠るクラリスを見守りながら、彼女の寝言に耳を傾けていた。そこには、普段見せることのない彼女の本当の想いが込められていた。


「友達……欲しい……」


 その小さな呟きに、リュカと春原の心は強く動かされた。朝になったら、きっと彼女はまた商会の代表としての仮面を被るだろう。しかし、今夜見せてくれた本当の姿を、二人は忘れることはない。



 夜が更けていく中、『銀の厨房』には静かな優しさが満ちていた。


【活動報告】

ここまで読んでいただきありがとうございます!

よければ評価・感想お待ちしてます!


これからの更新頻度について活動報告にてお知らせしています。よかったら見てね!

▶︎ 「灰かぶりの厨房」第3章を終えて:これからと謝辞?これもう謝辞じゃないよ

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